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【短編小説】領域

鎌倉の山間に遁世した人嫌いの男のもとに、絶縁状態の親戚が口のきけない少女を連れて訪れる。「口がきけないということだけで、人はこれほどまでに残酷になれるのだろうか――」憤りに任せ、男は少女を引き取ることになり、静かな二人暮らしが始まる。 暗闇の中で温かなものを手繰り寄せるように、二人きりの暮らしは穏やかに続く。少女は旅行鞄の中を決して見せようとしなかった。

 一、

 疎遠になっていた伯母が私を訪ねて来たのは、景色の全てが白い光に溶けていくような八月の午後だった。
 庭の端にある水道にゴムホースを繋げて、縁側の向こうに広がる雑草が伸び放題になった小さな庭に水を撒いていた私は、玄関先で鳴らされたブザーに暫く気付かなかった。

「ごめん下さぁい」

 荷物が届く予定も、知人が訪ねてくる約束も、ましてや気安く遊びに来る友人もいない。
 初めはその耳慣れない甲高い呼びかけが隣家に向けられたものだと勝手に思い込んだまま、私はホースの先からの飛沫が強い午後の光に溶けて消える様をぼんやりと眺めていた。

「松原さぁん、智彦くぅん、いらっしゃらないのぉ」

 名指しで呼ばれ、不意に現実に引き戻される。

「はい、今行きます」

 心当たりのない女性の訪問を訝しく思う間もなく、反射的に応えた。
 ホースをその場に放り投げ、蛇口を締めて、土に汚れた軍手を外し、Tシャツと半ズボンにサンダル履きのまま、足早に玄関へと回る。

「はい、何か」

 玄関口には、まぶしいオレンジ色のシャツを着た中年の女性が立っていた。だらしなく太った胴を鮮やかな色が包み、一層と大きく見せている。
 思い当たりのない訪問に当惑を隠しきれぬまま、私が女性を眺め回していると、視線が合った。会釈をしながら思わず視線を外す。
 女性の背後には猫背でおどおどした様子の痩せた少女が一人、隠れるようにして従っていた。中学生くらいの年齢だろうか。質素な黒いワンピースを着て、手には革製の古そうな旅行鞄を抱えている。

「智彦くん! お久しぶりね」

 女性が夏に似合わない真っ赤な色を引いた唇で私に笑いかけた。私は彼女が自分の「伯母」であることを、少しの間の引き攣った愛想笑いの後に漸く思い出す。

「……お久しぶりです。お変わりありませんね」

 義務的な笑顔を作り挨拶をしながら、両親の法事にすら顔も出さない態度でも叱りに来たのだろうか、と考える。

 

 ――伯母はどうやって私がここに居ると知ったのだろう。

 鎌倉の奥のこの小さな一軒家を、知人の紹介で格安で譲り受け、私が一人で移り住んだのは半年ほど前だった。
 昭和の初めに建てられ、長いこと空き家だったという家は古いながらも造りがしっかりしており、小さな庭が付いていた。
 人の多い都市部に嫌気が差し、「静かな街で暮らしたい」と漏らしていた私に、教授が「鎌倉に古い家が一軒空いてるんだけど」と声をかけてくれたのは、何かの巡り合わせだったのかもしれない。

 家を見てすぐに引越しを決めた私は、転居に伴う連絡を敢えてしなかった。
 電気や水道やガスなど生活に必要な手続きと、仕事関連以外の知り合いには、一切連絡していない。実家で暮らす兄や親戚も同様だ。年賀状のやり取りをする相手もいないし、何よりも、人に遠慮なく訪ねて来られることは、家で大半の仕事をしている私にとって邪魔でしかなかった。
 人の多さや義理の付き合いに辟易して、都心を逃げ出して来たのだから。

 ここに越して以来、週に二度の大学の講義以外、私は全く家から出なくなった。家の近くを散策することはあっても、電車に乗って街へ出ることは、先ずない。駅から歩いて二十分ほどの山間にあるこの場所の環境は、ぼんやりと考え事をしたり、文章を書いたりすることに集中するのに、とても適していた。
 大学へは遠くなってしまったけれど、日中の空いた電車に座り、読書のための纏まった時間が取れるようになったことは、むしろ喜ばしいことである。

 そういう訳で、私はここで一人、半ば隠遁のような生活を送っている。この家には、決して大きくはないものの一人住まいには十分な空間と、静けさが備えられていた。


 「話があるのよ」と意味ありげに笑う伯母と、その背後に隠れるように俯いたままの少女を南向きの座敷へ通し、私がお茶を淹れて戻ると、伯母は不自然に赤い唇を横へ引き上げるようにして笑った。

「冷房、付いてなくてすみません」

「いいのよ、そんなこと」

 そう言いながらも伯母は左手に持った花柄のハンカチでしきりに汗を拭っている。少女は正座をしたまま、表情のない瞳で縁側越しの庭を見ていた。何の気なく視線を辿ると、その先には私が先刻投げ出したホースがその形で横たわっていて、その向こうには明るい緑の日溜りがあった。

 棚の上にある扇風機のスイッチを入れ、私は伯母の向かいに座った。風に煽られて、軒下に釣った風鈴がささやかな音を立て始める。

「いいお家ね。あなたがこんなところに住んでいたなんて、知らなかったわ」
「あ、ええ。まあ」

 転居の連絡を怠ったことを責められているような気がして、私は小さく頭を下げた。

「もう少し手を入れれば、もっといいと思うけど」
「はあ……」

 伯母は、埃の溜まった欄間を見上げてそう言った。

 唐突すぎる訪問に、正直なところ、私は戸惑っていた。
 父の兄の妻である伯母とは両親の生前に幾度かと葬儀の折に少し顔を合わせただけで、会話すらまともに交わしたこともない。ただ、殆ど関わった覚えはないながらも、生来潔癖で気の強い人だという印象がある。

 ——伯母は一体ここまで何をしに来たのだろう。
 電車を乗り継いで、私の居場所を探し出すような真似までして。法事を欠席するような身勝手は今に始まったことではないし、第一、私の人嫌いについては亡くなった両親も諦めていたほどだったから、今まで誰にも咎められるようなことはなかった。そんなことを今になって伯母がわざわざ居場所を調べてまで叱りに来たとは考えにくい。

 痺れを切らして、私は顔を上げて伯母に尋ねた。

「で、今日は、突然どうなさったんです」

 部屋の中を舐めるような視線で見回していた伯母は、目を泳がせるようにして、

「ええ、ちょっとね、お話があって」
 と口を濁した。

「だからその、……お話を伺おうと」
「そうだ。これ、お土産」

 伯母は私の言葉を遮って、持っていた紙袋から包みを取り出した。
「あ、有難うございます」
「駅前で美味しそうだったから、買ってきちゃった」
「はあ」

 こういう場合は、この場で包みを開き、一緒に食べるのが礼儀的には適っているんだろうか。
 礼儀に適わない態度を伯母に見咎められることを怖れ、私は両手で包みを受け取ったままの姿勢で、途方に暮れた。一般的によくある手土産にケーキという光景を想像し、少し考えてから、ゆっくりと包みを開く。

「あ、蜜豆……」
「男の人は甘いもの、好きじゃないかしら、とも思ったのだけど」
「いえ、有難うございます」

 言葉が途切れる。私は伯母の隣に座る少女に視線を向けた。少女の唇は縫い閉じられてでもいるように、きつく閉ざされていた。相変わらず正座も崩さず、伏せ目気味に、陽の当たる庭を遠く眺めている横顔を見て、親戚にこのような年頃の娘が居ただろうか、と考える。

途切れてしまいそうな心許ない記憶の糸を注意深く手繰り寄せる。

 ――面識はない、筈だ。……多分。

 少なくとも伯母の子供たち、私の従兄弟に当たる兄弟ではない。年齢が違いすぎる。彼らは私よりも年上で、皆結婚もしておらず、無論子供も居ない。伯母の娘だと思うには、無理がありすぎる。

「あの、そちらは」
「蜜豆、今食べないんだったら冷蔵庫に入れておかないと、傷むわよ」
 再び、言葉は遮られた。
「……はあ」
「冷蔵庫に入れてきちゃいなさいよ。私は帰りにまた買っていくから」

 どこか生前の母に似た強い口調で促され、私はまたもや言葉を飲み込んだ。
 伯母は不自然なほどに少女についての言及を避けている。
 それに気付きながらも、私は言葉を返すことが出来なかった。
 蜜豆を紙包みごと押し付けられたような形で仕方なく「じゃ、ちょっと失礼します」と立ち上がる。
 この伯母さんには抗わないほうがいい、と寡黙な兄が零していたことを思い出す。苦手な類の人間だ。しかし伯母を下手に怒らせて、親戚関係を一手に任せている兄に迷惑をかけるわけにはいかない。

 訳も分からず、ただ早く帰って欲しい一心で、私は座敷の襖を閉めてから、ひとつ大きく溜息を吐いた。襖の向こうから伯母の囁くように話す声がかすかに聞こえたが、私は取り立てて気にしなかった。


「お話と、いうのはね」
 座敷の襖を開けた私が座るのも待たず、伯母は唐突に話を始めた。下を向き、目を合わせようとせず、何か忌まわしい物を嘔吐するようにして、呆気にとられた私を残したまま、伯母は一人喋り続ける。伯母の突然の変貌に戸惑ったまま、私は大人しく座布団に座った。

 狂ったように早口で感情的な言葉を吐き出す伯母の隣で、少女はやはり俯いて所在なさそうにしている。垂らされた髪が、視線を動かす毎に肩の上で遊ぶ。染めたことなどなさそうな痛みもなく健康でまっすぐな髪。

 ――こんな髪をした娘はうちの学生にはいないな。

 そんなことを考えながら、私は切りそろえられた前髪の下で泳ぐ少女の定まらない視線と、その肩の上に流れる髪を眺めていた。
「……あなたも、可哀想だと思うでしょう?」
 一頻り捲くし立てるようにして続けた伯母は、そこで私の顔を正面から見据えた。
「……ええ、まあ」

 伯母の話の大半は、親戚縁者の中で伯母の立場に関する愚痴であった。「全部わたしの責任にされて」
「皆そうよ、わたしが悪いんだって思ってる」
「そんなこと言われてもどうしようもないじゃない」
 そんな言葉を繰り返し、顔を上気させ、伯母は私に時折同意を求めた。
 正直「面倒だな」と思いながらも、私は表面上は優しく礼儀正しい甥の面を被り続けた。

 伯母は精神を病んでいるのかもしれない、と微笑みを作りながら考える。
 こういった場合、話を聞くことは面倒であったけれど、今、彼女を拒否してしまうと、以後一層の面倒な事態に巻き込まれるのは目に見えていた。「こんな話をしにここまで来たのか」ということに奇妙な感嘆すら覚えながら、私は演技を続けた。

