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「ウィッシュ」 その1 見事な100周年記念作品

ディズニーアニメーションの最新作「ウィッシュ」を観てきました。

ディズニー100周年記念作品

観る前は、ディズニー設立100周年にたまたま当たっただけのことで、中身はこれまでの各ディズニー作品のように「ウェルメイドな(悪く言えば無難な)ファミリー向けアニメーション映画」なのだと思っていました。
でも違いましたね。

完全に「ディズニー100周年を祝う映画」であり、それにあたり『ディズニーアニメーションとは何か』を改めて宣言するような「自己言及型映画」でした。

たくさんのオマージュたち

「100周年を祝う映画」なので、これまでのディズニー作品から様々な形でオマージュシーンが全編に散りばめられています。
これらの役割は、基本的には「遊び心」というか「ファンサービス」というか、ただのカメオ的なものであまり意味はないと思います。
が、実は最後の「あれ」のためだったのでは?という見方もできます(後述)。

いったい何を表しているのか

ここからが本題です。
強大な魔法の力、とりわけ“願いを叶える力”を持ち、人々を魅了するカリスマティックな存在であるマグニフィコ王。
同じく魔法の力を持ち、純粋に“願うこと”を体現した存在で、いたずら好きで自由奔放なマスコット的キャラクター、スター。
この2者は「ディズニーなるもの」の裏と表ですよね。
「ウォルト・ディズニー」と「ミッキー・マウス」と言ってもいい。
いや、もっと踏み込めば、「ディズニーランド(的なもの)」と「ディズニーアニメーション作品」の対比と言う方が適切かも。

例えば、「ここは夢が叶う場所」みたいなこと言って集客するディズニーランドと、ディズニーが好きすぎてディズニーランドの中にいるとそれだけで幸せで頭空っぽにして「夢が叶う場所サイコー」ってなってる人は、マグニフィコ王とロサスの民衆そのものですよね。

でも、「ディズニーアニメーション作品がこの100年間発信してきたメッセージはそうじゃないんだよ」というのがこの映画のメッセージ。

確かに、『白雪姫』や『シンデレラ』は、「清く正しく生きていれば、いつか王子様やら魔法使いやらが現れてあなたを幸せにしてくれます」的な映画でした。
でも、時代が下り『リトルマーメイド』や『美女と野獣』、『アラジン』では「自分で勇気を持って前に踏み出してこそ、幸せになれるんだよ」的な映画に変わりました。
『プリンセスと魔法のキス』ではついに「夢は星に願うだけではダメ。自分で叶えるものよ」とはっきりとセリフに表れました。
そして『ウィッシュ』ですよ。ディズニーの「願い」の扱い、ここまできたか。

まとめ

これをディズニーがやらずに他に誰がやるというのか。
節目の年にやらずに他にいつやるというのか。
そういう映画になったと思います。
ディズニー100周年にあたり、「『ディズニー』っていうのはこれなんです!」という見事な宣言ではないですか。

ディズニーアニメーション作品に好意的な思い入れがある人には特に刺さる映画。(あくまでも「ディズニーアニメーション作品に」です。「ディズニーのテーマパークに」ではなく。)

作り手の熱のこもった、見事な100周年記念作品でした。


以下、ネタバレあります。


この映画のコア (ネタバレあり)

『ウィッシュ』では、「願いが叶うか叶わないか」は前半では重要な関心事として描かれていましたが、アーシャが真実を知ってスターが登場してからは、叶うか叶わないかの前に、「そもそも願いがどこにあるべきか」に重点がシフトします。

「願い」を何か大きなもの(「企業」とか「組織」とか「有名人」とか)に預けてしまっていませんか?
「あの企業に入社できれば私は自己実現できる」とか「国際協力の分野で働きたいので国連に就職したい」とか「推し」とか。
マグニフィコ王の願いを叶える儀式が、「アップルの新しいiPhoneの発表イベント」に見えてしょうがない。新しいiPhoneが出るたびに歓喜し、まるで自分もアップデートされたかのように錯覚して高揚してしまうあの感じ(自省をこめて書いています)。
何か外部の大きなものに自分の願いを投影して、自分の手で願いを手繰り寄せることを忘れて安心してしまっていないか。

「願い」の内容や実現可能性はともかく、「願い」をちゃんと自分の側に置いていますか?外部の大きなものに預けてしまってはいませんか?という、これまでよりもひとつ次元の高い問いかけが、この映画のコアメッセージなのではないでしょうか。

花火とエンドロール (ネタバレあり)

映画の最終盤、スターが花火をたくさん打ち上げます。そして、満を持してミッキー型の花火を打ち上げます。
先述した通り、ミッキーの花火が登場するまでにも数々のオマージュシーンがありましたが、全て暗喩的でした。つまり、明示的に過去のディズニキャラクターが登場するわけではありません。
一方で、ミッキーの花火はもう明示的ですよね。これは「私たちは『ディズニー』です!」という、作者であるウォルトディズニーアニメーションスタジオの署名のようにはっきりと登場します。
この明示的なオマージュが全体として浮かないようにするための、それまでの暗喩的なオマージュの数々だったと思うのです。もしも全編に散りばめられたオマージュシーンがなかったら、唐突にミッキーの花火が出てきて白けてしまうと思いませんか?
暗喩的なオマージュシーンが散りばめられていた効果として、最後くらいもっとはっきりとした「みんなが知ってるディズニー」を見たいと観客に希求させる効果があったと思う。そしてそれに応えるミッキーの花火ですよ。
そしてこのミッキーの花火以降は、堰を切ったように出し惜しみせずに過去のディズニーキャラクターがエンドロールとともに描かれる。こっちも堰を切ったように涙が・・・。

微妙な駄作感も確かにある (ややネタバレあり)

映画としては、「各キャラクターがイマイチ定まっていない感じがする」とか「ちょっと展開が唐突かな」とかの問題点はあります。
特に、主要キャラクターであるヤギのバレンティノくんの映画的な存在理由がないのが痛い。彼にはドラマがない。申し訳ないけどたいして面白くもないし。
そういう意味でいわゆる「よくできた映画」ではないかもしれない。
が、上に書いたような、現代的でディズニーの自己言及的な強力なメッセージに打ちのめされた、という感じです。

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