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綴ること

しばらく「文章を書く」ということが日常から消えていた。

仕事上の情報発信は必要なので、FacebookやInstagramはやっているものの、なぜかフィットせず、更新も止まりがち。目的に沿った運用は全くできておらず、DM等を利用する連絡手段ツールと化している。なぜだろう、飽きてしまったのだろうか。面倒なのか。義務的にやっている感覚が、たのしさやよろこびを生まないからだろうか。仕事で必要だからと始めたはずなのに、利害関係が見えてしまう場では自由な発信ができないからだろうか。欲しがりな自分の自己満足を求めてしまうからだろうか。

文章を書くことは嫌いではない。全く得意ではないが、どちらかというと好きな方だ。これはスラスラと喋ることができないことへの防御策として、文章に頼ることが多いからだろう。誰かに自分の想いを伝えるとき、緊張で言葉選びがダメダメになってしまい、整理できていない頭のなかを暴露して恥ずかしい思いをする。すっかり喋ることへの苦手意識が固定化してしまい、まぁそれは克服したいと思っているが、書く言葉の方が落ち着いて気持ちを伝えられるので、大事な件は可能な限り文章でやりとりさせてもらっていた。

とはいえ、ここしばらく全く文章を書いてない。本も読めていない。最近ある冊子の制作で原稿を書かねばならない機会があったが、びっくりするくらい書けなかった。もともと上手な文章を書く技術は無いにしろ、まず言葉が浮かばない。選んだ言葉の意味すらきちんと理解できていない。何度も何度も修正が入り、これはまずいのではないか、老化もあるだろうが脳を働かせていないからか、思考の整理ができなくなっている、このままどんどん退化していくのではないか?という不安が募ってきた。

そんなわけで、リハビリのため、noteをはじめることにした。幸い、身近な仕事仲間、友人知人は見当たらない場なので、必要以上に胸の内を抑える必要はなさそうだ。

30代前半、初めて飲食店を起ち上げた頃はブログ全盛期で、OPENまでの準備期間中、おもしろおかしく、時には涙を拭いながら、自力リフォームの様子を数か月に亘って日々ブログで実況中継していた。あの頃は書くことが本当に楽しかった。仕事上でもとても有益だった。ブログをやらなければ出会えなかったはずの方々とたくさんのご縁をいただき、年月を経た今でも繋がらせてもらっていて、心底感謝している。今はもうそんなことは起きないかもしれないが、仕事のためではなく、自分自身のために書いてみる。欲張りなのですぐに何かを得ようとしてしまいがちだけど、それよりも今回は、失わないために綴ってみようと思う。

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