「智彦くんは、ここに一人で住んでいるの?」

 ハンカチで涙を拭い、卓上に置きっぱなしにされた緑茶を一口飲むと、伯母は漸く顔を上げた。私は内心胸を撫で下ろしつつ「ええ」とだけ答える。

「じゃあ一つ、お願いをしてもいいかしら。言い難いことだけど」
「何でしょうか」
「この子を、ここに置いて欲しいのよ」
 伯母は少女の顔を見ないまま、その小さく丸められた背中に手を添えて、私に言った。

「……はあ?」
 思いがけない言葉に、思わず間の抜けた声が出る。

「今ね、親戚中が荒れているのは、この子の居場所がないことも一つの原因なのよ。去年亡くなった角原のお婆さん、あの人が養女にしたのだけど。死んだから出て行け、って訳にもいかないでしょう」

「……え、じゃあ」

「率直に言うわね。今まで親戚中の家を転々としていたのだけど、正直言って、どこの家も他人の娘を育てるような余裕はないのよ。今はうちに居るのだけど、小さい頃から育てる訳ではないのだし、どうしても家族だけで精一杯。
 犬や猫を飼うのとは、訳が違うんだから。仕方のないことだと思うわ」

 突然の伯母の訪問が意図したところに漸く辿り着いたのだと、少し経ってから気が付いた。同時に、血が繋がらないからといって人はこれ程に冷酷になれるものかという驚きと怒りに思わず絶句する。
 こんな年端もいかない娘を、普段交流もないほぼ他人である三十半ばの男に押し付けても構わない、という程に。

 ――伯母の吐いた無神経な言葉は、今までに幾度、この少女を傷つけてきたのだろう。少女の寄る辺のない存在感は、こうやって築かれた物なのだ。
 挙句、伯母は手に余ったこの娘を私に押し付けるために、この場所を調べ上げたのだ。
 娘を体よく厄介払いするために。自分の負担を少しでも軽くするために。

 自分のことしか見えていない伯母の姿は、先ほど以上に見苦しく醜いものとして、私の目に映った。

「お金のことは大丈夫よ。亡くなったお婆さんがちゃんと残して下さったから。引き取ってくれたら、遺言にあった割合で不自由しないだけのお金を送るわ」

 そう言って伯母は、改めて室内を見回した。

「智彦くんも、一人住まいなら、悪い話じゃないんじゃない? この子は家事だってやってくれるわ」

 埃の溜まった欄間。古びた本が山積みになった床の間。伯母の視線は下品さを纏いながら遠慮なく泳ぎ、媚びるような笑みを唇に張り付かせていた。縦横に伸縮する、よく動くその赤い唇は、グロテスクな軟体生物を連想させた。

「……お金の問題じゃないでしょう」
 搾り出すように、それだけの言葉を口にした私に、伯母は笑って答えた。

「勿論お金の問題じゃないわ。この娘には、居場所がないの。あなたが受け入れるかどうかで、また施設に戻るかどうかっていう話よ」


 何を言っても無駄だと思った。
 これだけ無神経で冷酷な言葉をぶつけられながらも、下を向いて黙っている少女が不思議だった。

 娘はきっと絶望しているのだろう。全てのことに。もしかしたら、幸せに生きていく当たり前の権利が自分にあることすらも、知らないのかもしれない。

「分かりました」
 伯母の顔が目に見えて明るくなる。それを見て、私は虫酸が走るのを感じた。思わず目を逸らして続ける。

「この子に関しては、僕が引き取りましょう。もうお話は聞きたくありません。お帰り願えますか」

「智彦くんなら、そう言ってくれると思っていたわ。優しい子ですもの」
「帰って下さい。その前に、この娘に一言でいいから、謝って下さい」

 伯母が吹き出すようにして笑う。
「何を?」

「とにかく一言、彼女に謝って下さい」
「あらやだ、不思議なことを言うのね」

 伯母は、腹の底から愉快でたまらない、とでも言うように笑う。そして一頻り笑い続けた後に、ふと真顔に戻って、
「この子、どうせ喋れないんだもの。わたしが何を言ったって一緒よ」
 と言って、再び腐敗した果物のように、伯母は私たちに微笑んで見せた。


 「ちゃんと良い子にするのよ。じゃないともう行き場所ないんだからね」と娘の頬を指先で撫で、「じゃあ、お暇するわね」と私に媚びるように笑いかけて、伯母は帰っていった。その後姿を見ていたくなくて、私は無言のままに玄関のガラス戸を引いた。


 二、


 少女について名前や年齢すら知らないことに、伯母が帰ってから、私は漸く気がついた。

 暫し考えてから、まあいいか、と溜息を吐く。

 突然の環境の変化に驚き、戸惑っているのは、少女も同じなのだろう。伯母が帰った後も娘は身を固くして足も崩さず、小さく俯いていた。

 その場の勢い、ではあったが、一度「引き取ります」と言った手前、私には少女を養う義務がある。こうなってしまった以上、戸惑ってばかりいても仕方のない話だし、ただでさえ怯えている少女を一層不安にさせてしまうだけだろう。

 「よし」と気合を入れて、極当たり前だった日常を揺らがせまいと決心する。問題があれば、ゆくゆく解決していけばいい。どうにかなるだろう。そう自分に言い聞かせる。


 自分を平常心に戻すためにお茶を淹れなおし、盆を持って座敷に戻ると、顔を上げた少女と初めて目が合った。先程よりも不安そうな色を強めて、怯えるようにして私を見上げるその視線に、昔飼っていた犬を思い出す。彼も私に叱られると、よくこんな心細そうな顔をしていた。懐かしさがこみ上げて、思わず少し笑いがこぼれる。

「いいよ、怖がらなくて。何も怒ってないから」
 そう言うと、怯えの色が緩み、彼女は恥ずかしそうな表情を浮かべた。

「どうせ一緒に住むんなら、楽にしていて」
 茶碗を置きながら私が笑って見せると、彼女は漸くはにかむように不器用に笑った。

「二階の南側に使ってない部屋があるから、そこを使っていいよ。少し本を置いてるけど、後で片付けるから」

 少女は茶碗を両の掌で包み、小さく頷いた。ふと、少女の傍らに置かれた古びた皮製の旅行鞄に目が留まる。
「荷物は、それだけ?」
 恥ずかしそうに少女が俯く。

「じゃ、日が翳ったら必要な物を買いに行こう。高い服なんかは買ってあげられないけど」


 私には姉や妹がいたことがないので、こんな年頃の女の子が何を思うのか、ということには皆目見当がつかなかった。

 少しでも彼女のこわばった表情が薄くなること、この家が少女にとって楽に過ごせる場所になることを考えようと思った。そして、私自身にとっても。

 私はどうしてあの時、考えもなしに「引き取る」などと口走ったのだろう。自分の言動ながら、今考えてみると、それが不思議でならなかった。
 いつもの私であれば、多少冷静さを欠いていたとしても、自分の居場所が平らかであることを死守するだろうと思う。自分ひとりの穏やかな生活を望んで、東京を離れ、鎌倉の僻地にまで居場所を探して引越しまでしたというのに。私は自分の世界を不用意に侵されることを何よりも嫌っていた。それは今も変わらない。生活する場所を誰かと共有することを疎み、それを理由に結婚すらも考えたことがないというのに。

 大学入学を機に家を出てから、かれこれもう二十年近くの時間を、私は一人で生きてきた。一人だけの世界。一人だけの場所。誰にも邪魔をされない完結した場所として、常に続いた安寧は、誰か他人が同じ場所に居ることで容易く崩れる。私はそれを常に恐れていたはずだ。
 交際した女性も居ないではなかったが、多くの場合彼女たちは私よりも年上で気を遣わなくてすむ相手だったし、誰一人として部屋に招き入れたことはない。

 唐突に始まった、この共同生活を、受け入れなければいけないのは私のほうではないのか、という不安が胸を過ぎる。

 考えまい、と自分に言い聞かせるようにして、軽く頭を振る。自然に日々を送ればいいだけの話だ。昔飼っていた犬に似て見えたからだろうか、少女には今まで誰に対しても感じていた違和感を、それ程覚えなかった。それで十分だろう。


「だいたいいつも、僕は一階の北の部屋で仕事をしているから。邪魔さえしなかったら、自由にしてもらって大丈夫だよ。ある本は適当に読んでいい。テレビはないけど新聞は取っているし、居間にはレコードもある」

 案内された部屋を見回す少女に、声をかける。今まで書庫として放りっぱなしだったため、そこここに白く埃が溜まっていることに今更になって気が付いた。

「掃除をしてないから、ちょっと汚いけど」
 こちらを振り向き、小さく左右に首を振り、少女は「ありがとう」と色の薄い唇の仕草だけで言った。
「喋れない……、声が出ないのは、生まれつきのものではないの?」

 頷く。

「角原のお婆さんと暮らしてた頃は、声は出てた?」
 少し躊躇った後、頷く。傾いた夕日が差し込んで、俯いた横顔に影を作る。

「ごめん、こんなこと訊いてしまって」
 突っ込んだことを訊き過ぎたのだと気付き、慌てて謝る。

「六時になったら、買い物に行こう。その頃には日が翳って涼しくなるから」
 私は彼女にそう言って、目を合わせないまま階段を下りた。開け放たれた縁側の奥の庭で、油蝉が、ジジジジ、と声を上げている。


 三、


 日が暮れて喧しかったツクツクボウシの声が途切れた頃に、仕事部屋の窓を開けていると静かな水音が聞こえる。家の裏手に流れる小さな川の気配だ。田舎の景色のような手の入らない川には、両側から濃い緑の木々が枝を伸ばして影を作っている。左右の細い岸には雑草が高く伸びていて、近くに住む老人に「蛍が居る」という話を聞いたことがある。もう八月も終盤だから、蛍の飛ぶ季節は過ぎているけれども、私は変わらずこの川が好きだった。家の中に居て、静かな水音が聞こえているというのも、この家を気に入った理由の一つだった。静かな水音を聞いていると、自分の中に溜まった澱のような物が流されて消えてゆくような気がする。

 時計を見ると、もう八時を過ぎていた。作業を中断し、一つ大きく伸びをすると肩が鳴る。その音を聞きつけてか、少女が細くガラス戸を引き、こちらを覗き込んだ。

「ご飯にしよう。素麺でいいかな」

 小さく頷く顔を確認して、椅子から立ち上がる。

 

 驚くほど自然に、少女はこの家に溶け込んだ。溶け込んだ、と言うと語弊がある。馴染んだというのではなく、昔から居たように当たり前に、私と少女はこの家の中で共存していた。

 私は、極力彼女に構わないことにした。変に気を遣って、私自身の調子が狂うことも避けたかったし、変に気を遣われた少女が、恐縮してぎこちなくなることも避けたかった。
 彼女に何かを問うこともやめた。名前や、年齢や、今までのことなど聞きたいことは数えればきりがなかったが、それを問うことで、不用意に彼女自身の暗部に触れてしまうのが怖かったからだ。

 私と少女は互いに踏み込むことをしないまま、手探りで生活を始めた。最初の数日間、少女は不思議そうに家の中を見て回っていたようだが、近頃は、部屋に積まれた私の本を読んで過ごしているようだった。


