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アトレーユの白馬

エッセイチャレンジを終えてから、すっかり燃え尽き症候群になってしまった。
「書くぞ」と決めていたときは1日のうちに何度もネタを書き留めたのに、それすらできない。何を書けば良いのかさっぱりわからない。
読書感想文の書き出しが思い付かず、結局夏休みの最終日に泣きながら書き殴る小学生みたいなものだ。(うちの長男か)

「まぁ、別に仕事ってわけでもないし…」

そう。私が更新しなくても誰が困るわけでもないのだ。気楽に行こう、気楽に。

***

更新をやめてからの5日間について触れたい。
夏休みらしくプールに行ったり、映画に行ったり、習い事の送迎をしたり。長男と一緒にタイピングのオンライン講座に参加したりもした。なかなか充実していた。

でも、そんなのはせいぜい半日程度のこと
で、あとの時間はホント何もしていなかった。食事を作ったり掃除をしたり、最低限の家事以外の時間のほとんどが空き時間。the夏休みである。

やらなきゃいけないことはたくさんあるけど、やりたいことも、できそうなことも見つからない。
ソファ横のサイドテーブルには図書館からの本が積読になってるし、リビングボードの引き出しは開閉の度に30センチ定規が引っかかり、不快な音を出している。 (もう半年以上「時間ができたら片付けよう」と思い続けている)
観葉植物は冷房の当たりすぎて元気がないけど、場所を変えるのも面倒臭い、、、
時折姿を見せる「面倒病」である。

まぁいいだろう。今は体を休めればいい、せっかくの夏休みなんだし。

***

私は「面倒臭い」の沼にはまったとき、いつもネバーエンディングストーリーの「悲しみの沼」を思い浮かべてしまう。
主人公アトレーユの友であり相棒である白馬が厳しい旅の果てに疲弊し、諦め、沼に沈んでしまうシーン。

苦しみもなく、痛みもなく、激しい衝動もないのに、ゆるゆると沈んでいく。その存在に気がついたときには、自分の力では這い出ることができない。
あの足音すらないぬるっとした恐怖は、熱風に撒かれた夏休みの昼下がりにそっくりだ。

で、ふと気が付いた。
連日投稿しているときはこの沼が見えたことはなかった。

ネタ探しのために自分の感情を見つめるクセがついていたからぼーっとしていても、頭は働いていた。
ネタを見つけたら、深掘りする。そのときなぜ私がそう感じたのか、今度はどうしたいか、自問自答し、文字を紡ぐ。
出来はさておき、この一連の動作は「今日も投稿できた」という小さな達成感で私を包んだ。

***

書くことは、自分と向き合うこと。
noteは私にとってセルフコーチングみたいな役割を果たしていたのだ。
たぶんそれがカウンセリングだったり、筋トレだったり、友との時間だったり、方法は人それぞれ。
何にせよ、自分に適したやり方を見つけられたことは大きな収穫である。

今夜はきっと良く眠れるはずだ。
そんなことを思いつつ長男のプール近くのファミレスで紅茶3杯、コーヒー2杯をがぶ飲みする天邪鬼である。

『いやし図鑑』面白かった

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