映画のつくりかた「理論篇」
「映画とは<青春の殺人者>ができるまで」考察一
1976年9月に文芸に掲載された中上の蛇淫は雨月物語の「蛇性の婬」タイトルがとられた。その蛇淫を原作として脚本田村孟で青春の殺人者のシナリオがつくられた。そして市原の両親殺害事件が、蛇淫に与えた影響は大きい。そして長谷川によって青春の殺人者になったのである。映画は実際の事件などを参考にしているが、ドキュメントではないため、実際の事件とは異なることが多いが、犯人にもわからない真相を抉り出す事もある。実際、原作とシナリオまた出来上がった映画でも違うことは多く、原作者が意を唱えることがある。(2024年原作者が死亡するという事態も発生)また制作側(金を出す方)と監督の意図が異なる場合もあり問題は尽きない。その全てに責任があるのが監督業である。原作と出来上がる映画は別物である。
原作者が脚本を書き、監督をするのが望ましいが、ペンを光と影に持ち替えての作業は別の才能がいるようである。
青春の殺人者の場合の本当の事件の概要 は1974年10月30日の17時20分ごろ、千葉県市原市の自宅で、両親から風俗店勤務女性との結婚を反対されたことに激怒した息子が父親(当時59歳)を登山ナイフで突き刺し、続けて止めに入った母親(当時48歳)も刺殺。 両親ともほぼ即死の状態で、遺体を浴槽に隠す。(死体を浴槽に隠すのは市橋のリンゼイ事件の場合もあった。)事件を映画化することはある意味、情熱がいる。例えば2000年12月30日の世田谷一家殺害事件」として報道されてきた未解決事件として24年たった。世田谷区の上祖師谷の一戸建てで、ほとんど成城に近い会社員の宮沢みきおさん(当時44)、妻の泰子さん(同41)、長女のにいなちゃん(同8)、長男の礼くん(同6)の4人が殺害された事件は犯人が逮捕されていない為か映画化はされていない。未解決事件を映画化するのがなぜ難しいのか。犯人が逮捕されないからである。真実が明るみに出ない。未解決事件の場合映画化には時間が必要なようだ。日本の代表的な未解決事件で有名なものは1968年に起こった3億円事件は「実録三億円事件時効成立」という映画になっている犯人は警察官の息子と見られている。1984年発生のグリコ・森永事件」は「罪の声」となっているが子供の声に重点が置かれアナザーストーリーだ。
1985年に発生したパラコート連続毒殺事件は不特定多数の人を狙った事件で13人もの人が死んでいるにもかかわらず犯人が捕まっていない。毒殺事件がヒントとなってできたSF物語が「テセウスの船」だ。
1994年井の頭公園にバラバラにされてゴミ箱に捨てられた一級建築士殺人事件は該当映画がない犯人も逮捕されていない。
1996年の柴又女子大生放火殺人事件はTVなどで報道されるが留学前の上智の学生が殺されて放火された事件だが映画化はされていない。
2000年に発生した世田谷一家殺害事件だが、映画化はされていない。
1997年に発生した「 東電OL殺人事件 」はネパール人ゴビンダが逮捕されたが365の男が犯人だとしてネパールに出国した。事件を連想させる映画はあるものの事件を映画化したとは言えない。
2013年に王将の社長が射殺事件
起きたが犯人は逮捕されておらず映画化もされていない。工藤會の組員の関与疑われたが逮捕されておらず映画化もされていない。
映画化された犯人が特定された事件は1988年に発生した日本犯罪史上最悪の少年犯罪事件と名高い「 女子高生コンクリート詰め殺人事件 」をモチーフにしたノンフィクションクライム映画だが劇場上映が1週間で打切りになり苦情が殺到した。実際の事件の犯人は少年の4人(A・B・C・D)で映画のタイトルは「コンクリート」だった。映画は感情移入するところが大事であると考えるリアリティーにばかり重点を置くと胸糞の悪い映画がになってしまう 2009年に発覚した「 半田市立成岩中学校事件 」犯人は愛知県半田市立中学に通う1年生の男子生徒11人だった。この事件をモチーフにしたスリラーヒューマンドラマ映画は「先生を流産させる会」が映画化されている
2004年に発生した「 佐世保小6女児同級生殺害事件 」の犯人は同級生の女子。事件から着想を得たサスペンススリラー映画は「サニー32」
2010年に発生した「 大阪2児飢餓事件 」犯人は母親だった。この事件を題材に制作されたヒューマンドラマ映画が「子宮に沈める」というタイトルで映画化されている。実際の事件が映画化されたが一週間で後悔中止になったりする事もあるが、犯人逮捕は映画にする為には、重要なポイントであることは間違いがなさそうであるが、入館料を出して映画を見るというシステム自体が変わってしまうと映画にも影響が出てだろうと思う。未解決事件や、都市伝説、ゾンビ殺しなど映画の質にも影響を与える。映画はフィクションだが、観賞後に残るものがあったと思えるのが望ましいと思う。時代劇なども時代考証を丁寧にすると面白さが欠けて来る。ただ評定所広間で切腹をするなどはあるわけがないと分かるが、外国人は、すんなりと受け入れてしまうのではないか。これは映画なんだという寛容も大事だ。光と影で描く物語なのだという事を忘れてはならないがあまりのリアリティーにとらわれて事件の再現で終わってはならない。肉を捌く主婦と遺体処理を請け負う主婦を同一視してはならない。映画は共感だ。これから作られる映画も共感出来る映画であってほしい。映画の理論編としては実際の事件をフィクションとして描く場合、リアルすぎないことも重要だと言える。現実の方が映画より残酷無慈悲である
人間の葛藤や苦悩、喜び、悲しみなど愛のある目線で、創作していただきたい。見終わった時「映画っていいものですね」と言える映画にして欲しいものです。映画館はどんどん減っている。大衆娯楽から、図書館で本を読む様に、選んで見る時代の二択路線に変化している。今回は事件と映画でした
(続)
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