 茹で上げた素麺を笊に取って冷水に晒しながら、ふと気が付く。
「そういえば、猪口が一つしかないんだ」
 テーブルで生姜を擦っていた少女が振り返る。

「これでいいかな、ちゃんとした食器も近いうちに購いに行こう」
 コップ代わりに使っている古道具屋で購った理科実験用のビーカーを手渡すと、少女はそれを見て顔を綻ばせた。

「昔の中学校で使っていたものらしいよ」
 珍しそうに両手でビーカーを電燈の明かりにかざして見上げている。

「気に入った?」
 首を大きく縦に振り、少女は嬉しそうな笑みを顔に滲ませた。

「じゃあそれ、好きに使っていいよ。君にあげるから」
 目を伏せ、両手でビーカーを包みながら少女が満面に笑う。

「早く、食べよう。伸びてしまうよ」

 大きなガラスの器に笊から上げた素麺を移し、水を加えて、氷を乗せる。そこから菜箸で各々の器に軽く一山ずつ。少女の器には、山にした素麺のうえに、シロップ漬けのチェリーを一つ壜から摘まんで、山を崩さないように注意深く乗せる。

「はい、どうぞ」

 自分の子供のような年頃の娘に、どのように接していいのかは相変わらずよく分からなかったけれど、このチェリーは私の精一杯の優しさだった。先日買出しに出た際に思いついて、このためだけに購ったシロップ漬けのチェリー。
 こんなつまらない事柄でも、少しでも少女が自らの殻を緩ませる力になれればいいと思う。
「ここに居る間は、自然に楽にしていればいい。僕は君を傷つけようとは思わないから」
 そんな言葉を面と向かって吐くことはできない男のせめてもの誠意のつもりだった。

 チェリーの粒を、華奢で白い指先で摘み上げた少女は、こちらを見返して唇だけで「ありがとう」と言った。面映い気持ちがして、私は思わず「早く食べよう」と目を伏せる。

 学生時代に、初めて同級生の女の子を意識した時のような、こそばゆさを思い出した。
 私は箸でピンポン玉大の生姜を取った。少女は生姜を使わないらしい。

 黙って素麺を啜る間に、窓の外で虫が鳴き始めた。


 ザアッ、と夏の間に茂った草が、風に吹かれて音を立てる。
 食事を終えた私と少女は、その音に誘われるようにしてガラス戸越しの庭を向いた。

「庭に出てみるかい?」

 風に煽られた軒下の風鈴が、かしましく鳴っている。昼の間下ろしていた簾を巻き上げる。俄かに止んだ虫の声が再び静かに響き始める。

「おいで。案内するよ」
 下駄を突っ掛けて、私は少女を振り向いた。

「そこ、泥濘んでいるから、気をつけて」
 差し出した私の手を遠慮がちに握り、少女はサンダルを履くために身を屈めた。その掌は薄く、血が通っていないかのように冷たかった。

庭に出ると月が明るく、微かに秋の匂いがした。
「もう、秋だね。来週には九月だから、そんなもんか」

 手を繋いだまま、私たちは庭を歩いた。さやかに音がするような白い月光に照らされて姫女苑の小さい花が、白く浮かんで揺れた。塀の傍らに赤黒い実を付けた洋種山牛蒡がしなだれて葉を黒ずませている。
 いつになく静かで清らかな気持ちがした。私は庭に茂った草花の名前を一つ一つ教えながら、ゆっくりと辺りを見回した。

 こんな夜には、宮沢賢治が信じた光素(エーテル)の存在を、信じてみたくなる気持ちがする。私は少女の横顔を見た。白い光を綾のように透かしたその睫毛に、暫し見蕩れる。
 ――私の肩ほどまでしかないこの娘の身長は百五十センチといったところだろう。

 おもむろに少女が庭の向こうを指差した。手を引かれるようにして進むと、そこには小さな青い花が群生していた。手を伸ばして露草を一輪摘み、少女は私に微笑みかけた。


 そういえば、この娘は学校に通わなくてもいいのだろうか、という疑問がふと頭を掠める。伯母が「居場所がなければ施設に戻るだけ」と言っていたということは、働いて自立できる年齢には満たないということだろう。義務教育を受けるべき年齢なのだとしたら、来週、二学期が始まってしまう前に、地元の学校へ転入の手続きを済ませなければいけない。

 「ねえ」と声をかけようとして、躊躇った。本人が学校に行きたいというなら、行かせるための手続きなどは厭わない。
 しかし声が出ない少女を、思春期の子供たちの野蛮な群れに有無を言わせず放り込むことに、私は強い抵抗を感じた。
 何かを学ぶなら、いや、学校に通うなら、少女が声を取り戻してからでも遅くはない。声が出ない転校生を迎えた中学生たちが、彼女の特異な部分に面白がって踏み込むことは目に見えている。

「ねえ」
 一つ呼吸をしてから、私は彼女に話しかけた。

「学校に通いたい?」
 指先が少し震えた。見上げた少女は私から目線を外し、宙を彷徨うように視線を泳がせ瞬きをした後に、首を左右に振った。

「そうか。じゃ、いいよ。行きたくなったら行けばいい」
 その顔が安堵に緩む。私も肩の荷が下りたような気持ちがして、顔がつられるように緩む。


 庭を一回りして、ガラス戸を引き開けて縁側に座ると、電燈に照らされた少女の白い手が浮かび上がるように見えた。
 自分が今まで繋いでいた、その手は白く肌理の細かく柔らかそうなものだった。ゆるやかな曲線を描く華奢な指は、骨ばって甲に血管が浮いた私のものとは全く違う。
 優美な、という言葉が似合う可憐な指の、思いがけない冷たさを思い出す。私と少女は、違う生き物なのだ、ということを強く思い知る。

 少女がこの家に来てから流れた時間の自然さに、私と少女は近い生き物であるような気がしていた。同じ場所で、同じ物を見て、自然に生きていけるものだと無意識のうちに思い込んでいたことを自覚する。


 チリン、と強く鳴った風鈴の音に我に返る。見上げると、サンダルを脱ぎ、縁側に上がった少女が不思議そうにこちらを見下ろしていた。

「なんでもないよ」
 私はそう答えて、少女に微笑んで見せた。

「珈琲でも淹れようか」
 私は落ち着いていなければいけないのだ、と自分の心に強く銘じる。

 少女が、この場所に、安心して居られるために。声を失った少女が、その殻を解くために。普通の少女として、幸せに暮らせるようになるために。生きていく場所がここにしか残されない少女を引き受けたからには、私にはその義務があるのだから。


 四、


 彼女は摘んだ露草をビーカーに挿し、二階の部屋の窓際に飾った。
 埃だらけで本が積みあがっていただけだった味気ない部屋は、いつのまにか少女の姿が似合う場所になっていた。先日の買い物を足しても旅行鞄一杯には満たない荷物をきちんと纏めて、今日も彼女は荷物に並んで部屋の片隅に座り、膝の上に広げた本に視線を落としている。


「何を読んでいるの」
 興味本位で声をかけると、少女は顔を上げて、両手で持った本の表紙を私に示してみせた。

「……ポーか。面白い? 僕も君くらいの年の頃に読んだよ」
 彼女は軽く微笑み、頷くようにゆっくり瞬きをした。

「そういうのが好きだったら、うちには面白い本が色々あると思うよ」
 窓の外で、雨粒が瓦を叩く音がし始めた。

「あ、いけない。夕立かな」

 窓から身を乗り出すと、みるみるうちに水滴は滝のような雨に変わった。
 薄明るく曇っていた午後の湿気は冷たさを帯びて重く圧し掛かるような暗さに変貌し、遠くの空では稲光と雷鳴がくぐもりながら響き始める。さざめきに似て野山に広がっていた蝉の輪唱もいつのまにか途切れ、世界は雨の音に包まれた。

 私はその場に立ち竦み、視界が黒く濡れていく様を言葉もなく見守った。いつしか少女も読みかけの本のページの間に指を挟み、横座りをしたままの姿勢で窓の外の雨を見上げていた。耳鳴りのように世界を包む音は、時間が止まっているような錯覚を起こさせる。

 私はその時に、時間が止まればいいと、どこかで願っていたのかもしれない。

 何かを思い出しそうになる時間の狭間で、降り続いている雨の中、私と少女が並んで居るこの世界の片隅で、何かの奇跡が起こることを夢に見ていた。

 遠い過去の記憶。夢の中で会った人。忘れてしまった儚い思い。いつか誰かと交わした言葉。そんな曖昧なものを手探りで掴もうとするような。こんな時間には、そんな甘えが許されているような気がした。

 おもむろに少女が立ち上がる。先日購った薄い素材のワンピースの裾が揺れて、白い向う脛が垂直に畳を踏む。

「どうかした?」

 少女は首を振り、手に持っていた本を傍らに置くと、部屋を出て階段を下りた。窓の外へ視線を戻すと、雨の中を郵便配達の自転車がこちらへ向かってくるのが見えた。ビニール傘を差した少女が、サンダルを引っ掛けて小走りで玄関から門へ向かって行き、配達人から郵便物を受け取ると早足で玄関へと戻って行った。

 誰かから手紙が来る予定でもあったのだろうか、と思い、そういえばいつもこの時間に少女が届いた郵便物を、私の仕事部屋まで届けてくれることを思い出す。あれはここで生活するために必要な、彼女の役目なのかもしれない。

 郵便物に限らない家の中の忘れがちな事柄に、少女はよく気が付いた。山になっていた新聞を纏めたり、消し忘れていた電灯を消したり、埃だらけだった廊下がきれいになっていることは日常的にあったため、私は特には気に留めなかった。

 不注意な私の性格から、彼女の働きによって助けられているとも言えたし、私の仕事道具には手を触れようとしなかったため、不愉快にも思わなかった。細々とした役目を果たすことはこの場所に馴染むための、彼女なりの努力なのだろう。


 日が暮れてからも、雨は降り続いた。

「買い物に行くのはやめよう。あるものでご飯を作るから、それでいいかい」

 声をかけた私に、少女は顔を上げて軽く頷く。


 翌朝、雨はきれいに上がっていた。
 寝台の上で本を読みながらいつのまにか眠ってしまっていた私は、定刻よりも三十分ほど寝過ごした。麻のカーテン越しに朝特有の眩しい明るさが差し込んでいる。鳥の囀る声が聞こえる。ぼんやりと定まらない視界の中、私は外し忘れた眼鏡が壊れていないことを確認し、小さく息を吐いた。

 服を着替え、台所を覗くと、テーブルで本を読む少女が居た。
「お早う」
 軽い会釈が返ってくる。
「きれいに晴れたね」

 開け放した窓の向こうには、雨に濡れたままの濃い緑色の木々が、朝日を浴びてざわめいている。雨の上がった翌日には、浜辺に色々な物が打ち上げられるというのをどこかで読んだことを思い出した。

