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【短編小説】リンデン

何よりも大切な親友である犬を亡くした少女が、弔いのために一人きり旅に出る。  リンデンが死んだら、私も死のう。  リンデンが弱り始めた数年前から、誰にも言わず、静かに心に決めていたことだった。 彼の骨壺を持ち出した少女は、遠い記憶をたどって北海道へ向かう船に乗る。

 真っ白い夏の光の差し込む、白く塗られた寒々しい部屋で、私の弟は白く乾いた脆い骨になってしまった。

 彼の姿が、現実に目の前から失われてしまって、初めて、私はリンデンが死んだということを、直視しなければいけなくなった。

 木箱に横たえられたその姿は、私が大好きだった首筋を覆う柔らかい毛も、誇り高くぴんと立った耳も、細くも力強かったまっすぐな前足も、凛とした静かな横顔も、一緒に駆け回っていた頃の姿と何も変わらなかった。  

 その体は、固く冷たくなってしまっていたけれど、リンデンは眠っているだけだと私の信じる余地が残されていたはずだった。

 目の前の床に散らばる脆く白い骨。
 体を支えた根幹というよりも、ただの乾いたカルシウムの塊でしかない骨。燃えている最中に崩れてしまったのか、砕けて粉になってしまっている部分も多い。辛うじて形を留めている塊すらも、もはや彼のどの部分であったものなのか判別が難しくなってしまっていた。

 無力に散らばってしまった彼の骨を見下ろして、誰も微動だにせず、言葉すら発しようとはしなかった。

 高い窓の外に強く滲む夏の気配と蝉の声が微かに届く。でも、もはやそれも現実ではなく、この白い火葬場の窯の前だけ、切り離されてしまった世界のように、思えた。

 使い込まれた様子の曲がった火箸が、火葬場の人から母に手渡された。

「あなたが拾いなさい」
 かけられた声に我に返って、体がビクリと震えた。
 母は静かに無表情に私を見て、火葬場の人に手渡された火箸を、私の手に握らせた。

「まだ、熱いから気をつけて」
 傍らから火葬場の人が声をかけてくる。
 普段だったら、助言には会釈の一つでも返すべきだと思えたのかもしれないけれど、私はしゃがんだ姿勢から、その顔を一瞥することが精一杯だった。

 ――涙でも出ればいいのに。リンデンの姿が失われた時は、もう二度と来ないのだから。

 一緒に育って、親よりも友達よりも、私の傍らに居てくれた弟が、この世に居なくなった瞬間は、もう巻き戻せないのだから。私はできる限りの悲しみを以て、この時を過ごさなければいけない。

 でも、目一杯の悲しみを表そうにも、私の頬は強張って、頭の中は真っ白で、体が固まってしまって、動けないというのが、実際だった。
 この決定的な瞬間に悲しんでしまうと、彼の死が現実として過去として消化されてしまう。そんな気がして、私は悲しみを受け入れる心積もりもできていないのだ、と遠く冷静な場所から誰かに耳打ちされたような気がした。

 私は火箸を持ち、少し前までリンデンの姿だった筈の、床に散らばるカルシウムを見下ろした。

 それは洗いざらしの布のような無垢な白で、持ち上げてみるまでもなく、殆ど重さのないものだということが分かった。
 持ち上げて、自分の力でその塊を壊してしまうことを恐れて、私は大きく残る丈夫そうな塊から選んで、手渡された陶器の瓶に一つずつ詰めた。

 全ての塊を拾うことはできなかった。めぼしい形を拾い集めてしまう前に、小さすぎる瓶は一杯になってしまった。

「もういいでしょう」

 母に声をかけられる。床にまだ散らばる粉のような白と、所々にまだ残る幾つかの白い塊を、私は「まだ拾えてない」と母に訴えた。

「それ以上拾うと、瓶を閉める時に、中で崩れてしまいますよ」

 火葬場の人が声を出す。そう言われてしまうと、床に残るままのリンデンの生きた証拠の粉を、一つ残らず拾えなかったことを諦めざるをえないように思えた。
 胸の中のざわめきに気付かない振りを装って、私は火箸を火葬場の人に返した。

 リンデンの骨は小さく白い陶器の瓶に収められている。それを私は両手で大切に守りながら、帰りの車の中で、目をつむって彼に話しかけようとした。

「犬としては長生きだったんだよ。父さんが昔飼ってた犬は八歳で死んでしまったんだから、十年も生きれば立派なんだよ」
 助手席から振り返らず父が発した言葉は、後部座席に座る私の耳を掠めて遠くへ消えた。

「うん」
 何も考えず、何の意味もなく、聞こえたということを示すだけの返事をする。

 数年前から、リンデンの体力が衰え始めていることは、分かっていた。
 犬としては老齢で、仕方のないことだというのも、分かっていた。綱を引く私の傍らの歩みが、子供の頃のような力強さを失い、よろめき始めていることも知っていた。

 でもリンデンは私の顔を見ると、いつも変わらぬ格別の喜びを表してくれた。
 この世にこれほど嬉しいことはないっていう程の喜びの表情を、私は彼のほかに見たことがない。私が居るだけで、それほどの幸せを感じてくれる。それは、この世に生きている誰よりも、彼が強く私のことを愛してくれている証拠だと思えた。

