「ウィッシュ」 マグニフィコ王について
ディズニーアニメーションの最新作「ウィッシュ」の配信がディズニープラスで始まったようなので、もう一度念を押して言いたいことがあります。
ネットで「ウィッシュ」に対する意見として、本作のヴィラン(悪役)であるマグニフィコ王を擁護するような皮肉めいた意見が少なくない。
「マグニフィコはいい奴じゃない?むしろ主人公のアーシャが悪役じゃない?マグニフィコ悪いことしてないのに可哀想」というもの。
これについて書きたいと思います。
そして、未見の方へ。
映画として「ウィッシュ」がお気に召すかどうかは分かりませんが、上記のような見当違いの皮肉を確認するためにこの映画を観るのはもったいないので、ぜひニュートラルな気持ちで楽しんでほしいなと思います。
以下、ネタバレあります。
ネットで散見される皮肉めいた意見
「ウィッシュ」の感想として散見される意見に、以下のようなマグニフィコ擁護論があります。
曰く、「マグニフィコ王は何も悪いことをしていない。理想の国を作り、統治し、住人を守り、夢を叶えてくれる。賢王である。むしろ、それに反旗を翻し、徒党を組み、王妃をそそのかして国王を追い落とし、挙句に自身が魔法の力を手に入れたアーシャこそが本作のヴィランである。」というもの。
皮肉を言うことが目的の低俗な逆張りジョークだと思いたいですが、本気でそう評している方もいるのかもしれない。
確かに悪人ではない
確かに、マグニフィコ王はいわゆる悪人ではない。
世界征服を企んでいたりしないし、誰かを貶めようとしたりもしないし、犯罪的行為を働いていたりもしない。
彼の主観では、自分はまさに「賢王」だと思っているだろうし、客観的に見ても「賢王」と言えるような気もする。
後述するたった1点を除いては。
この1点のために、彼は「ヴィラン」であり否定されなければいけない。
「自由」について
ここでちょっと寄り道して、アメリカや日本を含むいわゆる“西側先進諸国”が理念として共有している概念を確認しておきたい。
それは、「自由民主主義」である。
「自由主義」であり「民主主義」であるということ。
ここでは特に「自由」について考えてみます。
「自由」とは何か。
司馬遼太郎の「峠」という小説に、かの福沢諭吉が「Liberty(自由)」の訳語として「自由」という語を選んだ際のエピソードが紹介されています。
つまり「自由=Liberty」とは、「〇〇できる状態」を指してはいるが「誰かに許されて〇〇できる状態」ではないのだ、と言うこと。むしろ、「誰かの許しを得ることなく〇〇できる状態」にこそ「Liberty」の本質があると看破した福沢は「御免」ではなく「自由」という訳語を与えたのではないか。
「働き方研究家」を自称していた西村佳哲さんが書いた「自分をいかして生きる」という著書の中に、以下の記述がある。
「自由である」とは、誰かにそれを許されたり認められたりする必要もなく、かつその行いが本人に由来している状態を指している。
マグニフィコは、ここを踏み外しているのです。
ディズニーが「悪」だと考えていること
「自由を否定していること」以外は文句のつけようのない統治者である人物として描かれたマグニフィコ王こそがヴィランである、という物語。
「自由」という理念を否定している以上、他にどんなに素晴らしい功績があってもそれは「悪」なのだ、というのがディズニーの考え方であり伝えたいことなのではないだろうか。
「自由」を否定したら「悪」だよ、とディズニーは考えている。
マグニフィコをこそ否定しないといけない
さて、私たちが暮らす現実社会にも、マグニフィコのような人はいる。
ある政治家がそうかもしれないし、ある巨大企業のCEOがそうかもしれない。あるインフルエンサーがそのように振る舞うこともあるかもしれない。
どんなにその行いや主張が清く正しくても、他人の意志をコントロールしようとしてしまうと、コントロールされる側の「自由」は毀損される。
自由主義社会では、自由を毀損することは「悪」である。仮にコントロールされることでその人が正しい道に進めるのだとしても、である。
ネットで散見される「マグニフィコはいい奴じゃない?むしろ主人公のアーシャが悪役じゃない?」という意見に賛同してはいけない。
自由主義という理念を掲げる私たちは、マグニフィコを明確に「悪」と言わなければならないと思います。
ディズニーは明確にそれを表現したのです。
ここまで考えても、マグニフィコは悪くないと思えますか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?