「朝食を摂ったら、海に行ってみようか。海水浴の季節も終わったことだし」
 少女は顔を上げて、目を見開いた。
「海があるんだ。ここから歩いて行けるところに。午前中なら暑くないし。行くかい」
 少しの戸惑いの後、少女は大きく頷く。
「よし。じゃあ朝ごはんにしよう。パンを焼いて。卵は僕がやるから」


 ふと、家の外を案内する目的で少女と外出するのは、初めてだということに気がつく。
 今までに幾度か、近くの店だとか郵便局だとかに出向いたことはあったにせよ、鎌倉という街の輪郭を人に伝えることは、私にとっては初めての経験だった。

――地図でも購っておけば良かった。

 越して来て半年以上が経つとはいうものの、私はこの街について殆ど知らない。有名だという大仏も見に行っていないし、寺社や観光地らしい場所にも立ち入ったことはない。案内するなら、この街を少女が気に入るといいと思うし、少しでも良さを知っておいて、伝えるべきだったのかもしれない。そのほうが少女も喜んだだろう。

 とは思うものの、私はこの街の、というかこの家の、環境を気に入って引っ越してきたのだった。それ以上のことを知らなくても、罰は当たらないだろう。

 でも私の案内が余りに不甲斐ないものだと、少女を落胆させてしまうかもしれない。やはり地図くらいは引っ越した早々に購って、住んでいる街の輪郭くらいは知っておくべきだった。

 狼狽を悟られないよう、左手に持ったコップのトマトジュースを私は一息に飲み干した。


 道に出ると、アスファルトは黒く濡れ、そこここに水溜りが出来ていた。空気は澄み、陽射しは若干柔らかい。

「あの道を渡って奥に行くと、瑞泉寺があるよ。僕も行ったことはないのだけれど」

 先程の変な焦りからか、持っている知識を引きずり出して、少女に指を差し示していると、犬の散歩に出かけようとする隣家の奥さんと出くわした。

「あら、松原さん。お早うございます。今日はどちらへ?」
「お早うございます、ちょっと材木座まで」
「そちらは?」
 少女が私の背後へ隠れた。それを見て奥さんは、私の顔をまじまじと見返した。

「ああ……親戚の子ですよ。今度からうちに住むことになったんです」
 奥さんは「そうなの」と言い、私の後ろで俯く少女を上から下まで一瞥し、

「よろしくね。私、隣に住んでいる浜村です」
 と言って少女に笑いかけた。少女は私の背後で小さく会釈をした。

「すみません、この子、人見知りなもので」
「いいのよ。いってらっしゃい」

 奥さんがひらひらと手を振っているのに、私たちは軽くお辞儀をして、その場から逃げるように立ち去った。


 入り組んだ小路を抜け、若宮大路へ出ると、海へは一直線だから迷わずにすむ。日の当たる大通りは、午前中の明るさに満たされていて、まっすぐに海まで続く道は、何か希望の表れであるように思われた。

「実を言うと僕はね、案内するほど鎌倉に詳しいわけではないんだ」
 左側に並んで歩いていた少女が、私を見上げた。

「あまり、期待しないで欲しいんだけど」
 歯を見せて小さく笑う。唇だけで「だいじょうぶ」と言うと、私を見上げ微笑んだ。
「ありがとう」

 肩の力が抜けたような気持ちがして、私も息を吐きながら笑う。少女に対して関わらぬよう、考えすぎぬよう、思っていたはずなのに。
 いつのまにか少女の存在が私の生活の一部になり、それに対して気負っている自分を少し恥ずかしくも思った。少女はいつも自然に振舞っているというのに。そして私の考えすぎを、笑って受け止めてくれているというのに。彼女のほうが、落ち着いていて大人らしいのかもしれない。少女の前では大人でなければいけない、と思っていたのに。

 暫く進むと、視界が開け、青く大きく輝く海が広がった。水平線の向こうには、夏の名残の雲がたなびき、さすがに海水浴客はいなかったけれど、波間にヨットを出す若者や、サーフボードを抱えた少年たちの姿があった。浜辺は波の模様を残し、明るい灰色の砂の上に、打ち上げられたらしい海草が筋を作っていた。

「雨の次の日には、色んな物が打ち上げられるそうだよ。きっと貝殻も多いと思うんだ。……ほら」
 しゃがんで砂を掻き分けると、小さな桜色の貝殻が見つかった。それを指先で拾い、手渡すと少女はぱっと顔を輝かせた。
「ほら、これもきれいだ」
 内側に砂が入り込んだ貝を拾い上げて嗅いでみると、潮の匂いがした。手渡すと、少女も真似をして嗅ぐ。

「これを持って帰れば、いつでも海の匂いが嗅げるよ」
 少女は頷き、私の手渡した貝をスカートのポケットに入れた。そんなことをすると、スカートが砂だらけになってしまう、と言いかけたけれど、その楽しそうな表情に水を差す気にはならなくて、やめた。

 少女が私の服の裾を引いた。振り返ると、波打ち際を指差している。
「行っておいで。僕はここに居るから」

 言い終わるか終わらないかのうちに、履いていたサンダルを脱ぎ捨てて、駆け出す。私はその後姿を見ながら、少女の脱ぎ捨てたサンダルを拾い、近くの日陰へと移動して座った。

「やれやれ」

 自然に口を衝いて出た言葉に、笑ってしまう。何だかまるで、父親のようだと思う。結婚もせず一人で暮らしているからか若いようなつもりでいたけれど、私は知らないうちに大人になってしまっていたのかもしれない。彼女の父親もおそらく私とそれほど年は離れていないだろう。

 顔を上げて波打ち際を見遣ると、少女は俯いたまま、その場に立ち尽くしていた。何かあったのかと慌てて立ち上がった。

「どうかしたの」

 声をかけると、少女は振り向き笑いながら首を振った。その裸足の足元を指差す。促されるままにその足元を見ていると、波が打ち寄せ引いて返す時に、足元の砂が浚われていくのが見えた。覗き込む私の顔を見て、満面に笑みを浮かべる。

「なんだ、心配したのに」

 私が肩を竦めると、少女は歯を見せて笑った。そして足元へと視線を戻す。私は、先程まで座っていた場所に戻り、息を吐いて腰を下ろした。

 踏みしめている裸足の足元の砂が、波に浚われていく時の感触が余程気に入ったのだろう。暫く少女は俯いたまま、時折場所を変えて、波を脹脛に受け止めていた。
 私は日陰に座ったまま暇を持て余し、近くの砂を掻き分けて貝を拾った。帰り際、少女に手渡すために。
 誰かの喜ぶ顔を見たいと思うことは、私にとってあまり経験のない感情だった。


 五、


 声の出ない少女と往来の中ではぐれてしまうことを恐れ、初めて外を歩いた時、私は少女の手を取った。
「はぐれたらいけないから」
 そういうと少女は抵抗もせず、私の掌を握り返した。以来、街を歩く時、私たちは手を繋いでいるのが当たり前になった。私は決まって右側を歩き、少女は常に私の左手の先に居た。


 夏が去る頃、私は流感を患ったように、ある種の郷愁に囚われた。

 何か大切な物を失ってしまったような、手を伸ばしても取り戻すことの出来ない無力感のような、今まで信じて夢中で走り抜けてきた季節がまるで全くの嘘だったような、裏切られたような、えもいわれぬ気持ちに襲われて、理由が分からないのに不安でたまらなくなるのだ。
 自分の手の内に当たり前にあると信じていた宝物が、ある日消えうせてしまっていたような。言葉にならない虚無と絶望が、秋の初めの乾いた高い空に溶けて消えるのを、私はただ、黙って眺めていることしかできなかった。
 高すぎる空に小さく白い月が浮かぶ。それを、手の届かぬ気持ちで遠く眺めていることしかできないように。

 鎌倉という街は、季節を表情に強く滲ませる街だった。
 初めての恋に破れて死んでしまう少年のような儚さで、まるでその季節のためだけに、景色が存在するかのように思える。それはきっと、この街が人に愛される理由にもなるのだろう。時々遊びに来るのなら、良い場所なのかもしれない。
 表情を滲ませ続ける街の中で、私はいつしか濃厚すぎる季節の色に溺れそうな気持ちがしていた。

 頭痛のように蝕む不安の苦しさを忘れるため、私は色を失った夜の街の中を歩くことを覚えた。
 夜半近くに私が一人家を出ようとすると、早足で駆けてくる少女を連れて、手を握り合い言葉なく支えあうようにして、私たちは闇に沈む景色を見て歩いた。


 一日が過ぎる毎に確実に下がってゆく気温と、薄れてゆく夏の気配を、色をなくした景色の中に取り戻そうとしていたのかもしれない。
 私は夜の時間が好きだった。日中は光や風の色や匂いで顕かになる季節も、暗闇に溺れてしまえば『夜』という一現象の中に見えなくなることが、私の精神に多少の安らぎを与えた。
 夜の中に、闇の中に、黒々とした海の底に全ての物が消えうせてしまえば、時間が、季節が過ぎていくということに、怯えなくてもすんだからだ。

 私は何を恐れているのだろう。
 何を失うことに怯えているのだろう。
 時間が流れることに対して、これほどの不安を覚えたことは、遠い思春期の頃にだって一度もなかったのに。
 過ぎてゆく季節など、今に始まったことではない。
 目を瞑ってみせた所で、時間の流れを止めることなどできないのはわかっている。

 そう幾度自分に言い聞かせたかわからない。それでも腐った水に澱む苔のような不安は消えることがなかった。
 薄れてゆく夏の気配を、その匂いを、私はどうしてこれほどまでに手元に引きとめようともがいているのだろう。
 それは自分でも分からなかったけれど、それに耐えるために、私は口の利けない少女を連れて、あらゆる景色を見ることしか術を見つけられなかった。


 少女の目は、いつも少し遠くを見つめているようだった。私が声をかければ顔を上げて微笑むものの、言葉なく夜の中を周遊している間、彼女の視線は何か見えないものを見詰めているように思われた。

「何を、考えているの」

 私は度々、少女にそう尋ねた。ふと我に返ったような表情で少女は微笑み、「なんでもないの」とでも言うように小さく首を振って見せる。
 そういう時の少女は、私と確かに手を繋いでいる一人の人間の少女だった。
 遠くを見ている時の彼女は、忘れられた場所に置き去りにされている色を失った人形のように思われた。

 色素の薄いガラス球のような瞳には何が映っているのだろう。
 震えない睫毛の描く緩やかな曲線はゆっくりと上を向き、天へと続く希望の象徴にも見える。
 物言わぬ少女は、その瞳の奥に何を描いているのだろう。誰にも知られぬ場所、閉じ込められたその小さな世界の中心にあるものとは何なのだろう。
 永遠に知りえない少女のみの秘密の庭だ。高い壁に切り取られた領域の中に咲く野バラの色を、私は永遠に見ることが出来ない。