 私を世界で一番に、愛してくれた弟だった。
 誰か一人に強く愛されていると、私はこの世界に生きていいのだと思える、ってことを、教えてくれた弟だった。

 勉強ができる訳でもない。何か特別な才能がある訳でもない。特別に不幸なわけでもない。特別に恵まれているわけでもない。見た目がいいわけでもないし、美しいというだけで、存在理由になるような人を羨ましく思う。
 そんな、自分ですら自分のことを大事に思う理由が見つからないくらいに普通の私を、理由を探すことなくリンデンは心から愛してくれた。

 両親は普通に、常識的に、私を大事に思っていてくれているのだろう。
 学校に行けば、仲の良い友達もいるけれど、子供じみた嫌がらせを受けたり、悪口を囁かれることもある。上履きを隠されたり、することもある。
 でも、そんなことも、私にとっては取るに足りないことだった。私は特別魅力的な人間ではないけど、私が私で居るだけで、心からの喜びを以て愛してくれているリンデンが居るというだけで、そんなリンデンを愛することで、美しくも立派でもない私は、世界がどれほど殺伐としていても生きていけるのだと思っていた。

 リンデンが死んだら、私も死のう。
 リンデンが弱り始めた数年前から、誰にも言わず、静かに心に決めていたことだった。

「来週には、山に埋めに行くよ」
 家に着いて、骨を両手に抱えたままの私に、父が声をかける。

「えっ」
 私はリンデンの骨を手放すことなど、想像すらしていなかった。
 リンデンの存在していた目に見える形を、指で触れることのできる証拠を、手の届かぬ場所に埋めてしまうなんてこと、想像すらも、していなかったのだ。

「だって、可哀想でしょ。ちゃんと土に返して、成仏させて、天国に行かせてあげなきゃ」
 母が口を挟む。
 私は、両の掌で小瓶をつかんだまま、静かに力を込めた。

 私はその夜、弟の詰まった小瓶を抱き抱えたまま、布団の中で泣いた。

 次の日は月曜日だった。父は会社に行き、母は部屋から出ようとしない私に声をかけて、買い物に出かけたようだった。

 今が夏休みで良かった、と思う。

 昼近くになり、家に誰の気配もないことを確かめて、私はリンデンの骨を鞄に入れ、机の中に貯めていたお年玉の残りの数万円を財布に入れて、母が帰ってこないうちに家を出る。

 死ぬと決めてからも、何をすればいいのか、どこへ行けばいいのかは全く見当が付かなかった。
 自分の部屋で首を吊ってしまおうかとも思ったけど、自分の娘の変わり果てた姿を両親が発見して、必要以上に嘆く様を想像して止めた。死ぬっていう結果は変わらないにしても、それでも自分を大事に育ててくれた両親の目の前で、というよりは、居場所が分からなくなって曖昧に消えてしまった方が、ショックも少なく迷惑にならないんじゃないかと思った。

 一緒に暮らしていた彼が死んだ折も、感情的に悲しんだ表情などなく、冷静に火葬場を予約して埋めに行く算段を整える両親は、私が居なくなっても生きていけると思う。
 一時は悲しんでくれる時期はあるかもしれないけれど、例えば私が死んだって、両親は悲しんでこそすれ、一緒に死んでしまおうとは思わないだろう。

 私は私を愛してくれたリンデンが居なくなった世界で、生きてはいけないのだから。私は私にとっての正しさに従うしかない。

 手紙や書き置きは、残すかどうか迷って、結局書かなかった。
 居なくなった私が死ぬつもりだなんて知ったら、両親は私の覚悟がどれほど強かったとしても、それを尊重しようとはせず、警察に届けてまで私を探すだろう。
 「挨拶しておきたい」という私の我儘な都合で、両親を心配させ逆上させるのは、賢明なことではない。
 死ぬために相応しい場所で相応しい方法を見つける前に、警察なんかに補導されて家に帰らざるを得なくなれば、私と弟は本当に離れ離れになってしまうような気がしていた。
 時間は稼げれば、稼げるだけいい。両親の及びもつかない場所に行かなければいけない。

 駅の券売機の前で立ち止まり、行き先を考えて浮かんだのは、何年か前の夏休みに家族旅行で訪れた北海道の海だった。

 今と似た白い光が注ぐ夏なのに、北海道の海は涼しく、見渡す限り静かで遠く、怖いと思うほどに美しかった。

 ――そうだ、船に乗って、北海道に行こう。

 あの時は飛行機で行ったけれど、船ならば、学生は片道で六千円程度しかかからないと聞いたことがある。携帯の電波も届かないし、私がまさか、一度行ったきりのそんな遠くへ行っているとは想像すらしない筈だ。

 私は都心部へ続く上り方面ではなく、山間へ続いていく下り列車のホームへ向かった。

 リンデンは、死ぬその何日か前から、体を横たえたまま、動けなくなってしまっていた。
 私は一日中その傍らに座って、微かに動かすだけの瞳やその前足を見守っていた。

 動けないリンデンの体は投げ出した下半身は血行が滞って壊死が始まっているらしく、後ろ足は黒く膿んでいた。いつの間にかその黒ずみの中に蛆が住み付き、彼は全てを諦めたように少年のままのように潤んだ目で、悲しさを滲ませながら長い睫越しに遠くを眺めているだけだった。

