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【エッセイチャレンジ18】真珠の耳飾りの少女

「真珠の耳飾りの少女」に出会ったとき、多くの人がそうであるように、私も一目で彼女の虜になった。

愛読書であった美術の資料集の片隅に佇む彼女。ダリやマグリット、ピカソを好み、幽かな厨二な香りを漂わせていた私にしては正統派なチョイスである。美しいものは全てを超えていく。

この名画が語られる際、おそらくフォーカスされるべきはラピスラズリをふんだんに用いて表現された『フェルメール・ブルー』。ラピスラズリには魔除けの力があるとされているが、高貴なロイヤルブルーには遠い街の早朝のような静けさを感じる。そこに浮かぶ無垢な少女の刹那を切り取った一枚は、心臓が止まるほど美しい。

素晴らしい技巧はいくつもあれど、私が最も心惹かれるのは表情である。
微かに開かれた唇は強かに濡れ、光に照らされている。それは微笑んでいるようにも、ハッと息を飲んでいるようにも見えた。もしくは、何かを言い淀んでいるようにも、すでに発しているようにも見える。

もし言葉を発していたとしたら、何と言っていたであろう。


『なぜ?』と問いかけているのかもしれない。
『秘密よ。』なんてのも蠱惑的で良い。
どこか苦悩を匂わせるから『助けて。』もあり得る。
案外『お茶が入りました。』とか日常的な通達だったりして。

そんな妄想に耽る時間が好きで、私は真珠の真飾りの少女がプリントされたスマホケースを長いこと使っていた。そうして会社のトイレやドラッグストア、真夏の公園、ファミレスなど、13×6センチの小さな枠越しの手軽な逢瀬を楽しんだ。喧騒の中でもぽっかりと切り取られた静寂は、いつだって私をトリップさせてくれる。

***

これほどまでに真珠の耳飾りの少女を崇拝しているものだから、映画『真珠の耳飾りの少女』が公開されることを知ったときは複雑な思いであった。
ピアスを開けるシーンの宣材写真は、ふたりの息遣いまで聞こえてくるようで、正直興奮した。
だが、期待はずれだった場合、彼女そのものに何らかの負のイメージがついてしまうかもしれない。
観るべきか、観ないべきか。うーん、どっちだ。

のらりくらりと迷いながらも時は経つ。
私はiPhoneを買い替え、機種に合わせて一回り大きな「2代目真珠の耳飾りの少女」を手にしたあたりで、例のレンタルDVDをそっと手に取った。


実はすでに『プレステージ』を観たあとで、スカーレットヨハンソンのイメージは完全に魔性の女となっていたのだが…(美しいのよ…)
しかし『真珠の耳飾りの少女』での彼女は、自分の魅力に気が付かないほどに無垢で、残酷であった。

そして、私の心を完全に掴んだあのセリフ。



「・・・心まで描くの。」


うわ〜〜〜〜〜そうきたか〜〜〜〜〜〜〜!!



***


驚くべきことに、真珠の耳飾りの少女にモデルはいないというのが通説である。映画のストーリーは、絵画を見て着想を得たという完全なフィクションだ。
だが、彼女があの瞬間どんな心境であったのかは、あのセリフで完全に補完されてしまった。そもそも少女は存在しないのだからこの発見すら無なのだが、私の中のではもう確定事項なのだ。

言葉には力がある。
形のなきものに名前をつける。名前をつけると輪郭が見える。輪郭ができると確かな存在となって、触れるようになる。触ることができれば、いつでも自在に取り出して、反芻できる。これが言語化だ。

あのセリフのように、誰かにとっての見えない何かを「言語化」する。それは最後のピースが嵌まるように心地よい。
私の文章で、そんな体験をまだ見ぬ誰かにしてもらいたいものである。

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