 完全に不可侵な少女自身の領域の存在を意識したのは、私たちが夜の中を歩き回るようになってからだと思う。
 柔らかで繊細な薄い表皮に閉じ込められた宇宙を、いつしか私はただ羨望を込めて見詰めていた。
 うす紫や水色や紅色に、くるくると色を変える、その小さく美しい『もの』を、私はただ外側から見守ることしか出来ない。誰も壊してはいけないものなのだ、と強く思う。
 もしそれが傷つけられるようなことがあれば、少女は死んでしまうのだろう。それは、少女の『いのち』の結晶だから。覗き込んでいると、曇って見えるその向こうから、時折少女が視線を返すのが分かる。

 少女が、あの旅行鞄の中に、何かを大切に隠し持っているということ。それが私の知っている少女の秘密の全てだった。


 白く浮かぶ街灯に、雨に濡れた木塀が月光に黒く照らされている。
 細い小路の一角、他所の家から迫り出した木の陰に、私は幻を見た。暗闇に光る誰かの目かと思ったそれは、小さな万両の赤い実だった。

 立ち止まった私の顔を、少女が見上げるのが分かる。
「なんでもないよ」
 私は少女に微笑んで見せる。

 鳥も飛ばない、人も歩かない、木々が眠り、誰かが笑う、そんな真夜中に。
 私は少女と二人だけで、世界から取り残されていた。
 月が孤独に浮かぶ。いつか海辺で拾った貝の白さに似た光。

 私は何から逃れようとしているのだろう。
 何を探しているのだろう。
 どこへ行きたいと願っているのだろう。
 歩いているうちに輪郭がぼやけて、何も考えられなくなってしまう。
 頭から離れなかった不安までも飲み込む空虚さ。
 酒に酔った時のような、そんな曖昧な意識で世界を遠く眺める。


 私は少女の手を握りながら、何かを忘れようとするように、何も答えない少女に向かって話し続けた。
 話しながら私は、彼女は人形なのではないかと、私は気が違って人形を連れて街を彷徨っているのではないかと、不安を覚えて、少女の顔を幾度も覗き込んだ。


 そうやって私たちは、あらゆる景色を見た。
 少女と手を繋いで歩くと、世界が夢のように滲んで、甘く見えた。
 永遠のような。
 いつしか、それを確かめたいという思いが、私の徘徊の理由になっていた。


 六、


「松原先生」

 授業後のざわめきの中、資料を纏めて教室を出ようとすると、背後から呼び止められた。振り向くと、私の授業を取っているらしい女子学生が三人ほど立っている。

「はい、何か?」
 質問でもあるのかと思い、尋ねると生徒たちは互いに顔を見合わせ、
「あのー、ええと……」
「えっとですねー……」
 と笑いあっている。

「何か質問でも?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけどー」
 少し苛苛して再び訊き返すと、もじもじしている生徒のうち、明るく髪を染めた娘が、

「来週、先生誕生日ですよね」
 と言った。

「あ……ええ。三十八になります」
 生徒たちは顔を見合わせ、

「あの、あたしたち、お祝いしようと思って!」
「クラスの子達にも飲み会やろうって言ってて!」
「お祝いしましょうよ」
「みんな来るって言ってます」
「来ますよね、先生!」

 と口々に言った。唐突な言葉に面食らう。授業中よりも熱心な態度に、正直辟易する気持ちがしたが、仕事なのだから顔に出してはいけない。

「忘れていました。来週の火曜ですね」
 学生たちの顔が明るくなる。

「はい! みんな授業後に集まって飲もうって言ってます」
「来ますよね?」

 自分の誕生日を忘れていたということよりも、もう十一月に入っているということに驚きを感じる。期待するように見上げる学生たちの顔を、私は見回してから言った。

「申し訳ありませんが、飲み会は皆さんでどうぞ。僕にはお気遣いなく」

 笑みを作り、何か言いたそうな表情の彼女たちに軽くお辞儀をして、足早に教室を出る。


 十一月にもなれば肌寒くもなるものだということを、校舎の外へ出て、今更ながらに実感した。
 日が暮れかけた夕方の校舎からは授業を終えた生徒たちがばらばらと群れて、駅へ続く道を埋めている。
 腕時計を見ると、六時前。つい最近まで夕方の六時は、まだ明るい時間であったはずなのに。今から帰ると、帰宅は八時過ぎだ。
 溜息を吐いて、私は学生たちの作る流れの中へと歩みを進める。

 週に二回、必ず外出しなければいけないことを、私は負担に感じ始めていた。


 寒くなるのも当たり前だ。暦の上では立冬を過ぎ、霜月と呼ばれる時期なのだから。
 そう電車の中で考えていると、目の前に立っている女性の爪に目が留まった。
 椛のような、鮮烈な赤。
 そうだ、もうすぐ家の裏手の山も紅葉を迎え、季節は息をつく暇もなく冬へと向かっていく。全ての物が乾いてゆき、灰色に染まった死のような冷たさの中で冬を迎える時。
 その無彩色の世界の中で、少女がこんな赤い爪をして無防備に立っている姿。それはきっと美しいものだろうと思う。

 あの子は美しい娘だ、と意識して思うことは初めてのことだ。保護者としての自分を保とうとする余り、私は無意識のうちに彼女の女性としての側面を意識しないよう努めていたのかもしれない。


 帰り道に立ち寄った薬局で、私は小さなマニキュアを一つ籠に入れた。
 先程の鮮烈な赤よりも透明度の高い水彩絵具のような赤。
 あの白く華奢な足の先がこんな色で彩られて、少し冷たい木張りの廊下を早足で歩く様は、如何に美しいものだろう。


 薬缶の音。食器棚を開け閉めする時の軋み。廊下の冷たさ。欄間に澱む闇。ガラス窓の木枠が風に揺れる音。白磁の食器が二つ。ゆっくり煮たキャベツと、厚切りのベーコン。つまみを向こうに回すと、裸電球が緩やかに消える。窓の外の明かりが、曇ったガラスの向こうに在る。月夜の気配。

 遅めの夕食の後、私は電気を消して、月明かりの差し込む縁側に籐椅子を置き、そこへ少女を座らせた。
 灰色のカーディガンを羽織った少女は、家中の電気を消して周り、縁側に出した籐椅子へ座れと言う私に不思議そうに笑ってみせたものの、大人しく従った。

 この家に来た頃、肩の上に流れていた少女の髪は、いつの間にか背中の中程まで垂れるようになった。

「髪が、伸びたね」
 薄い暗闇の中で、私はその髪を背後から一絡げに掴む。少し手荒に。変に暴力的な気持ちだった。私は言葉にならないままの、輪郭さえ捉えられない感情を、確かに持て余している。

冷えた空気が首筋に触れたのか、首をすくめて少女はこちらを怯えるように見上げた。

 目が合う。

 そこで私は冷静さを取り戻す。掴み上げた束を放し、黒く湿度のあるその髪を、指で梳いた。
「君のことを必要としているのは、実は、僕のほうかもしれない」

 言うつもりは、なかった。こんな言葉を。
 自分の唇から零れ落ちた言葉に驚き、直後に強い羞恥を感じる。こんなにも無防備な気持ちの側面を。こんなにも不用意に晒してしまったということに。

 俯いた視線の先の黒い廊下に差し込む月光に沈黙が横たわっている。まだ夜は浅い時間だというのに、その闇の暗さは、今までに見たどんな夜の底よりも、静かな場所だった。

 私はそれきり言葉を失い、ただ、指先で少女の髪を撫でていた。私の持ちうる限りの優しさだとか慈しみだとか、そういったものを込めて。自分の中にあるはずもないと思っていたそれらの感傷が、せめて少女に伝わり、好意的に受け止めてもらえることだけを祈って。

 その間、少女は身動ぎ一つせず、その場に居た。その身に、驚きも、喜びも、恐怖も、拒否も滲ませず、彼女はそこにある沈黙と闇に溶けているようにして、ただ存在した。

 目を伏せていた少女が、ふと顔を上げる。えもいわれぬような不安と羞恥に雁字搦めに縛られた私を、いつもの顔で見上げた。そして、いつもの顔で、柔らかく微笑した。

 耐え切れず、私は背後から少女を抱きしめた。藤椅子に座ったままの彼女を抱きしめ、私はその髪に自分の頬を擦り付けた。
 許しでも請うような気持ちだった。指の先が冷えて力が入らなかった。私はそのままの姿勢で、指の先から砂糖の結晶になって溶けて消えてしまうような幻覚に囚われながら、何かを、自分ですら分からない何かを心から希求していた。
 なによりも無力な、誰よりも情けない己を持て余し、自分の存在を、少女に許してもらいたいと、真摯な気持ちで、そう願っていた。

 私に抱きすくめられた少女は始め、戸惑うように身を捩ったけれど、私がその髪に顔を埋めると、左腕を上げて、私の頭を動物をあやすように撫でた。

 涙が、出た。悲しくもないのに、涙が出た。私は彼女を抱きしめたまま、暫く泣いた。


「……すみません、取り乱してしまって」
 どれほどの時間が経っただろうか。ほんの数秒なのかもしれないし、何時間という長さなのかもしれない。時間の止まった暗闇の底へと沈んでいた私は、漸く身を起こした。少女の顔を見る勇気が持てなくて、椅子に座る少女の背中から、その言葉をかけることで精一杯だった。

「購ってきたものがあるんです、君に似合うと思って」
 その言葉に、少女が振り向く。私は少女の目を見るのが怖くて、視線を逸らせたまま薬局の買い物袋から小さなガラスの壜に入ったマニキュアを取り出して見せた。

「きれいな色でしょう」
 壜を持つ、私の指先を、少女の掌が包む。壜を取ると、彼女はその色を窓越しの月光に透かして見ようと掲げた。

 蓋を開けようとする、その指先を私は阻止した。
「僕に、やらせて下さい」

 華奢な指先が摘まむよう持つ小壜を、その細い肩越しに受け取って、私は椅子の正面へと周り、跪く。投げ出された薄い足首が暗がりの中で白く滲んだ。私はその右側の踝を恭しく持ち上げた。

「楽にしていて」
 顔を上げずに言うと、作り物のような造形の彫刻は重さを増した。確かめるように触りながら、私は自分の震える指先を従えようと、一つ息を吐く。


 七、


 鮮やかだった百日紅の花が、いつのまにか散っていた。
 知らぬうちに夜が長くなり、日暮れるのが早くなる。風が冷たく、人々が足早になる季節にも、私たちの彷徨は続いた。以前のような焦りや不安は薄くなったものの、変わらず私は手の届かぬ何かを希求する曖昧な気持ちを、言葉に出来ぬまま持て余していた。

 私が不用意に取り乱したあの日の後も、少女の態度は私の憂慮に関わらず、何も変わらなかった。
 私はそれを、何よりも有難く思い、安堵した。あの日、私は何かに酔っていたのかもしれない。穏やかな生活の日々の中で、あの時の私はどうかしていたのだという思いが膨らみ、それを隠すように、私は常に理知的な態度を保つよう努めた。軽率な言動で、今まで過ごした時間や、生活や、私と少女の間に在るもの――それが何かはわからないけれど――が壊れてしまうことが耐えられなかったからだ。

