見出し画像

人は皆「カーニバル」に興じると思うなかれ

南米コロンビアで、2月のカーニバルというと、カリブ海沿いのアトランティコ(Atlántico)県の大都市バランキージャ(Barranquilla)が観光としては有名なのですが、そこからもっと北東にあるラ・グアヒラ(La Guajira)県のリオアチャ(Riohacha)もカーニバルで盛り上がりを見せます。

2019年2~3月のフィールドワークでは、ちょうどリオアチャのカーニバルの時期と重なりました。カーニバルの時期に合わせて狙って行った訳ではなく、むしろ恥ずかしながら、現地に着いてからカーニバルがあることを知ったくらいでした。

そういった具合だったので、僕には「カーニバルだ!」と盛り上がる気分はあまりなく、「あ、カーニバルあるんだ。まぁ見るだけ見とこうか…」ぐらいのテンションでした。

僕のカーニバルに対するスタンスはそんな感じだったのですが、興味深かったのが、僕がお世話になっている周囲の人びともまた、特にカーニバルだからと言って盛り上がっているわけではない、ということです。

「カーニバルに参加する人は、家でやるべき仕事のない人だと思う」

そう言っていたのは、とある先住民族ワユーの女性でした。この言葉からは、カーニバルとは無関係に生きるために忙しく日々の仕事をしている、そうしたワユーの人びとの背景が、垣間見えるような気がします。

「カーニバルの時期は、酔っ払いが多いし犯罪が起きて危ないので、あまり外出したくない」

そう言っていたのは、とある市内在住の女性でした。カーニバルは、喧騒、混沌、無秩序といったイメージで捉えられます。彼女のような冷めた小さな意見と、カーニバルの大きな熱量とが、非常に強いコントラストをリオアチャで生み出している感じがします。

そして、このような意見をくれたのが、どちらも「女性」だった、ということも注目したいところです。

コロンビアに留学中、友人らから聞いた話では、サッカーに熱を上げる男性(夫)に対し、それを冷めた目で見ている女性(妻)という構図があります。もちろん女性の中にもサッカー熱の高い人はいるのでしょうし、サッカーに興味のない男性もいるでしょう。それでも、そういった構図が語られているという事実があります。カーニバルに対する人びとの温度のコントラストは、その構図にも似ているような気がします。

カーニバルに熱を上げる人びとと、それを冷めた目で見ている人びと。カーニバルの喧騒・混沌・無秩序に興じている人びとと、うんざりしながら見ている人びと。

ちょっと話が逸れますよ。

エクアドルのキトを旅行し、観光地区のホステルに泊った時のことです。夜、ちょっと出歩いてみると、あちこちにディスコ(スペイン語ではディスコテカと言います)やバーが開いていました。中では、ガンガン音楽がかかっていて、多くの人びとがダンスやお酒に興じていました。

建物の前の通りにも人がごった返していて、僕は人びとの合間を縫いながらその中を歩いていました。すると、少年が箱を肩からぶら下げて、通りを行きかう人びとにタバコやガムなどを売り歩いているのを見かけました。その少年を見ながら、ディスコテカの大音量の音楽が、非常に空しく響いているように感じたことは、今でも強烈に覚えています。

ここで再びカーニバルに戻ります。

僕はどちらかというと、学校のクラスの中でも主流派には属さずに、ちょっと遠めからそれを眺めているタイプだったので、カーニバルを冷めた目で見ている人びとの小さな意見に、どうしても共感してしまいます。

観光目的でカーニバルを見に来た人は、もしかしたら触れることができないかもしれない、カーニバルが日常化した人びとの小さな意見に触れられたのは、僕にとっては、カーニバルそのものを体験するよりも大きな価値がありました。

真心こもったサポートに感謝いたします。いただいたサポートは、ワユーの人びとのために使いたいと思います。