 生きながら腐臭に似た匂いをさせる獣。
 死ぬことを間近に見ながらも、逃げられぬ近い未来に諦めに似た覚悟で悲しく向き合う肉体。

 水も飲めなくなり、固形物はとうに食べられなくなってしまっていた。
 私は気付かぬうちに変わり果ててしまったリンデンの姿を、せめて見ていることしかできなかった。

 リンデンが顔を持ち上げて、私の顔を見た。
 私は顔を寄せて、彼の頭を抱きしめた。彼の口からも匂い始めた腐臭に気付かぬように、私は涙を滂沱と流したまま、彼の首筋に自分の頬を強く寄せた。

 *

 そんなことを思い返していると、気付かぬうちに昨日は一滴たりも出なかった涙が、頬に滴るほど流れていることに気付く。

 幸い電車は空いていて、乗客はみなそれぞれ顔を背けて本を読んだり景色を見たりと、誰も乗り合わせた私に興味を示しておらず、それがせめてもの救いに思えた。

 乗り継いだ電車は、日が傾く前には、港のある駅へ着いた。駅前にある看板で、港までの道と、船の出る時間を確かめる。

乗船場で予約もなしに切符を買おうとした私を、券売場のおじさんはじろじろと見た。

「旅行? ……親御さんは?」
「いません。一人で北海道の祖母の家に行くところです」

 電車の中で考えて、何度も口の中で練習したセリフを、なるべく普通に違和感がないように口に出す。

 おじさんは、「ああ、そうなの」と納得した様子で、画面に向き直って作業を進めた。
「学生証ある?」
「……はい」

 渡した学生証は本物だから、最初少し怪訝な顔をしたおじさんも、少し安心したようだった。学生証に住所や連絡先の記載がないことを電車の中で確認しておいて正解だったと、顔に出さないように思う。

「はいどうも。船は九時に出るから、八時半までにはロビーに戻っておいてね」
「分かりました」

 想像したような面倒は何一つなく、私は鞄を担いで船に乗ることができた。
 一番安い二等は大部屋で三十人は眠れそうな広さの床に、備え付けられた毛布で各自選んだ場所で横になるというシステムだった。八月も終わりに近い月曜に、船で北海道へ渡ろうとする人は多くはなく、私は外の見える小さな窓の傍らに場所を確保することができた。

 鞄から、お風呂や歯磨きに必要なものを出す。
 鞄の奥にしまっていた骨の入った小瓶も取り出して、ロッカーの奥に人に見えないように押し込んだ。

 電源を切るのを忘れていた携帯電話に、十数件の着信と、何件かの連絡が届いていた。
 差出人が母であることを見て、私はメールを開かずに、携帯の電源を切った。今頃家では母と帰宅した父が、心当たりの場所に電話を掛けたりしているのかもしれない。

 そう思うと、悪いことをしているという黒い罪悪感が、むくむくと暗く重たく胸の中を滲んでいくのが分かって、鳩尾のあたりに苦しさを感じた。
 息ができない。力任せに私は鼻から大きく息を吸い、口から目一杯まで吐き出す。
 少しスッキリした頭で、家のことは考えないようにしようと決める。考えたってどうにもならないし、私は死ぬつもりで、遠くへ行く船に乗っているのだから。

 私はもう一つ深く呼吸をして気持ちを整えた後、先ほどロッカーの奥へ隠した骨の小瓶を取り出した。
 幸い、同乗者は皆それぞれに自分の荷ほどきに夢中らしく、誰も私には注意を向けていない。私は注意深く指先に力を込めて、瓶を開けた。

 あの日、火葬場で嗅いだ乾いた匂いがする。所々砕けて、ぽこぽこした空気の穴のような空洞が浮く断面がそこここに覗く骨は、触れるだけで崩れてしまうような脆弱さだった。
 こんなにも頼りなく無垢な骨で支えられていたリンデンの姿を思う。指先で触れてみると、骨は疾うに熱を失い、サラサラした触感を指先に残した。

 その無機質な物体を、私はどうしてもリンデンだと思うことができないでいるのかもしれなかった。
 頭では理解していても、私を愛していてくれた彼は、こんな無機質な脆い塊ではない。どこに行ってしまったの、と声にならない祈りが漏れる。

 出港したことも記憶にないくらい深く眠り込んでしまっていたらしい。
 思ってみればここ数日の間は横になっても泣いているばかりで、ろくに眠っていなかったのかもしれない。誰も私がここに居ることを知らないということが、どんなに自由で気楽なことなのかと心の底から思う。
 死んでしまうことも、もしかしたら、こんな風に自由で気楽なことなのかもしれない。物凄く孤独で恐ろしいことだと思っていたけれど、私はリンデンと一緒にいるのだから、孤独ではないのだ。こうやって骨を抱いたまま、間を開けずに死ぬことができたら、私はきっと弟と一緒に居ることができるんだと思う。

 晴れて風もない日で、船体は殆ど揺れなかった。
 低い音で「ゴンゴンゴンゴン」と床の下で機械が回っているのが聞こえる。横たわっていると、その振動が体に伝わり、心臓の鼓動と同調していくような気がした。

 手繰り寄せて時計を見ると、時間は夜中の三時を回っていた。
 船室の灯りは消され、窓の外にも光は見えない。骨の入った小瓶を小脇に隠すように持ち、非常灯が導く出口へ、足元に眠る人の足を踏まないように注意しながら向かう。

 廊下には電気が灯されたままだった。
 目が覚めてしまった私は簡単に手洗い場で口を漱ぎ、自動販売機でコーラを買って、展望室のあるロビーへ出てみた。海に向かって一面がガラス張りにされたロビーは、海に向かってテーブルと椅子が置かれ、誰もいなかった。売店は閉まっている。この時間帯は、船内で働く人たちも、眠っているのかもしれない。