 少女は何を考えているんだろうという思いが、時折顔を覗かせ、私は意識的に目を背けた。そんなことは考えてみたってわかるはずもないことだ。私はただ少女が近くに居てくれるだけで良かった。それ以上に望む物は何もないほどに、いつしかそれは私にとっての切実な願いになっていた。


 暖かい日だった。玄関に施錠をして見上げた空は、小春日和というに相応しい光に満ちている。上着に羽織った毛糸越しに、降り注ぐ陽射しが柔らかな温もりを肌に伝えている。

「少し、遠回りをして行こう」
 少女は白い頬に微笑を湛えて、私の差し出した手を取った。

 風もない。日ごとに風が冷たくなる季節の中で、ふと風が止まったこんな日が、もしかしたら一年の中で最も静かな日なのかもしれない。高く、青く、迷いなく澄んだ空に、筋を描いて薄い雲が流れる。

 ――小学生の頃に、帰り道で一人見上げた空と同じだ。
 そんなことを思い、私が小さく笑うと、少女が視線を上げるのを感じた。

「なんでもないよ」
 小さな頃に見た景色を思い出したことを、口に出そうとして、やめた。

「天気がいいね」
 そんな言葉に置き換えた恥じらいに少女は気付かず、私に屈託のない笑みを向けた。

 見慣れない景色を見たくなって、私は家の裏手の道をずっと上がっていた場所にある切り通しを訪れてみることにした。
 鎌倉に越してくる前、雑誌で幾度か見かけたことのある場所ながら、実際に訪れたことは一度もない。市街に向かう道とは逆方向に当たるため、歩を進めるに従って過ぎ行く人影も減り、緑陰が影を落とす山道に静けさが響いているように思われた。

 静けさは景色を染めただけではなく、私の胸をも染めていたのかもしれない。静けさがゆっくりと降り積もり、空気の層を作ってゆくのが見えるようだ、と思う。
 時折、吹く風に、垂直に伸びた木々の枝が揺れ、さざめくような音を立てる。その度に、線を描いて差し込んでいた陽が揺れ、見上げると緑陰が白い瞬きを以ってちらちらと輝いていた。

 ふいに足を止めた私を、少女が振り向いて見上げた。
「静かだな、と思って」

 そう言って見上げた私の視線の先を、少女も追う。
「ね」

 言葉なく少女も頷く。その横顔を見て、私の脳裡にふと『幸せ』という言葉が浮かんで消える。
 ――そうだ。私は今、幸せの景色を見ているのだろう。

 自分が幸せであることを言葉に出して自覚したことなど、一度もなかったように思う。実感するには馴染みがなく、幾らかの恥ずかしさを含んだその言葉は、目に映る穏やかで暖かい午後の陽が差す静かな景色を、少女と手を繋ぎ、互いの存在を確認するように目を合わせて過ごす今の季節を、何よりも相応しく表すものであるように思われた。

 住宅街を抜け、山間の道を歩いた先にあった切り通しは、想像していたよりも大きいものだった。湿度を持った空気が冷たく澱み、高い緑陰からは陽射しも届かない。

「鎌倉時代に作られたトンネルなんだって」
 何かで聞きかじった知識を、少し得意な気持ちで口にする。

「鎌倉は三方を山に囲まれているから。幕府があった頃、山を切り開かないと交易が不便だったんだろうね」

 目の前に広がった奇景を、立ち止まり、口を開けて見上げていた娘が、その言葉に納得したような表情を浮かべてこちらを向く。満足に伴って、次第に照れくささこそばゆさが湧き上がり、私は

「受け売りなんだけどね」
と言って、少女の手を取った。

 笑い声の滲む息を漏らし、少女が私の顔を見上げる。私も笑う。
「こんな――」

 ふいに胸の詰まる思いがした。人の居ない静けさ、緑陰を裂いて差し込む陽光、柔らかい陽だまりと、その隙間から見える高く青い空。時の流れまでも止まってしまっているような無音。この場所には今、ささやかに非日常の匂いがする。特別な、息も止まりそうな緊張感。

「こんな、場所なら、もっと早く来てみれば良かった」
 深く一つ呼吸をして、それだけを口に出すと、少女は「そうだね」とでも言うように頬を持ち上げて、私を見上げた。

 白く細く、だけど確かに強く、差し込んでいる陽光に、私は自分の抱く祈りを重ねて見ていたのかもしれない。
 木の葉が風に揺れ、その路が断たれても、違う隙間から絶え間なく降り注ぎ、輝きと共に柔らかく暖かい陽だまりを作る陽光。そのように、在りたいと思う。私の抱く願いが、それ程の強さを持てたなら。私はきっと、この少女をずっと幸せの景色の中で見守っていられるのだろうと思う。

 再び、胸が詰まる気持ちがした。
 私がいつまで少女を見守っていてあげられるのかはわからないけれど、それは考えるべきことではないのだろう。私は今、この娘を大切に思い、手を繋いで一つの風景を見上げているのだから。同じ景色を共有して、たわいのない思いまでもを、共に分け合うことができているのだから。

 少女の体温を掌の先に感じながら、私は見上げた木漏れ日の中に、今までに見たイメージを幻を見るように思い返していた。
 初めて家に来た日、俯いた輪郭を隠すように揺れた褐色の髪。顔を上げ、私を見詰めた涙に濡れたような黒い睫毛。
 何気ない時、ふいに動く何か言いたげな唇。うすく紅差した頬と、髪に隠れた白い首筋。冷たく作り物のような華奢な指。いつか拾った貝のような爪。

 甘い幻に、思わず目を閉じて思う。この娘が、このまま無邪気に屈託なく笑って、傍らに居てくれれば、どれほどに幸せだろうと。

 私は、背後から娘を抱きしめた。言葉にならないこの祈りを、神に訴えるように。

 人の居ない平日の午後、冷えた冬の光が地平を埋める森に音を立てずに染み込んでいく。少女は私の回した腕に自らの手を添えて、巻きつけられた赤いマフラーに顔を埋もれさせたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。胸の底を握られた思いがする。私は少女の肩に顔を寄せ、抱きしめる腕に一層の力を込めた。

 冷えた上着の布地を通して、少女の体温がゆるく伝わる。甘い匂いがした。何かを思い出しそうになる、安心する匂いだ。

 ふいに、少女が顔を上げた。

 抱きしめていた私の腕を解き、そこからスイと抜け出して、緑陰の陰になるあたりを見上げる仕草をする。

「どうかしたの」
 声をかけると、彼女は私の顔を見て、私の唇に自身の指先を当てた。

 指差す先を見上げると、枝葉の影に鳥が居るのが見えた。

ルリルリルリ

 鉱石が闇夜の中で響きあうような、硬質で澄んだ声で鳥は鳴いた。


 八、


 窓の外の暗さを見て、私は日が暮れていることに気がついた。
 仕事を中断し、腰を上げて、夏からかけっぱなしにしている麻のカーテンを引く。この季節には薄いのかもしれない。腕に伝わる冷たさを感じて、私は傍らに置いたカーディガンを羽織った。

 窓ガラス越しの闇に、静かに降り続いている雨は、誰かの囁き声のように聞こえることがある。
 誰かが私に何かを伝えようと、囁き続けているような気がして、私は雨音に耳を澄ませた。

 冷たく湿った雨の日の重たさが、私は昔から好きだった。心の底に溜まっていくような静かで重い雨の気配は、どこかで見たような、どこにもないような景色を瞼の裏へと映していく。
 雨の日の幻でしか見ることの出来ない、懐かしい景色を。それを私は目を閉じたまま恋しく思った。


 少女は以前に比べ、遠くをぼんやりと見詰めることが多くなった。頬杖をつき、何かを思うように視線を泳がせては、時折何かの単語を呟くように、小さく唇が動いた。

「どうかした?」
 私の問いに、少女はいつも決まって首を振って答えた。

 一瞬の幻だったように再び固く閉ざされたその唇に、私は古い鍵と鎖で封印された廃墟の庭の門を想う。真夜中に誰かが密かに忍び込んで、恋人と逢瀬を重ねるような。見てはいけない秘密のような。

 ――この少女はどんな声で話すのだろう。歌うのだろう。

 その思いは、消えてしまいそうな遠い記憶の白い霧の向こう側にあるイメージを手探りで見つけようとしている時の気持ちに似ていた。
 どうしても思い出せない人の名前や、忘れてしまった痛ましい恋のひたむきさや、幼い頃に見た虹だとか、死んでしまった母の笑い声だとか。そういったものへの恋しさに似た感情で、私は少女の姿を追った。
 そして耐え切れなくなり、私が彼女に声をかけると、彼女は見慣れた柔らかい笑みで私に応えた。私は、それで十分だった。もの恋しさはあるにせよ、少女が隣にいて、私に微笑を投げてくれるだけで、私は満ち足りた気持ちでいられた。

 冷たい雨は夜半を過ぎても降り続いていた。私は寝台で本を開きながら、少女と見たあらゆる景色のことを思い返していた。
 夕焼け、坂道、夜の河原、無人駅、路地裏、電車、朝焼け……。それらの景色を反芻して思うのは、少女と居る時、私は忘れてしまったと思っていた素直な感情を思い出す、ということだった。
 大人になってからは忘れてしまっていた、世界は手の届かないものだという無力感と、胸に差し込まれるような痛み。それは私が二十年前の少年時代に抱いた思いとよく似ていた。

 幼い頃には、神様がいてこの世のことを何でも知っているのだと信じていた。
 世界に何本の木があって、何枚の葉が揺れているのか。宇宙の果てがどうなっているのか。
 あの人は今何処で何をしているのか。私の知ることの出来ない全てのことを、神様だけは知っているのだと思っていた。
 同時に、誰も知ることの出来ない私の秘密までも神様だけにはお見通しで、誰にも気付かれないよう一人で泣いた夜だとか、言い出せなかった淡い初恋だとか、そんな全ての事柄を知る神様は、常に私の味方でいてくれたように思う。
 私の知りえないことを、神様は度々こっそりと教えてくれた。それはきっと人が、必然だとか奇跡だとか呼ぶところのものだろうと、私は考えていた。

 大人になってしまった今でも、私は時折『神様』のことを思う。
 かつてのように信じているというのには違うけれど、ふと感謝したくなることがある。そして、やっぱり神様は居るのかもしれない、と静かに思う。
 そういう時に、私は静かな幸せに包まれている。子供の頃の無力さを転嫁させるのではなく、大人になって自分の目で世界と向き合うようになった時、悲しいことも醜いものも在ることを知った半面で、美しいものが存在することを、感謝したくなるのだ。

 実際に自分が大人になり、子供の頃に思い描いていた大人のように万能ではない自分に失望したこともある。
 それでも世界には、心を奪われるようなものが存在し、愛すべき物が存在し、不完全な自分にすらも居場所を見つけることが出来るということ、それを神様の優しさだと思うことがある。

