見出し画像

統合失調症とわたし ②

では、本題に入りたいと思います。

今から思えば、始まり、本当の始まりは20歳ではなかったんだなと今になって思います。

私は小学5年から苛烈ないじめを受け、中学校でもなかなか周りに馴染むことが出来ずにいました。

学校に行くのが苦痛で、私が本当に苦しかった3年間……その小学、中学通しての3年間、毎日が行ってみれば地獄のようでした。そんな日々を黙々と過ごしていたある日のことでした。

朝、起きてみると激しい頭痛に襲われたのです。並みの痛さではありませんでした。その時のことはよく覚えています。

自分が話していても、他人の声を聞くだけでも歯を食いしばって耐えなければならないくらいの頭痛に襲われ、それでも親に学校へ行けと言われたので行きました。頭が痛くてまるで授業の中身も頭に入って来ない。とにかく痛くて、痛くて痛くて。

学校での給食の時間。「いただきます」の挨拶の声の大きさ。もう、半泣きで痛みに耐え、その頃には自力で学校から帰ることすら困難になっていました。母は専業主婦だったので、母に電話をして迎えに来てもらい吐き気までもよおしてきたのでベッドに入って洗面器を抱え、痛みに耐えていると母が病院へ行こうと言い出しました。

私としても、この気の遠くなるような痛みから解放されたいと、病院へ行くことを決意。

いつも通ってる言わば、町医者さんですね。そこで診察を受け、私のあまりの痛がりように先生は髄膜炎だったかな、とにかく脳が熱持っているといけないという理由から、紹介状を書くから検査してもらいなさい。あと、小児科へ行きなさい。

とのことでした。

藁にもすがりたい気持ちで、検査をし異常が無いことを知りそして診察をしてもらい、その診断結果は『起立性貧血』でした。薬を処方してもらうと、あの激しい頭痛はなんだったのかすっかりとよくなり、それからたびたびそう言うことが起こると薬に頼るようになりました。

あと、母が手配してくれた病院がもう一つあって。それというのも『話を聞いてもらう先生』でした。子どもの悩みだったり、こうやってストレスが身体に出てくる子どもの言うことを辛抱強く聞いてくださる先生に出会い、すべてを長い時間かけて話し、その時の診察料は一万円を超えてました。

それから、高校に入りやはり初めは馴染めず身体の調子を崩しては起立性貧血の薬を飲み、心を落ち着かせて通う日々が始まりました。

私の通った高校は三年間が同じクラスなので、クラス替えの心配もなくとてもそこら辺は楽だったのですが、もうこの時から崩壊は始まっていて、友達と話していても急に悲しくなって涙が出たり、話も出来なくなってしまったり。泣き顔を見られたくなくて、トイレに駆け込んで泣いたこともあります。

高校一年の頃です。保健体育の授業で書いた作文を見た先生は、私に本を贈ってくださいました。自分のことをもっと好きになれと言った内容の本でした。その作文に書いた内容を私はあまり覚えてないのですが、その頃から人間不信は始まっていて、生きていることに意味があるのかだとかそういったいかにも厨二じみたこを書いた記憶があります。

それから、私は多分、危険な生徒として認識されたのでしょう、保健室へ行くと保健医はすぐに察してくれ、ベッドを貸してくれたりまたはあまりにも具合悪そうにしていると「家に帰りなさい」と帰してもらえたり。

そうやって綱渡り状態で高校三年間を過ごしたわけです。

高校時代の友人には本当に、悪いことをしてしまったと思います。傍から見れば気分次第で上がったり落ちたり。付き合いづらかったと思います。

これが、私の人生の崩壊の第一歩でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?