 誰も居ないというのは、私にとって好都合だった。ガラス張りの外には真っ黒く海が凪いでいて、遠くの水平線まで光の一つも見つけることはできなかった。

 私は一人きりになれる場所が欲しかったのかもしれない、と思う。

 丸一日を船の中で過ごした翌日、朝の四時に船は北海道の港に着いた。

 水平線しか見えなかった海の果てに、陸地が見え、光が見え始めると、船の着く数時間前から、気持ちが高まるのを感じて、窓から目が離せなかった。

 何年か前の旅行の時よりも、到着が嬉しい。
 あの時は家族に連れられていたからなのか、今回は自分で行くと決めたからなのか、それとも飛行機での一時間よりも、船での二十何時間が長かったからなのか、それは分からなかった。

 夏だといっても、朝の四時は朝の気配が滲み始める夜の只中だった。空はまだ暗い。

 船を下りた乗船客たちは、荷物を持ったまま乗船場のロビーで夜明けを待つ人たちも居れば、迎えに来ている車に乗り込んで去っていく人、または荷物を担いだまま、夜の明けない道を歩いて行く人たちも居た。

 私はロビーで夜明けを待ってから、街へ向かって歩こうと思った。
 地理も方角も分からないし、何より暗い海沿いの人けのない道で、不審者に襲われたりしたら、私の計画が全て台無しになってしまう。自分で死ぬと決めはしたものの、せっかくこんな遠くまで来て、通りすがりの不審者の餌食になった挙句殺されたりなんかしたら、死んでも死にきれない。

 並べられた椅子の一つに鞄を置き、その隣に腰を下ろして、ふと振り向くと、世話好きを絵に描いたような顔のおばさんが、私をしげしげと見ているところと目が合った。思わず目を逸らし、目線を合わさないようにしたまま、怪しまれないよう笑みを作って会釈をする。

「あなた、一人で船に乗ってた?」
 案の定、おばさんは私に興味を持った様子で、声をかけてきた。

「はい、おばあちゃんの家に、一人で行くところです」
 顔に笑みを張り付けたまま、目を合わせないよう気をつけて、私は決めていた答えを返す。こんな(子供を子供という生き物としか思っていないだろう)おばさんには、「祖母」と言うと却って怪しまれる気がして、私は言葉を選んだ。

「そうなの。親御さんは?」
「仕事で」
「あら、大変ねえ。あなたも若いのに、立派ね。うちの娘も同じくらいだけど、一人で旅行なんて危なっかしくてさせられないわ」

 おばさんは、一応納得してくれたようで、幾分饒舌になった。
 私は愛想を顔に張り付けたまま、迂闊にそれ以上のことを言わないように、大人しく引っ込み思案の中学生の演技を続けた。

 迎えの車が到着したらしく、おばさんは「それじゃあ、気をつけてね」と言って椅子を立った。私は安堵が顔に出ないよう、笑みを張り付けたまま、小さくお辞儀をして見送った。

 ここにも長くは居られない。
 一人きりで船に乗っていた中学生の女の子は、嫌でも興味を誘ってしまうのは仕方のないことなのだろう。早くここを去らなければ、また似たような人に根掘り葉掘り興味本位に質問されてしまうのは目に見えている。

 椅子に座ったままの姿勢で顔にタオルをかけ眠っている振りをすることにして時間を過ごし、外が薄明るくなった五時半に私は荷物をまとめて、乗船場を後にした。

 建物を出ると、夏とは思えないほどに気温は低く、半袖では寒く思えるほどだった。人けのない海沿いの道を、道なりに歩いてみる。
 所々に車向けの大きな看板が掲げられていて、そのうちの幾つかは見慣れないロシア語らしい言葉で書かれていた。

 街がどちらにあるのか、私は知らなかった。
 別に旅行や観光で訪れたわけではないのだから、街に向かう必要もないだろう。気の向いた方向へ歩いて、「ここだ」と思える場所があれば、それからのことは、その時考えることにしようと思う。

 二十分も歩いているうちに、空は完全に朝のものになった。道路は幅広く、歩道も備えられているものの、時折トラックが行き過ぎるだけで、私のようにこんな早朝に道を歩いている人は誰も居なかった。

 どこで迎えてみても、朝は朝なのだろうと思っていたけれど、私の知っている朝の景色とこの街の朝は、違っているように思えた。
 うまく言えないけれど、普段は見たことのないほどの希望に満ちたような光とでも言うのか、朝の光が特別に神々しく、美しく思えた。

 鞄の中に手を入れて、瓶に触れながら「きれいな朝だね」と呟いてみる。

 彼が生きている間に連れてくることができなかった遠くへ、ようやく連れてくることができたような気がした。
 生きている間に見せてあげたかった遠くの景色を、彼が死に、自分が死ぬって決めてからではないと、見せてあげることができなかったことが、取り返しのつかないことだけど、悲しく思える。

 そういえば、彼は海を見たのも初めてかもしれない。
 船に乗ったのも初めてだと思う。家で飼われているうちは、美味しいものも食べさせてあげていなかった。美しいものも見せてあげていなかった。それでも幸せだと思っていた彼の無垢な笑みに、胸が詰まる思いがする。

