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銀河鉄道の夜より カムパネルラ




久しぶりに、過去に上演した台本をまとめているファイルを開いた。
懐かしいタイトルが並んでいる中に、一つだけカラーの表紙がついた台本が入っている。

 宮沢賢治 銀河鉄道の夜 より

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 この公演は、大学の卒業制作として上演したものだった。自分が演じていた役は、カムパネルラという少年だった。

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 当時の事を思い出す。
演出は、大学3回生の頃から共に作品作りをしてきた庄波希。共に心と体を使った表現を追求していた。
この作品は、その心体を使った表現とそこに台詞を加えた演劇形式。”台詞が中心ではない演劇”のように感じて、それまでに自分が経験した事のないスタイルの公演だと思った。
この公演でどうやったらカムパネルラという人物を描けるか、観に来てくださった観客の方々にどうやったらこの世界を届けられるか、試行錯誤の日々だった。

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 一番悩んでいたのが、この作品のカムパネルラは出演しているシーンの量に対して台詞量がかなり少ないという事。台本第一稿と比べると、最終稿では本当に必要最低限しか言葉は無かった。
少ない言葉の中でどうすればカムパネルラという人間をわかってもらえるか。稽古の度にわかってほしい気持ちと、言葉に出来ないというもどかしさが募っていっていた。

ただ、稽古を進めていく中で言葉を使わずにカムパネルラという人物を描く方法がこの作品にはあると感じていた。
演出の庄と以前から追求していた心体表現。
それは、嘘を付かない身体。
この、”宮沢賢治 銀河鉄道の夜より“という作品の中に存在するカムパネルラは、そういう身体で舞台上に ただ存在している事 が大切なんだと。
悩んだ末、台本の改変を求めるのではなく、そう信じてカムパネルラという人物を描いていこうと決めた。

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 カムパネルラは原作では、主人公ジョバンニの友人で、最終的には別の友人を助けるために川に飛び込み死んでしまう少年。
ただ、この作品に出てくるカムパネルラは少し違ったと思う。それは、演出の庄がジョバンニ役の役者に投げかけた質問「カムパネルラはその時本当に存在していた人物だったのか」という言葉にある。もちろん作品の中で実在はしていたが最初のシーンの時点で、もしかしたらもう死んでしまったカムパネルラに対して、彼の事が忘れられないジョバンニが彼の影に語りかけているのではないか、というものだった。
それが真実かのようにジョバンニとカムパネルラが2人きりの最初のシーンと最後のシーンではジョバンニは同じ演出、同じ台詞なのに対し、カムパネルラは遠いところに立っているだけで台詞も何もなかった。
そうなると、作品中でのカムパネルラの過ごし方も変わってくる。現実の学校生活などを描いているシーンで、本当は存在していないのにかつてのカムパネルラの姿でそこにいるということ。
それは、今は居なくなってしまったけど、かつては確かにそこに居た。という存在。
そう言った事を考えながら、自分にとってももう会えなくなってしまった人たちがいるという事を思い出していた。きっとそこに居たはずなのに、いなくなってしまった忘れられない人。
ジョバンニにとって、カムパネルラはきっとそういう人間だったのだろうと思えた。


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 劇中では、重苦しい現実から美しい銀河鉄道の世界へと変わってしていく。そのシーンには演出で“永訣の朝”が使われていた。そのシーンは自分を除くほとんどの出演者が出演しているシーンだった。
永訣の朝は、銀河鉄道の夜の作者である宮沢賢治が、妹が亡くなってしまうときに書いた詩。そこで描かれる生と、死にゆく別れ。
その詩を読むシーンはカムパネルラの死を暗示するものだったのだと思っている。そして、この詩が終わると彼にとっての最後の時間が始まるのだと。そう分かっていてカムパネルラとして銀河鉄道に乗り込んだ。
“もし最後の時間を自覚を持って過ごせるとしたらどう過ごすか“
その時間の残酷さと、大切さを全身で理解する。
辛かった。身体が重くてじーんとする。
ここで改めて、カムパネルラは言葉で演じるだけでは伝えきれないと感じた。


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 そんなカムパネルラがこの残された時間の中で一番考えていた事は、幸せについてだと思う。
自分の幸せだけでなく、家族や他人の幸せについてもカムパネルラはずっと考えて過ごしていたと思う。自分も彼を演じていく中で幸せについて日常生活でも考えるようになっていっていた。

 物語が進むにつれて、ただの少年であるカムパネルラの言葉と、ただの少年ではなくなってしまっていく心が体に伝わって現実と夢の中を行き来しているような感覚になっていった。
作品自体も中盤以降、演劇のシーンから心体表現のシーンへと行ったり来たり、不思議な時間の流れ方へと変わる。
カムパネルラは物語が進めば進むほどどんどん現実から離れていっていた。
あきらかに同じ状況下にいたはずのジョバンニとは違う時間を過ごし始めていて、同じ場所にいるはずなのに見える景色さえも違ってきてしまったのだと分かる。それが完全に違うものになってしまった時がカムパネルラの最後の瞬間だと分かった。
ただ変わりゆく世界を感じて、カムパネルラとして大切に過ごしたかった。

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 結局カムパネルラは幸せとは何かという答えを明確な台詞としては残していない。銀河鉄道が終点の駅に着く頃には、話しかけてくるジョバンニとはもう会話も出来ず、見える景色も完全に違うものになってしまっていた。
カムパネルラの言葉としては、最後に「みんな集まっているねえ。あそこが本当の天上なんだ」というだけだった。
それでも、それはカムパネルラが最後に“幸せ”について理解して全身で受け止めた結果出た言葉なのだと思った。
嬉しいのに切なくなる。気持ちが体に伝わって、目から全身が熱くなる。どこまでが自分の体か分からなかった。
その最後の言葉に込められた思いを、悲しむことだけはなかったその嘘のない体で語れていたら嬉しく思う。

銀河鉄道のシーンが終わると二つ宮沢賢治の詩を読むシーンがあった。
農民芸術概論とアメニモマケズだった。
この二つの詩はカムパネルラが求めた幸福についての答え合わせのような詩だった。
この銀河鉄道の夜を生んだ宮沢賢治の考える幸福、そして生を過ごす事についての言葉。
この詩はとても重要だったと思う。カムパネルラが語ることのなかった幸福を作者の描く詩の言葉が強調していたと思う。

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 なぜ急に終演から数年経った今この記事を書いたかと言うと、この作品には他の作品に出た時とは全く違う気持ちを抱いていたから。
文字にして気持ちを伝えるのは得意ではないけど、これからを生きていく中で一人のただの人間として忘れたくなかった。
今を生きているとたまに感覚が鈍くなって生きていることに鈍感になってしまう気がして、このカムパネルラとして過ごした時間を忘れたくなかった。
この公演が終わってから今まで知らなかった色んな問題に関心を持てるようになった。
またこの話の続きとして、自分が受けた影響や変わったことを綴りたいと思う。

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ここまで読んでいただいた方へ。
本当にありがとうございます。
言葉が下手で申し訳ないです。
続きを投稿した際にはぜひまた読んで頂けると嬉しいです。

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