 この世にあるものは、須く愛されているのだと思う。要はそれに気付くか、気付かないか。もしくは無視をするか。そういうことなのかもしれない。


 キイ、と軋みを上げてドアが開き、少女が顔を覗かせる。その赤く泣き腫らした瞼と、不安そうに震える唇に驚き、半ば眠りに溺れかけていた私は身を起こした。

「どうしたの」
 時計を見ると午前二時を回ったところだった。少女は下を向き、いつかのように所在のなさそうな表情で低く視線を泳がせた。

 立ち上がって、ドアを開き、部屋に少女を招きいれる。両手に毛布を抱えた少女は、大人しく従う。

「眠れない?」
 少女が首を振る。

「怖い夢でも見た?」
 再び少女は首を振る。下を向き、眉間に皺を寄せて、噛み締めるように涙を滲ませた。

「おいで。何にも怖がることなどないよ」
 向かい合い、青白いその頬の両側に垂れる髪を、私は両手で包み込むようにして柔らかく梳いた。そのまま、少女の顔を覗き込むようにして「大丈夫だから」と言うと、小さく頷く。

「お茶でも飲もうか」
 頷くのを確認して、「待っておいで」と部屋を出ようとすると、顔を上げないまま少女は私の服の裾を掴んだ。一瞬戸惑ったものの、頭を撫でて、その手をほどいて繋ぎ、部屋を出る。

 雪平の鍋に二センチくらい水を張り、戸棚に並んだ紅茶の缶の中からアッサムを選び、匙に一杯。火にかけると茶葉が開き、次第に色が出始める。くらくらと煮え立つ湯の中に踊る茶葉。それを少女は私の傍らから覗き込むようにしてじっと見ていた。

 冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、鍋に注ぐ。濃く出た紅茶の色は、螺旋の模様を描いて乳白色に溶ける。温まったら砂糖とカルダモンを加えて、漉しながらカップに注ぐ。

 少女は両手でカップを包むようにして、紅茶を飲み、小さく息をついた。
 まだ瞼は赤く腫れてはいるものの、漸く涙が止まっているのを確認し、私も安堵の息をつく。

「落ち着いた?」
 私の問いに、少女はカップを持ったまま静かに頷いた。壁にかけられた時計の秒針が、いやに大きく響いている。
 一秒毎の間隔が不自然に長く、時間はいつもよりも緩やかに流れているように思えた。雨はやんでいるらしい。時折、樋から滴る水音が耳を掠める。

 ふと脳裏に「幸せ」という言葉が過ぎる。
 雨の上がった静かな夜。時間の隙間に落ちてしまったような夜。私は俯いてカップを持つ、少女の伏せた睫毛を見た。

 朝なんて、永遠に来ない夜。そんなものを心のどこかで本気で願う自分に気付く。


 少女が抱えていた毛布は、私の寝室の床に放り出されていた。鳥が鳴き始め、外が白む時間。薄青色に澄んだ空気に世界が満ちる時間。

 瞼を腫らした少女と私は、床に落ちている毛布に潜って、体を丸めて眠った。


 九、


 散歩の途中に立ち寄った駄菓子屋で見つけたシャボン玉を、少女は甚く気に入ったようだった。私が部屋に籠もって仕事をしている間、少女は自室のせり出した窓に寄りかかり、一日中シャボン玉を吹いている。

「また、えらく気に入ったね」
 背後から声をかけた私に、少女は振り向き、無邪気に笑って見せた。
 この家に来た初めの頃、この娘はこんな風には笑わなかったことを、昔のことのように思い出す。たかが数ヶ月前のことだというのに、少女が訪れる前の生活を、私はもう思い出すことすらできなくなっていた。

 少女はまた背を向けて、窓の外へ向けてシャボン玉を吹き始めた。風が吹いていないのか、シャボン玉はあまり遠くへは飛ばない。庭の外へ巡らされた電線にひっかかる手前で大きいものも小さいものも、みんな掻き消えてしまう。ゆらゆらと揺れて、七色にゆらめいては失われてゆくそれは、儚い幻のように見えた。

 シャボンを吹き続ける少女の背中越しに、その景色を眺めていた私は、うっすらと背中に寒気を覚えた。

「出かけないかい」
 振り向いた少女の頬を、冬の光が白く透かした。


 日が暮れる前に私が出かけたのは、二階堂の奥にある秘密の場所に彼女を連れて行きたかったからだ。

 水分を失い重なった葉の屍骸が降り積もる森の、血のような赤い椛の天井。生気を失い乾いてしまった葉は、踏むと柔らかく音を立てた。
 こんな森の奥に迷い込むような酔狂は居ないようで、その場所は、いつ訪れてみても人の気配がなかった。

 葉を失った木々の枝先を吹き抜ける風が鳴る。見上げた間近に広がった一面の紅葉を、少女は仰いで見回した。斜面に振り重なった枯葉の層に、私は腰を下ろした。

「特等席でしょう」

 少女の頷く顔に微笑を返して、私はその場に横になった。
 紅葉が余りに赤くて、少し恐ろしい気持ちさえする。完熟した柘榴の果実から滴るような、少しグロテスクなまでの赤。
 こんな景色を「美しい」とか「雅だ」とか「風流だ」とか言う人の気持ちはわからなかったけれど、その赤さには言葉を奪ってしまうほどの力が秘められているのは判る。
 瞬きをするのも忘れて、憑かれたように赤い模様へ目を奪われているうちに、色んなことを忘れていってしまいそうな、気がした。

「見せたかったんだ、君に」
 私の隣へ寝転んだ少女が、こちらへ顔を向ける。黒く柔らかい髪の下で、枯れ葉が乾いた音を立てる。

 私は、少女に愛してもらおうなどとは考えていなかった。
 少女の抱くものに介入しようとも思わないし、少女の謎を暴こうとも、その過去を知ろうとも、自分が彼女の救世主になろうなどとも思っていない。
 ただ、私と一緒に過ごす時間、この流れが止まったような時間の中で、彼女が何も怖れず、何にも怯えず、安心して眠っていられたらいいと思うだけだ。そんな平安が、ずっと続けばいいと、思っているだけだ。

 ——いや、違う。私は少女が、いなくなることが恐ろしいだけだ。
 ただ、それだけのことを、言葉や意味で装飾しても仕方がない。私が時間や季節の推移に対して抱く輪郭の見えない不安も、喪失への強い怯えを感じることも、全ての理由は少女にある。
 ――そのことに、今、私は漸く気付くことができた。

 永遠なんていう言葉は、きっと嘘だ。
 この世に永遠なんていう曖昧なものは存在しないのだから。でも、例えば、永遠の季節なんていうものが、そんな夢みたいなものが、もし存在するとしたら。
 それはきっと今だろうと思う。少女と私が、過ごす日々だ。幻のように頼りなくて、果敢ない季節を今、私たちは過ごしている。

 来週には見られなくなる、この紅葉の赤さのように絶対的で、果敢ないもの。それが私の守りたいと願うものの正体なのだろう。

「本当に、君に、見せたかったんだ」
 私の小さな呟きは、赤さの中に溶けて消えた。この圧倒的な景色の前に、私の言葉なんていうものは、余りにも矮小だった。

 私は少女の冷めた指先を握った。手の届かないような希望を込めて。あの夜に感じた、祈るような気持ちがよみがえる。

「君が今、幸せでいれば、嬉しいのだけど」

 傍らに横になる少女は、目の粗いセーターに枯葉が絡むことを厭わず、体を丸めた。顔を見ると、眠っているらしい。懸命に考えて言葉を振り絞った私は、ばかみたいだ。そう思うと自ずと笑いがこみ上げてくる。

 眠る少女の頬を、指の甲で軽く撫でる。少女はくすぐったそうに少し顔を顰め、再び寝息を立て始めた。少女は体を縮こめるようにして眠る癖があった。投げ出した腿の辺りに触れた小さな背中から、微かに体温が伝わってくる。

 私たちは、親子のように年の離れた血の繋がらない他人だ。親子でもなく、恋人でもなく、兄妹でもなく、友人でもなく、ただの押し付けられた関係にある他人でしかない。
 だけど、そんな言葉では、私と彼女の間にあるものは説明できないと、私は固く信じている。

 風が冷たくなってきた。もうすぐここも、夕闇に沈んでしまうのだろう。
 家に帰ったら、温かい料理を作ろう。家にある野菜を煮込んで、スープを作るのも悪くない。古いレコードをかけて丁寧に頂く夕食と、冬の夜の気配はきっと似合うものだろう。


 十、


 夢の中、少女が声を上げて、そこらにいる普通の娘たちのように笑う声を聞いた気がした。
 まだ薄暗い朝の中、寝台で身を起こした私が朧な頭で幾らその声の面影を辿ろうとしてみても、その残像は捕まえられないままに消え失せてしまい、二度とは戻らなかった。

 その日、繁華街はいつもにも増して浮き足立った様相だった。赤や緑に点滅するランプを見て、明日がクリスマスであることを思い出す。
 冬休みに入ったらしい子供たちを連れた母親の姿や、着飾った恋人たちの群れの中を歩きながら、よりにもよってこんな日に、かさばる仕事の資料を買いに出たことを後悔し始めていた。
 十二月の寒風の中で冷や汗を滲ませる私と対照的に、少女は娘らしく華やかな賑わいに目を輝かせていた。

 少女のこんな子供らしい表情を見たのは初めてかもしれない。年相応の娘たちがするように、彼女は周りを見回し、ワンピースの飾られたショーケースを覗き込んで、アイスクリーム屋の前で足を止めた。くるくると動くその目をもう少し見ていたいという気持ちで、必要な買い物を終えた私は、少女に手を引かれるままに街の中を歩き回った。

「アイスクリーム、食べたい?」
 足を止めた店の前で、私は少女に訊いた。少し迷った後に、彼女は首を横に振る。そんな問答をもう何度も繰り返し、私は歩き疲れ始めていた。

「プレゼントするよ。何か欲しいもの、あるかい」
 そう訊くとおずおずと首を縦に振り、最初に足を止めた店へ私の手を引いて行った。ショーケースに飾られた灰色のワンピースを指差す。プリーツとリボンの付いたそれは、少女に似合いそうな外出着だった。

「これを購ったら、お茶でも飲もう」
 私と少女は目を合わせて、指切りをした。

 少女はワンピースがよほど嬉しかったらしく、両手で大事そうに紙袋を抱えて歩いた。こんな風に彼女が何かを欲しいと意思を示したのは初めてだと思う。私はそれが嬉しく、誇らしく思えた。

 満席が続く混んだ街の中で、漸く私たちが座れた喫茶室は、昔のデパートのレストランとでもいうような古びた豪華さのある所だった。
 店の中央には大きなシャンデリアが飾られ、床には赤い絨毯が敷かれている。少し遅れて水を運んできたウェイターに私はコーヒーを、少女はフルーツパフェを頼んだ。