 私が美味しいものを食べて、遠くで美しいものを見ていた時に、彼は家で一人寂しい思いをしていたのだということ。
 それに全く気付くことなく、彼が死んでしまうまで、私は彼に何も与えてあげようとはしなかったこと。

 懺悔に近い気持で、祈る。
 そのことを知らず、怒りすら覚えない彼に、せめてもの弔いをしなければいけないと思った。

 暫く歩くうちに、完全に陽は上がり、道を行く人が所々に現れて、私は安堵を覚えた。

 道を挟んだ左手には、大きな建物があり、早朝に関わらず周辺には人が集っている。私は興味を惹かれて、道を渡り、建物を覗き込んでみた。

 そこは市場だった。今朝漁れたらしい魚や貝が並べられ、氷の破片が敷き詰められた台の上で、値段を付けられている。

「お嬢ちゃん、これ食べていきな。美味しいから」
 近い台の向こうから、ぬっと何かが差し出された。
「あ、りがとうございます」
「美味しかったら、お母さんに買ってって言ってね」

 それだけ言うと、カニの足を差し出したおじさんはニッと笑って仕事に戻った。
 私は受け取った太いカニの足を、面食らいながら食べた。氷に冷やされていたらしいカニの足は、初めて食べる果物のように瑞々しくて、目が覚めるくらいに美味しかった。

 考えてみれば、彼が死んだ数日前から、私はろくに何も食べていなかった。お腹が空かなかったとはいえ、よく気付かなかったものだと自分に驚く。

 久しぶりの食べ物を口にしてみると、ぼんやりしていた頭がハッキリして、視界が少し明るくなった。
 ずっと持ちっぱなしだった鞄をコンクリートの地面に置いて、一つ大きく伸びをしてみる。背中の節々がパキパキと小さく鳴る。

 小学校の頃の、運動会の朝みたいだ、と思う。
 誰より速く走れる気がする。どこまでも歩ける気がする。こんなに体が軽いのは、もう何年もなかったことかもしれない。

 犬の姿をした彼が、私と最後の時間のために、魔法をかけてくれたみたいに思えた。この軽くて自由な体で、私はどこにでも行ける。
 何でもできるし、死んでしまう前に、知らないことを何でもしてみたい。
 知らない場所に行きたいし、知らないものを見て、知らないものを食べて、できる限りのことをやりたい。
 鞄の中に骨になってしまった彼を連れて、私は今までの人生の十三年の間に出会えなかったものと出会うのだ。

 そう思うと、思わず肩で呼吸をしてしまうほど、気持ちが高揚するのが分かった。

 ――いいよ、どこへでも行ってあげる。
 鞄の中の瓶に触れて、心の中で言う。

 ――最後に、思い切り遊ぼうね。遠くまで行こう。美しいものを見て、美味しいものを食べよう。思い残りがないほどに、一緒に居るのを幸せだと思おう。

 市場から少し離れた道沿いの椅子に座って海を見ていると、目の前にバスが止まった。椅子は休憩用のものではなく、バスを待つ人のためのものだったらしい。

「乗らないの」
 運転席から声をかけられて、反射的に「乗ります」と答える。

「はい、出発します」の声の後に扉は閉まり、バスはおもむろに走り始めた。

 座席を見回してみる。平日の朝なのに、通勤の人たちは乗っていないようだった。学生の姿が見当たらないのは、こちらもまだ夏休みだからなのだろう。私のほかには老人が何人か散らばって座って、それぞれに外を見ていた。

 日が高くなり始め、白く強さを持った光がバスの窓越しに社内に差しこんでくるのを、目を細めて見て、「知らない街で、行き先も知らないバスに揺られている。こんなに不安になりそうな状況で、全く不安を覚えていない」ということが面白く思えて、小さく笑ってみる。

 バスの車窓は、海沿いの景色から、道幅の広い大通りへ移り、駅前に着いて終わった。

「終点です」

 その声に促されるように、老人たちはゆるゆると腰を浮かし、ゆるゆると降車口へ向かう。終点なら仕方ない。私も鞄を肩にかけて、バスを降りる。

 船が着く街だけあって、駅前はある程度に開けていた。
 海まで直線で続く広い道路の左右に商店街が広がっているようで、駅の向かいにはデパートもある。時計を見ると、朝の九時を回るところだった。

 実際のところ、私は何も決めていなかった。「死ぬ」と決めて家を出ることが、私のとっての正義だったのは確かだったけれど、どこで、どんなやり方でいつを目途にして行動を起こせばいいのかは、未だ見当も付いていなかった。

 時間はいっぱいある、と焦らないよう、自分に言い聞かせる。
 うっかりして変な補導に捕まって送り返されたりしなければ、時間は案外あるはずだ。出かける時に準備したお金は、多いとは言えないけれど、気を付ければ何日かは猶予がある程度には残っている。

 とりあえず駅の案内所に行って、観光客用に配っている周辺の地図を貰うことにした。鞄の中身の大半を占めている着替えや洗面道具は夜まで使わないだろうから、ロッカーに放り込んでしまう。
 見違えるほどに軽くなった鞄を肩から掛け直し、私はこの街をもっと歩いてみようと思った。

 ――こんなきれいな海沿いの街を、一緒に散歩できるなんて、思ってなかったねえ。

 鞄の中の瓶に触れると、いつも散歩に出かける時に私の顔を見て笑っていたリンデンの顔が瞼の裏にちらついて見えた。

 リンデンの骨は、今や私にとって何よりも大切なものなのに、まるで陶器屋のバーゲンセールで三百円で買ってきたかのような、安っぽい白い陶器に詰められていることが気になった。

