#15 乗り越えられない試練に直面したとき、「正面から突破しようとして死んでしまった自分」と「逃げることによっていきながらえた自分」に分裂することができる、みたいなはなし



 文学フリマ東京がかなり盛会だったらしい。同人誌即売会というものに出展しなくなって久しいが、かつて見ていた景色が大きくなっていくのはなんだか寂しいのと、個人的にはあまり向かって欲しくない方向に行っているなという感覚だけがある。

 即売会というものはもともと苦手で、だいたい押しかけてくる他人に応対する、などというのはぼくにとっていちばん苦手なものなのに、何をどうしてそんなことを延々とし続けなくてはならないのか、と思ってしまう。イベントに出ていた数年間はそれが当たり前だと思っていたし、今考えると明らかに気が狂っていたのだろうと思っている。

 もちろん、創作をする上で「だれかと交流する」「仲間を作る」ということも重要ではある。実際ぼくは様々なイベントを通して、文字通りかけがえのない「創作仲間」を手に入れたと信じている。その一部はハムちゃんとの結婚式にも呼んでいるくらいだ。実際にイベントに出たことで得られたこれらの経験は非常に重要であるし、それだけでも「気が狂って」よかったとは思っている。

 ただ、一方でこうしたことを10年も20年もやっていくことは非常に難しいと感じた。今のぼくには、もうかつてのぼくほどの狂気や熱情がない。だからきっとイベントに出続けている人は若くて精力的で、あらゆる意味で「社会に抗い続けている」ひとびとなのだろうと思い、そこには畏怖と尊敬の念を常に抱いている。おそらくは、あのとき、つまりぼくが「かれ」を失ったとき、ぼくはそれを理由にイベントを離れたが、それは正しい選択であったと同時に「『かれ』を失わなかったぼく」にとってはおそらく今も文学フリマにチャレンジして精力的に頒布を行っている姿へと向かっていると思う。人生において重要となる選択肢というのは、それが決定的であればあるほど、一見些末なものだったりする。ぼくと「かれ」を隔てた理由はどこにあるのかわからないが、おそらくぼくが、今イベントにでているであろう「ぼく」とを分けた決定的な要因がどこかしらには存在しているんだろうと思う。

 ぼくの精神世界には、無数にぼく自身の死体が転がっている。まちのあらゆる場所にそれはあって、あらゆる年齢であらゆる死に方をしている。重要なのは、生きているのは「ぼく」自身しかいないというところにあると思っている。かれらはすべて何かしらで「間違った選択」をし「死体」となってしまった。つまりぼくから見ると、今のぼくは結果的に、常に「正しい選択」をしている、ということになる。そこに自信はない。単に「死体にならなかった」だけであり、選んだ選択が「たまたま」正しかっただけである。死体たちだってなりたくてなっているものばかりではない。たまたま間違った選択をした結果死んでしまっているだけのものもある。ただ、結果としてぼくが生き残り、ぼく以外の「ぼく」は死体として転がっているということだ。

 非常に端的にいってしまえば(俗に言うところの「誤解を恐れず」という文字通りであれば)、ぼくはこの「無数に自分の死体が転がっている様を延々と見続けている」風景をみなさんにお見せしたいがために小説を書いているといってもいいのではないかと思っている。
 結局のところ、ぼくはイベントから撤退したり、創作以外の日常に没頭したりをくり返しても小説を書こうとすることをやめられなかった。少なくとも初めての創作である「ごみばこ」を書いた5歳の時から、ぼくは創作をやめられたことがない。やめたことがない、ではなくて、やめられたことがないだけである。いうなれば創作中毒者である。かつての文学フリマにはそういった何かしらの理由で創作中毒に陥った病的な人間たちが多かった。ぼくはそれ、つまり彼らを創作中毒者たらしめんとする何かが、その創作物に表出した様を「ごうがふかいな」と呼んでおり、これがぼくのサークル「日本ごうがふかいな協会」の語源でもある。


 これはあくまで推測であり、先般参加者とも話をした中で考えたことであるが、文学フリマをはじめとしたそういった自主創作者の即売会のようなイベントは、どんどん「フェス」要素が強くなっていて、「ごうがふかいな」を重要視しなくなってきているように感じる。しかしこれは当然であるとも感じている。単純に考えて、「ごうがふかいな」ではお金も客も呼び込むことができないが、「フェス」はどちらも比較的容易に呼び込むことが可能だからだ。つまり持続可能性を考えたときにその難易度が大幅に下がるわけで、普通の経営的センスを持つ人間、会計の素養がある人間だったらここに目をつけないはずがない。そして、「フェス」要素が増すのであれば、「出店」しているかれらはつまり「演者」と同じ役割を担うことになる。畢竟、創作物が「創作物」たる見た目を有する割合が上がり、逆に「創作物」に「ごうがふかいな」を含有する確率は下がっていく。「ごうがふかいな」は本来であれば「消費」する「創作物」においては不純物であり、淘汰されてしかるべきものであるからだ。つまり、文学フリマはその名の通り、「文学者」たちの「フェス」であり、だからこそ彼らにとって「文学」は「不良債権」であり「とうに古びたコンテンツ」であるわけだとぼくは納得した。そして、そこにぼくのような創作中毒者が暖かく迎えられることはないということも理解したのである。

 だからこそ、ぼくはそういったイベントとは一線を画すため、インターネットか定期購読のみの頒布を行うこととしたのである。創作中読者特有の不純物を含むものを「消費者」に押しつける気はないということであり、ぼくの創作物には多分に「それ」を含むということをご理解いただいた読者でないと「危険」であるというのが、大まかな理由である。

 であるからして、自分が創作中読者でないのであれば、文学フリマやコミティア、コミケットで自作の創作物を頒布するのがいちばんいいのだろうと思う。そこには同好の士がたくさんいるのだから。忘れ得ぬ出会いは、自らの人生を補填する何かになることは間違いない。ぼくもかつてはそうであった。

 そして、すでに仲間に恵まれたぼくには、少なくともしばらくはそういったイベントに出る必要はないということも理解した。

 ぼくは自分の創作を読む人間に対する注文が異常に多い。しかしそれは、不純物を接種することが極めて危険な行為である上、高い中毒性を有していることを身をもって知っているからに他ならない。

 ということで、売人のようになってしまうが、ぼくの既刊の在庫はすべて「架空ストア」という通販サイトにお預けしている。こちらから既刊リストを確認できるので、これらのことを重々理解した上でなおぼく、もしくは新津意次氏の創作物を読みたいというチャレンジングな方はご確認いただければ幸いである。こちらに関しては匿名での配送が可能である。あなたがたの住所がぼくに知られることはない。下にリンクを掲載する。


 また、住所のやりとりをしてさし支えなければ「定期購読サービス」を承っている。こちらは新刊やその他お知らせがあり次第真っ先に指定した住所にお届けをするというシステムである。基本的にはクリックポストを使用し、購読が終了した方の個人情報は即座に削除するなどの厳正な管理方法で運用している点ご理解いただきたい。

 応募方法など、詳しくは下記にある広報ブログ記事を参照されたい。


 友人から「ザーヒーは本を売りたいのか売りたくないのかわからない」とよく言われる。ぼくもよくわからない。ただひとつ言えるのは、「作らざるを得なかった」し、作ってしまった以上は誰かに手渡さないわけにはいかないのである。これは創作中毒者としての禁断症状だろうと考えている。

 できることならば、創作中毒だけはならない方がいいと思う。

この記事が参加している募集

文学フリマ

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!