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「君の名は。」 もうひとつのファンタジー

新海誠監督のアニメーション作品「君の名は。」を観ました。


もうひとつのファンタジー

心に突き刺さりました。
この映画には2つのファンタジーが登場します。
ひとつはもちろん、「主人公2人の体が入れ替わってしまう」というもの。
そしてもうひとつは、「あの災害の日に戻って、みんなに事前に知らせることができる。」というファンタジー。

男女の入れ替わりやそれによる恋愛模様は、10代20代の方々にはたまらないものがあるのかもしれないけど、年齢的にそこはちょっと響かなかったです。見ていてなんだか気恥ずかしいだけ、のような。

でも、もうひとつのファンタジー 、「あの災害の日に戻って、みんなに事前に知らせることができる。」は、心に突き刺さる。

東日本大震災

2011年の東北太平洋沖地震とそれによる東日本大震災を経験した私たち日本人の心のどこかに、「あの日に戻って知らせたい」という空想が閉じ込められているのではないでしょうか。

分別のある大人なら、それがいかに無意味で無責任な空想か分かります。
分別のある大人であるほど、そんな荒唐無稽な言葉は口にできなくなります。
心理学の言葉を借りるなら、ある種「抑圧された願望」として、あの日を大人として経験した多くの日本人が閉じ込めてきた空想。
その空想を、この映画は映画の中だけでも許してくれる。

最後の入れ替わりで「その日」に戻った主人公は、住人たちに知らせるために仲間たちと奮闘する。
彼らの姿は、あの日を大人として経験した多くの日本人の空想に応えるものだと思う。
あの日に戻って知らせたい。でもそんなこと、大きな声で言えなかった。
それを、彼らは映画というファンタジーの中で実現して見せてくれた。
抑圧されてきたものが開放される。

「国民の多くが共有せざるを得ないような大きな不幸」を乗り越えてそれを映画作品にできた、という意味で『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を思い出す。

この作品は2016年の作品ですが、日本人があの災害を映画作品として取り扱えるようになるまで5年かかった、ということだと思う。
「作る側」はもとより、私たち「見る側」が。
仮にこの映画が2011年や2012年に製作されていたら、とても見ていられなかったと思う。

私たちの映画

10代20代の観客、つまりあの日を子供として迎えた人たちと、30代以上の観客、つまりあの日を大人として迎えた多くの人たちで刺さるものがまったく違う作品なのだと思う。

「良くも悪くも、これは私たちの映画だ」と思えるような映画です。

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