 火葬場で受け取った時には、そういうものなのかと気にも留めなかったけれど、今や、この知らない街を歩く私の持ち物の中で、何よりも意味のある大切なものは、彼の骨だ。大切なものなのだから、それに相応しいちゃんとした入れ物に入れてあげないといけないような気がする。

 北海道の涼しい夏の光にきらきら光るガラス細工の美しい瓶が良いかもしれない。もっとしっかりした焼き物みたいな瓶でも、安心していられるかもしれない。簡単に割れてしまわない頑丈な入れ物の方がいいのかもしれない。こうやって持ち歩くためには、あまり重くないほうがいいような気はする。

 ――そうだ。リンデンの骨を入れる、相応しい瓶を探しに行こう。

 すべき行動の道筋が見えて、気持ちが再びわくわくと高揚する。
 あまり高いものは買えないけど、ガラス工芸のある街だと、さっきのパンフレットにも書いてあった。きっと土産物屋を歩くうちに、きっと、丁度いい入れ物が見つかる。

 歩き回ってみても、涼しさに汗一つかかず、私は今が夏だということを忘れそうになってしまう。地図を見ながら訪れてみた観光客向けの土産物屋では、小さなガラス細工の人形やベルやオルゴールなどが売られていたものの、肝心の私が期待する丁度いい入れ物は一向に見当たらなかった。土産物屋に期待するべきものではなかったのかもしれない。

「何か探しているの?」
 店内を見回す私に親切にも声をかけてくれた若い女の店員に
「……骨壺に良い瓶がないかと思って」
 と答えると、店員は目を瞬かせて「こつ、つぼ?」と馬鹿な子供のように復唱してみせた。

「骨壺です」
「……骨壺、うちはお土産屋だから、骨壺はちょっと……」
「骨壺にできる大きさの、蓋付の綺麗な瓶があればいいんですけど」
「うーん、ガラス細工は扱ってるけど、あまり大きなものは売れないから……」
「……そうですか」

 目に見えて落胆を隠さなかった私に、店員は幾分慌てたようだった。
「ちょっと待って」
 店を出ようとした私を、店員が呼び止めた。小さな紙に何かを書き、それを私に手渡す。

「ごめんね。うちにはないのだけど、道の向こうに変わった古道具のお店があるから、そこならもしかしたら、何かあるかも」
 思いがけない提案に、思わず店員の顔を見上げる。彼女はニコッと笑って見せ
「女の子が骨壺を探してる、って何か事情がありそうだものね。見つかるといいね」
 と私に笑いかけた。私は彼女を頭悪そうだと思ったことを、心の中で謝って、会釈を返した。

 手渡された手書きの地図を見ながら辿り着いた古道具屋は、日の当たらない場所にあった。覗き込んでみても、仲は薄暗く、店を開けているのかどうかもよく分からない。
 店頭に置かれた椅子に座り、どうしたものかと少しの間迷っていると、おもむろに店の扉が開き、髭だらけの男が顔を出した。

「わっ」
「……なんだ、お客さん?」
 今まで眠っていたかのようなだらしない面持ちで、熊のような男は一つ大欠伸をする。

「あの、蓋が付いた、このくらいの大きさのきれいな瓶とか、ありますか」
 鞄からリンデンの骨の入った白い瓶を取り出して、恐る恐る男に見せる。

「……なんだ、これ。骨壺じゃないか。どうしたの、こんなもん持ち歩いていいの」
 そのことについて、正面から人に尋ねられたのは、初めてだった。私は、どう答えたものか、男から目線を外して、唇を噛んだ。

「……死んじゃった犬なんですけど、海も見せてあげられなかったから、せめて骨だけでも連れてきてあげようと思って」
 骨を持ち出して家出した件と、私がその犬を追って死んでしまおうと思っていることは伏せておいた。

「へえ、……」
 男はしげしげと、リンデンの入った小瓶を興味深そうに眺める。私はその男の姿をはらはらしながら見守っていた。

「で、どうしてあんたは、骨壺に入っている犬の、骨壺を新しく探してるの?」
 むさくるしい髭の男は、店の前の椅子に座ったままだった私の正面に回り込み、私の顔を覗き込んできた。反射的に笑みを貼りつかせて目を伏せる。

「怪しいね。……まあ、いいか」
 男は店頭に掛けたままだった簾を巻き上げ、「中へ入れ」と顎でしゃくった。

「蓋のある瓶は幾つか置いてるから、気に入るのがあれば安くするよ」
 私は、男の顔を見上げて、唇に力を入れたまま、もう一度会釈をした。

「……開店時間は、本当は十二時なんだけどな」
 大きな欠伸をしながら、熊のような男は伸び放題の頭に手を突っ込んで、乱暴に掻き毟った。時計を見ると、まだ十時半だった。少し申し訳ない気持になりながら、間を持たせるために

「ここに住んでるんですか?」
 と小声で尋ねてみる。

「いいや、家は山の方にあるけど、帰るのが面倒な時はここで寝てるってだけ」

 店内には夥しい数の物が、壁に沿って隙間なく積み上げられていた。
 本、服、花瓶、食器、人形、よく分からないけど古そうなもの、時計、アクセサリー、櫛。
 古道具屋ではなく、ここは蔵だと言われた方が、説得力があるかもしれない。

