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トランジットという「過渡」

南米各国には、日本からの直行便は無いので、渡航する際は必ずトランジットの時間があります。あんまりトランジットのための時間が短すぎると、乗り換えの便の搭乗時間ギリギリになったりしてヒヤヒヤしてしまうので、僕はトランジットの時間は長めの方が好みです。

コロンビアの首都ボゴタへ向かうのには、僕はメキシコシティ経由の便をよく利用します。ある時、メキシコシティでのトランジットの時間が8時間くらいあった時がありました。恥ずかしながら僕は、ラテンアメリカ地域研究者でありながら、これまでメキシコへはトランジットで入国したことはあれど通過するだけで、空港の外に出たことはありませんでした。

8時間もあれば、市内の博物館に行くことぐらいはできるだろうなぁ、せっかくメキシコにいるのだから外に出ようかなぁ、どうしようかなぁ、と思案しました。でも結局、その時も、いつも通り空港内で読書をして過ごしました。

渡航する際は必ず、トランジットの待ち時間を見越して、時間をかけて集中して読みたい本を手荷物に忍ばせておきます。

空港で過ごすトランジットの時間は、割と好きなんです。いま「割と」と少し控えめに言いましたが、実は「かなり」好きです。

母国にも渡航先にもどちらにも属さない、トランジットの時間には、そんな中途半端な浮遊感があります。

さて、結論へとダイレクトに向かわず、ここでトランジットを挟みます。

フランスの民族学者ファン・へネップ(Arnold van Gennep)の著書に『通過儀礼』というものがあります。

人類学の古典中の古典です。そして通過儀礼というタームは、文化人類学のテキストの中でも、ひとつの独立したテーマとして扱われるぐらいです。

通過儀礼というのは、一番イメージし易いのは「成人式」かと思います。子どもから大人へと移行する際に執り行われる儀礼です。日本では、今では、20歳になったら自治体の○○市民館や○○市民センターみたいなところで、自治体の長のおもしろくもない話を聞いて、派手な格好をしたちょっとヤンチャな人たちがバカ騒ぎする場になってますが、昔々は「元服式」といって、(こういっては語弊もありますが)より「儀礼」ぽいものでした。

成人式だけでなく、子どもの誕生に関わる儀礼、結婚式、葬送儀礼など、人の一生の中で、通過儀礼は都度都度行われます。

へネップは、通過儀礼には3つの段階がある、と言います。もちろん本人から直接聞いたわけではなく、著書を読んで知ったことです。その3段階は、分離・過渡・統合です。

「分離」とは、通過儀礼を受けるために、対象の人が、それまで通常であった状態から離れることをいいます。いわゆる今の成人式を迎えるにあたっては、「もう子どもではないんだよ」とそれまでの状態から離れることが求められます。儀礼によっては、所属しているコミュニティ(村など)から隔離された場所に籠もるといったように、物理的に離れることもあります。

ちょっと「過渡」はいったん置いておいて、「統合」にいきます。通過儀礼を経た人が、次の通常の状態(当人にとっては新しい状態ではあるけれど)に戻るのが統合です。今の成人式で言えば、「もう大人になったんだよ」と社会の一員の仲間入りを果たします。もちろん元のコミュニティに戻る「再統合」もあります。物理的に隔離された人が再びコミュニティに戻り、人びとに受け入れられます。

この分離と統合の間の期間が「過渡」です。分離・統合を日常とすると、過渡は「非日常」です。過渡では、時に酷い扱いを受けたり、時にどんちゃん騒ぎでハイのような状態になったり、在り方は様々ですが、とにかく非日常の状態となります。成人式でのバカ騒ぎも、非日常の「過渡」であるので、ある意味では致し方ないのかもしれません。

そして、僕にとってトランジットは「過渡」なのです。

母国の空港を飛び立って「分離」し、目的地の空港に到着して「統合」されるまでの間、それがトランジットという「過渡」です。

だから僕は、トランジットの時間を過ごすのが、なんだか楽しくてしょうがないのかもしれません。あのなんとも言えない至福感を早く味わいたい。

あ、もちろん、目的地に行くのが「目的」ですけどね。

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