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06 杉本通信 ~文人画と隠逸~

こんにちは

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先日、東北大学ではオンライン形式で卒業式が行われました。

少し寂しいですが、東洋・日本美術史研究室でもオンライン形式の極々小規模な送別会を行いました。

コロナ禍で大変なことが多いとは思われますが、旅立たれる先輩方のご活躍をお祈りしています。

文人画と隠逸

さて、本日は杉本の専門領域である「文人画」についてご紹介します。


 多くの現代人にとって、「文人画家」の生き方は理解できないものらしい。それが判っていれば、もっと解説などに反映されているはずだ。
 …そこには人事や世事と隔絶した世界が広がっている。それは「脱俗」や「超俗」という言葉にとどまるものではない。その言葉を強調すること自体、ある意味、「俗」を意識しすぎて「俗」に陥ってしまっている。
 面倒な世の中とおさらばし、人間の時間ではなく、自然の時間に身をおいて安逸に暮らしたい。言葉としては、やはり「隠逸」であろう。
 このような「隠逸」への憧憬を私も持っている…と言ったとき、意外にも驚く人は多い。いや、誰しもが持っているものと思い込んでいたから、驚かされるのは、むしろこちら側なのである。
 社会のような面倒なものと関わらず、自然の時間に身を委ねて生きることができたなら、どんなに素敵か。
 ただ、「高等遊民」でない以上、日々喰うていかねばならないし、それゆえ働かねばならない。妥協点として人間の時間に合わせ、労働によって対価を得ているわけである。
 けれども社会と関わるからには、自分に与えられた仕事に対し、それ相応の責任を果さねばならない。それが社会的な「ポジション」を占める、ということである。
 他の人がその「ポジション」についた方が世の中のためになる、というような状況にしてはならない。もちろん社会の矛盾や不条理に気付いたなら、自らそれを正していく努力も必要となる。
 社会的な責任を果たし、矛盾や不条理と戦うことを真剣に行なえば、心身ともにダメージを受けるのは当たり前である。そんなとき、いったん人間の時間からは退き、自然の時間に身を委ねて傷を癒したい、と思うのは当然のことだろう。
 潜在的に「隠逸」への志向があったとしても、何かしら社会と真面目に向き合えば、使命感や責任感が芽生えてくるものである。それを果たそうとすれば、時には社会との間に軋轢が生じることもあろう。そうして心身が傷つけば、いったん人事や世事からは距離を置き、精神を癒すのである。
 けれどもそれは、社会的責任から完全に解放されることを意味せず、再び社会に戻って自らの使命を果たさなければならない。戦場に戻らねばならない。
 このように、「隠逸」と社会的責務との間をゆらぎつつ生きていくのが「文人」たる資格であり、画において「隠逸」を果たそうというのが「文人画」の本質と考える。(杉本通信8月1日号より)

文人画

文人画は中国で文人や士大夫と呼ばれた知識人階級が趣味として描いた絵画が始まりです。

士大夫は中国において、支配的指導的立場にありました。

日本でも文人画は支配者階級である武士によって描かれました。

隠逸への憧れ

鷹見泉石像

渡辺崋山「鷹見泉石像」

士大夫や武士は、当時の社会におけるリーダー的存在であり、社会的に大きな責任を持つ立場でした。

世のため人のために働き、どんなに志高くいようとしても、人間社会から逃げ出して自然に身を委ねたくなることもあるでしょう。

逃げたくとも逃げられない、そこで彼らは絵画に自然への憧れを表現し、自らの心を慰めます。

ありがとうございました

かく言う私も「人間関係って面倒だな」「そんな時間も手段もないけれど、誰もいない奇麗な場所でボーっとしたいな」と思うことがあります。

まさに隠逸への憧れです。誰もがこういった想いを経験すると思います。

一見堅く見える文人画ですが、こうした自分の経験を反映させて鑑賞することでもっと身近に感じられるかもしれません。




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