「好きに見ていていいよ」
 そう言い残して、男は狭い店内を歩きながら伸びをして、奥へ引っ込んだ。私はその伸ばした両手が積み上げられた物の山に触れて、雪崩が起きてしまうんではないかと気が気ではなく、その後ろ姿を見送った。

 男は間もなく、お茶とおにぎりの皿をお盆に乗せて戻ってきた。お茶の注がれたコップは二つある。
 そのうち一つをこちらに差出し、「じゃ、話を聞こうか」と定位置であるらしいカウンター奥の座布団へ腰を下ろした。

「どうせ埋めてしまうんだから、骨壺はそれでいいでしょ」
 男はお茶を一口飲み、そう言ってから、おにぎりを一口齧った。

「それとも、埋めないつもりなの」
 私は見透かされたような気持がして、背中がびくと震えてしまった。

「普通、犬とはいえ、子供に骨を持ち出せさせないだろ。どっかに隠すの」
 少し迷ってから、首を振る。

「……宝物にして、持っておこうと思って」
 死ぬまでの間、という部分は伏せる。

「ふうん」
 男は興味を失ったように目を逸らして、また伸びをする。今度は座った姿勢だから、近くの物を倒す心配はしなくて良さそうだった。

「うちには、そんな宝物を入れるような、ご立派できれいな瓶はないと思うよ」
 やっぱり、と少しの落胆を感じながら、自分に「期待してなかったから平気」と言い聞かせる。

「そうですか」
「うん。ガッカリさせて悪いね」

 小さく首を振り、「有難うございました」と言って店を出ようとすると、「ちょっと待った」と呼び止められた。

「うちに宝箱みたいな骨壺はないけどね。
 ……その骨を加工して、宝物みたいな首飾りにすることは、できるよ」

 振り返った私に、男はニッと笑って見せる。

「きれいな瓶に入れて持っとくのもいいかもしれないけど、首飾りにしてお守りにすれば、毎日付けていられるでしょ。そっちの方が良いんじゃないの」

「そんなこと、していいんですか」
「していいかどうかは、そっちが決めることだろ」

 そんなことは、思いつきもしなかった。
 遺骨を傷つけて首飾りにするなんてこと、してもいいのかどうかも、判断がつかない。ただ、瓶に入れて持ち歩いているよりは、身近なものとして大切にできる気がする。

 そこまで考えて、私はふと、何より重大な筈だった「死ぬ」という決心を、いつの間にか忘れていたことに気付く。

「パッと見て骨だとは分からないように加工できれば、普通の首飾りみたいに毎日身に着けて居られるだろ。骨を持ち出したことも、骨壺ごとちゃんと返せば親は許してくれるんじゃないか?」

 そう言われてどきりとする。この熊のような男は、私のことを本当に見透かしているのだろうか。

 少しの間があった。私は鞄の中にしまった瓶に触れて、どうしたらいいのかということをリンデンに訊こうとした。

 ――リンデン。

 リンデンは何も答えなかった。いや、私が都合よくリンデンを答えさせられなかった、のかもしれない。

 ――リンデン。

 もう一度、祈るように、強く思う。


「私は、死んでしまおうと思ってたんですけど、どうしたらいいのか、分からなくなってしまって」
 本当のことを言ってしまいたい衝動に駆られて、思わず口に出してしまった。

 実際口に出してみると、後を追うように気持ちが熱くなってくるのを止められず、私はその場に立ったまま、暫く泣くのを止められずに立ち尽くした。

 時間が流れているのか止まっているのか、分からない。

 衝動が収まり、喉の奥の痙攣が幾分落ち着いて、肩で息をしていると、さっき差し出されたお茶が再び目の前に差しだされた。

 お礼を言おうにも、胸が苦しくて声にならない。小さく頭を下げて、コップを受け取る。一口飲むと、家で煮出したのだろう濃い麦茶の味がして、胸のつかえが流れたような気がして、息ができるようになった。

「あんたがさ、死のうと死ぬまいと、おれの知ったことじゃないけどさ」
 顔を伏せたまま、辛辣な言葉が続けて降ってくるだろう覚悟をする。

「見てる限り、あんたは死にたくないんじゃないの、と思えるんだけど」

「……知ったようなこと、言わないでくれる」
 絞り出すように、それだけ言うと、男は困ったように頭を掻いた。

「知らないけどさ。でも、あんた、死のうと本気で思ってたら、今、ここで泣かないでしょ。骨壺の中身が大事なんだから、それ持ったまま、邪魔されないうちに、さっさと死んでしまおうとするでしょ」

 言葉に窮する。
 でもそれは、死ぬなんてことを現実に考えたことがなかったから。
 死ぬ前にやっておくべきことは何かって真剣に考えたから。
 私を誰より愛してくれたリンデンが居なくなったら、生きていける自信なんてないから仕方ないから。
 愛してくれたリンデンが死んでしまったら、私も一緒に死ぬのが正しいと思ったから。

 何て答えても、この男には冷ややかに軽蔑されてしまいそうに思う。
 結果的に、私は何も言えず、口をつぐんで下を向くことしかできなかった。

「あんたが心から死にたいって思ってるんだったら、どうにもできないし、する気もないけど。あんたが実際死にたくないと思ってるのに、犬は付き合いで死んでもらっても嬉しくないと思うよ」