「明日がクリスマスだっていうこと、君は知っていたの?」

 立ち上がって、襟元に何重にも巻いた赤いマフラーを解こうとしている少女に声をかける。視線が私を捉え、少女は深く頷く。

「教えてくれれば好いのに」
 そう言って私が水を一口飲むと、少女は笑いながら目を逸らせた。誘われるように、その視線の先の窓に目を向ける。垂れ込めていた雲が一層暗くなり、今にも雨が降り出しそうな気配の景色があった。ふと得体の知れない不安に駆られる。傘を持ってこなかったせいだろうか。雨が降る前に、家に帰りたい。

 やがて届けられたパフェの大きさに私は眩暈を起こしそうになったけれど、構わず少女はそれをあっという間に平らげた。「女の子っていうのは、すごいね」と、驚きと幾らかの尊敬を込めて私が少女の顔を覗き込むと、照れたように笑った。

 やがて、予想通りの雨が降り始めた。みるみるうちに雨足は強くなり、駅前の雑踏は数え切れない程の傘で埋め尽くされて、まともに前も見えなくなる。私たちは買い物袋を手に提げて、早足でそれを横切っていた。

 突然、少女が足を止めた。

「どうしたの」
 目を見開き、遠くの一点を見詰める少女に、私は手を引いて声をかけた。往来の真ん中で不自然に立ち止まっている私たちに、ぶつかる人々が迷惑そうな顔をする。

「信号が変わるよ、行こう」
 私の手を握っていた力が抜け、その手が滑り落ちるように解かれた。

信号が点滅を始めた。その手を握って強引に歩き出そうとする。

 その手を、かつてないほどに強い力で少女が振り払った。そして遠くの一点に視線を合わせたまま、聞いたことのない声で「お母さん」と叫んだ。 

 何かが崩れる音を聞いたような気がして、私は耳を疑った。
 言葉を、声を、失っていた少女と、私の間に築かれた何か、今まで大切に愛してきた何かが、音を立てて崩れた気がした。
 世界に皹が入る瞬間を、見た。

 少女の声は、それまでに思い描いたどんなものとも違っていた。初めて聞く声。聞き慣れない声。知らない声。私の知っている少女の横顔が、見たこともない娘のように見えた。


 呆気に取られる私を置いて、彼女は手ぶらのまま人の波を縫って駆け出した。後を追おうとその後姿を捜したが、その残像は足早に行き交う往来に霞んで、すぐに消えてしまった。

 その場に立ち尽くしていた私は、鳴らされた車のクラクションによって漸く我に返った。
 信号は赤になっていて、私は横断歩道の真ん中に一人取り残されていた。小さく頭を下げて、何を考える余裕もなく、足早に道を渡る。雨はますます強くなり、日はすっかり暮れていた。濡れるに任せ、車道を渡りきったその場にへたり込み途方に暮れる私を、道行く人々は奇妙なものを見る目をして眺めた。


 ――名前を呼ぼうにも、私はあの娘の名前を知らない。


 さっき私があの娘に買い与えたばかりのワンピースは、その手を離れたまま車に踏まれ、泥に塗れている。
 放り出されたそれは紙袋から飛び出してしまっていて、信号が変わるたびに道を行く人々に踏まれた。私はそれを黙って見ていた。何も言うことができなかった。
 早く、少女を捜しに行かなければ、という気持ちに追い立てられながらも、私は立ち上がる気力さえ持てず、その場で蹲り雨に打たれるままになっていた。

 今、立ち上がって捜せば、あっけなく見つかるかもしれない。
 駅前の交番に駆け込んで捜してもらえば、案外すぐに見つかるかもしれない。
 あの娘は財布も持っていないのだから、遠くには行かないはずだ。いや、もう少し待っていれば、彼女はここに戻ってくるだろう。
 多分、きっと、そうだ。
 あの娘のことを、一番に愛してあげられるのは、私しか居ないのだから。
 私しかあの娘を守ってやれないのだから。誰よりも大切に思っているのだから。
 それは彼女にも伝わっているだろうから。私たちの間に築いてきたと信じたものは、こんなに突然に崩れるはずがない。
 私が彼女を愛したように、彼女もまた私を必要としていた筈だった。心を開いて信じて傍に居てくれた筈だった。

 耳の中で雨音がこだましている。気付かない間に、私は泣いていた。
 雨と混ざる涙を、私は流れるに任せた。こんな雨の音を、いつか穏やかな気持ちで愛したことがあったと、ぼんやり考える。 

 闇に包まれ、目に染みるようなけばけばしい電飾が街を彩り始める中で、私は世界に取り残されていた。降り続いている冷たい雨は、この世の終わりまで降り続くもののように思えた。


 電車がなくなると、辺りは景色を変えた。私は同じ場所に座り込んだまま、少女が戻るのを待っていた。
 彼女は帰ってくると信じたい気持ち。ただそれだけが、私をその場に留まらせていた。
 小鳥が印刷された愛らしいデザインの紺色の紙袋はふやけて破れ、目の前でスーツ姿の若者に革靴で踏まれた。踏んだ若者は足元を振り返り、邪魔そうにその塊を蹴り飛ばした。

 少女が嬉しそうに紙袋を両手に抱えた姿が、写真のように目の前に再現される。

 ――私は、あの時に、本当に自分を誇らしく思えた。
 私は我を忘れて会社員らしいその男に殴りかかった。

 まともになにも考えられないまま、私は、その男を殴り続けた。
 不意に男は裂けるほどに目を見開き、勢いを付けて私を殴り返した。
 派手に後ろに倒れこむ。その場にたむろしていた集団にぶつかった。罵声を浴びせながら、スーツの男が近づいてくる。
 不意に肩を掴まれ、背後から突き飛ばされた。振り返ると、見るからに柄の悪い連中がにやにやして立ち上がるところだった。


 あの娘が、この雨に濡れて風邪を引かなければいい。耳が遠くなるほどの雨音と罵声と怒号。痛みに白くなる頭の中で、私はただそれだけを、思った。


 十一、


 あっけない幕切れだった。

 私の幸せな記憶は、行き場をなくしたまま決着地点を見つけられず、あの日から漂い続けている。
 今も、この家には少女の気配があり、時折廊下を彼女が走っていく幻を私は見たような気がした。

 爪を赤く塗った石膏のような白い足。振り向けば揺れる黒い髪。俯いてはにかむ頬と、影を作る睫毛。いつも何か遠いところへ思いをはせるような横顔。彼女の記憶は、何故か常に断片的なものであった。
 冷えた掌。小枝のように容易く折れてしまいそうな指。白い首元。声をかけた時に、私を見上げた、あの目。

 夏に住み着いた幽霊は、私を病のように冒した。その姿が一瞬で掻き消えてしまってからも、その残像は今も私を縛り続ける。


 寝坊してしまった朝、私は無意識に少女の住んだ二階の部屋へと少女を起こしに向かう。柔らかいベージュの毛布に丸くなって包まり、無防備に寝息をたてるその姿があるのではないかという、淡い期待に急かされて。
 少女の気に入っていたシャボン玉の玩具は、彼女の残したあの革の鞄の脇に置かれたままになっている。どうしても私は、それらに、手を触れることができなかった。

 怖いのだと思う。


 少女の居た証拠を、何もなかったように拭い去ってしまうことが。


 存在自体が嘘だったように消えてしまった、あの娘に、私は最後まで名前をつけなかった。
 彼女と私の間に横たわる世界には、名前が、必要なかったからだ。名前をつけることで、それが揺らぐのを怖れたのだ。彼女と私しか居ない、この家は誰にも侵入できない閉ざされた領域だった。私はそれを、愛していたのだと思う。

 名前のない彼女の存在は、やがて拠り所をなくして、私の中から消えてしまうだろう。掌の中にあると信じたことでさえ、今は信じられなくなりつつある。

 今となっては、彼女には、どんな名前も似合わないと思う。彼女の本名を知ることになったとしても、私は恐らく、それに違和感を覚えるだろう。
 知らない人のような名前を、少女の残像の上に重ねたくはない。
 私の知っていること。言葉にならない、写真も残らない、余りに頼りなくて絶対的なイメージ。やがて薄れて消えてしまう名前のない記憶。
 それだけで十分だった。私が信じることができるもの。私が愛したもの。

 

 あの晩。雨の叩きつける雑踏の中で倒れた私は、病院に運ばれる途中で目を覚ました。「横になっていて下さい」という救急隊員に、私は咄嗟に「あれは、あの娘は」と問うたらしい。「下ろしてください、あそこに、あの場所で待ってやらなければ」と腕に刺された点滴を引き抜こうとしたそうだ。

 次に私が目を覚ましたのは、病院だった。何年も顔を合わせていない兄が、私の顔を覗き込んでいた。


 眠っている間、私は夢を見ていた。金木犀が強く香る庭の隅で、少女が花を摘んでいる。甘く、まろやかで、幸せな夢だった。手が届きそうで、だけど手を伸ばすと全てが壊れてしまう気がして、私はただそれを縁側から見詰めていた。薄い耳朶が、絹糸みたいな髪の間から見える。

 遠い、気持ちがした。初めてあの娘がこの家に連れてこられた時に感じた、冷たい孤独。無邪気に笑い、手を繋いで隣に居るのが、当たり前だった頃。あの頃にも、少女は、私の手の届かない場所に居たのだと思う。私がそれに、気付かなかっただけだ。私は幸せな夢を見ていたのだ。

「幸せな、夢を見た」

 兄に向かって、そう言うと、兄は狐につままれたような顔をして、私を見た。


 怪我は打撲が中心で幸い大した傷ではなかったものの、寒さの中で長時間雨に打たれた所為で、私は肺炎を起こしていた。熱にうなされ、薬でぼやけた頭で、夢の中に数え切れないほど少女の幻を見た。

 起きているのか眠っているのかが曖昧な数週間の時間を過ごした後、私は退院した。


 私は、少女のことを、愛していた、のだと思う。
 彼女の居る季節は、永遠というものの、一番近い場所にあった。名もなく、いずれ消える永遠の季節の記憶。
 あの少女とは、多分二度と会うことはないのだろう。私はそれを、ただ悲しく思うことしかできはしないけれど。

 私は徐々に、以前の生活を取り戻した。一人で暮らし、一人で出かけ、一人で長い夜を過ごす。それは私にとって難しいことではなかった。時に、少女の幻を見ることがあっても、私は自然に日々を過ごした。それはよく知った一人の快適な時間だった。

 しかし、次の春が来た時、小さな花が咲いて、真っ白い光の下で若草色の草木が芽吹いた時、その喜びを、私は誰に伝えればいいのだろう。
 暖かく美しい春の日を、私はたった一人で、どう過ごしたらよいのかわからなかった。

 クローバーとカラスノエンドウが柔らかい光を浴びて一面に茂る、希望に満ちた美しい春の庭を、少女に見せたらどんなに喜ぶだろう。その様が目に浮かんで、涙が出る。


 何も言わなくていい。ただ、私はあの少女と手を繋いで、居たかっただけなんだ。



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