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消えた君は癒えぬ傷

 学生時代、思い返せば嫌なことしかなかった。

 あれは、高校2年生のときだったと思う。クラスの女子が少し大きなカーディガンを着始めたころ、同じように大きめのカーディガンを着た少年がいた。少年というには些か大人びていたが、そんな彼のことを目で追いかけ続けていた。そうであったと記憶している。

 クラスは一応同じであったが、話したことはなかった。そういえば、彼以外の人も話したことがなかった気がする。たぶん、私がどうしようもないほど天邪鬼だったからだと思う。まあ、どうでもいいんだけど。

 冬になると、彼はゆったりとしたブラウンのカーディガンを身に纏い、まっすぐな髪でうなじを覆い隠していた。決して特別な見た目ではなかったけど、そこがまた魅力だったんだと思う。

 遠目で眺める彼はいつもゆるやかな笑みを浮かべていて、たまにその笑みが大きくなる。高校生の私は、自分とかけ離れた表情を持つ彼のことがどうしても羨ましかったんだと思う。

 彼の周りにはいつも人がいた。でも一度だけ、子供もいないような公園で一人佇む彼を見たことがある。どこか物悲しい表情をした彼を見つめたその一瞬、なんだか世界が彼のために回っていた気がした。目をそらさなければならないのに、ずっと見つめてなければならないような。初めての感情だった。

 そして彼が私の前から姿を消したのは、それから数日後のことだった。真っ白な雪が遠くの屋根に積もった日に、彼は季節外れな花火のように真っ白な雪を赤く染めて、ブラウンの羽をはためかせて、天使になって飛び立ってしまった。

 その日の教室はなんだかさめざめとしていて、黒っぽい空気が充満していた。それに引き立てられるかのように、彼の空っぽになった席は白く輝いていた。人混みの中から抜け落ちた彼の席は、まるで私の心のようだった。

 誰とも口を利かずに家に帰るのはいつもと同じだったが、その日だけは少し遠回りをして帰った。体を纏う寒さは、風の冷たさなのか、心の冷たさなのか、そのときのわたしにはわからなかった。

 そんな冷たい日から数年が経って、私たちは高校を卒業し、大人になった。

 想像していた通りではあったが、成人式でも誰かと話すことはなかった。でも、どうしてもあの少年のことが気になって、色んな人の話をこっそり聞いて回っていた。

 最初は彼と仲が良かった男子の集団。かつての日々を思い出させるような明るい会話が広がっていたが、その会話の中に彼の名前が出てくることはなかった。

 次はクラスの中心的な立ち位置にいた女子のグループ。彼女たちもかつての嫌な気持ちを思い出させるような会話を広げていたが、またしても彼の名前は出てこなかった。

 その後も色々なところを回ったが、彼の名前を聞くことはできなかった。私はそのとき、人という今だけを生きる存在を改めて認識した。それなのに、私はいつまでも過去に生き続けている。彼と共に、生き続けている。

 

 そして私もまた、彼と同じように天使になった。彼のように花火をあげることはできなかったけど、いつまで経っても私の心は花火で輝いていた。

 暑い日のこと。見慣れた、そしてもう会うことは叶わなかったはずの少年の姿を見た。あまりの暑さに幻でも見たのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 あの頃から少しだけ大人になった私は、彼に触れたくて仕方がなくなってしまった。まるで好きな子に悪戯をする小学生のように。

 でも、大人になったはずだったのに、触れられなくて、どうしようもなくて、ただ、かつてのように、いつものように、彼をじっと見つめるしかなかった。私が知っている方法は、それしかなかった。

 ずっと、じっと、見つめていた。東から太陽が昇り、月が昇り、やがて西へ沈んでいくほど。ずっと、じっと、見つめていた。記憶を思い出し、また忘れるほど。ずっと、じっと、見つめていた。

 本当は、触れるのが怖かったのかもしれない。そういえば、自分が天邪鬼だったということを思い出した。今となってはもう、どうだっていい。触れたくて、触れられなくて、一本の線だけが超えられなくて。

 とうとう、彼に触れてしまった。彼の記憶の中に私を見た。涙が出るほど嬉しかった。

 人というのは、今を生き続ける存在だ。過去の者は、今に思い出されない限り、今を生きることはできないのだ。

 微かな記憶を手繰り寄せて、彼に触れたこの手を離さないように神経をすり減らす。彼と同じ時を過ごせるなら何をしたって構わない。あの頃の私が恐れていた、他人の視線や言葉だってもう怖くない。

 そして私は、最後に大きな嘘を吐いてしまった。

 ごめんなさい。彼の手を掴みながら、小さく何度も呟いた。その言葉が、彼の耳に触れないように。

 この嘘は、永遠に吐き続けよう。彼と、私のために。

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