 そんなこと言われなくても分かっている。
 リンデンは私に一緒に死んでほしいとは一度も思ってない。
 私のことが大好きで、一緒に居られなくなるのは嫌だけど、あの死ぬ前の悲しい目は、それを諦めた目だと思った。自分が死ぬこと、一緒に居られなくなること。それを悲しんで、諦めた目だった。

 私が自分を死ぬべきだと感じたのは、愛してくれるリンデンが居なくなるのが耐えられなくて。
 愛してくれたリンデンが死ぬんだから、愛情を返していた分、自分も同じものと立ち向かわなければいけないような気がしたから。

「……おじさんは、私がどうしたらいいと、思うんですか」
 嗚咽に耐えながら、何とか絞り出した言葉に、男は軽く笑って

「だから、離れたくないんなら、首飾りにして大事にすればいいんじゃない? 首飾りじゃなく指輪でもブローチでも、身に着けられるものにしていれば、犬はあんたを守ってくれると思うよ。離れなければ生きていけるんでしょ」
 と答える。

「私は、死ななくても、いいの」
「死ななくてもいいんじゃない? 犬も、あんたも、誰もそれを望んでないんでしょ」

「でも、死ぬんだと思ったからこそ、親を悲しませる覚悟決めて、家出して、一人でこんなに遠くの北海道まで来て」
「……何、あんた、どこから来たの」

 急に血相を変えた男の表情に気圧されて、私が家のある駅と、船で来たことを伝えると、男は言葉を失ったようだった。
 いい気味、と他人事のように少し得意に思う。

「首飾りにするなら、幾らくらいかかるんですか?」
 男が余りにも黙り込んでしまったために、気分が少し落ち着いた私から声をかけてみる。

「……え、ああ。そうだな、焼いた骨は脆いから、表面を補強して、加工したら、二万くらいかな」
「私、そんなに払えないです」

 持ってはいたけれど、稼ぐ手段もなく、泊まるあてのない、死ぬことをやめた中学生としては払えないというのは事実だった。

「死なないんなら、家に帰らなきゃいけないし」
 そう言うと、男は「じゃあ分かった」と言い、一人で納得したように頷きながら、横を向いて煙草に火をつけた。

「二万払わないと、作ってくれないってことですか」
「いや、特別にただで作ってあげようかと思って」

 思いもよらぬ言葉に、頭の中でいっぱいに広がっていた計算が真っ白に吹き飛んだ気がした。

「えっ」
「その代り、今、ここで親に電話しなさいよ。おれが見てる前で」

「……えっ」
「で、家に帰ったら、さっき言った住所の近くの郵便局消印で、ここあてに葉書を出すこと」

 カウンターの端に置いてあった籠の中から、名刺サイズの紙を私に渡して、
「これ、ここの住所が書いてあるから。そしたら、その葉書の住所に、できた首飾りを送るから。それでいいだろ」
 と、灰皿に煙草の灰を落としながら言った。

 結論から言えば、私はその提案に乗ることにした。

 死ぬ覚悟をしたのは、間違いじゃないし、本気だった。
 それは嘘じゃないけれど、誰も私が死ぬことを望んでいないのなら、人生をかけて投げ出してみる理由が分からなくなった。
 死なないのなら、生きていかなければいけない。家族が嫌いなわけではないし、心配をかけているなら、安心させてあげたいとも思う。

 電話をかけるのは、怒られるのが目に見えていたから気乗りがしなかったけど、今、かけないとこのまま一生家に電話をかけられないような気がして、私は一つ深呼吸をしたのち、息を止めて、携帯電話の電源を入れた。

 本当に息が止まってしまうような質問攻めの中、私は「今、北海道に居て」「死のうと思ったけどやめた」と言うことだけ、なんとか言うことができた。これからの便で母は北海道へ向かうと言う。

 電話を終えたのち、そのことを男に告げると「親だったらそんなもんでしょ」と軽く聞き流された。

 私はさっきの電話で、夜に母と札幌で待ち合わせて、今日は札幌へ泊まり、明日帰宅することになった。
 一昨日に家を出て、昨日一日船に乗り、今朝北海道へ着いて、考えてみれば家を出てからまだ二日しか時間が経ってない。随分呆気なかったなと思ったけど、帰宅することに少しの安堵を感じている私は、十分に疲れているのかもしれない、とも思った。

 帰宅してすぐ、私は高熱を出して一週間ほど寝込んだ。
 一人きりで知らない場所を歩いた短い旅の中で見たもの、考えたことなどが、朦朧とした意識の中で浮かんだり消えたりしているのを、布団の中でぼんやりと眺めていた。

 漸く熱が下がって、体を起こして、「葉書を出せ」と言われていたことを思い出した。 家の近くの郵便局の消印で、とわざわざ言ってきたということは、心配してくれていたのか、と今になって少し驚くような気持ちがした。

 葉書を出した一週間後、小さな包みが私宛に届いた。
 その中には、空に浮かぶ月の破片を半球に切り取りガラスでコーティングしたような美しい石の周りに、小さな飾りが施された綺麗な首飾りが一つ、入っていた。
 あんな熊みたいな男の人が、不器用そうな指先でこんなに華奢な細工の首飾りを作ったなんて、ちょっと信じられなくて、笑ってしまった。

 宝物にしよう。改めてそう思う。嬉しい日も悲しい日も大切な日も、この首飾りを付けている限り、私は大丈夫なんだ。そう思う。

 磨かれて補強されたリンデンの骨は、光に透かすごとに白く美しくて、改めて彼の骨は私にとっての神様みたいに思えた。

 リンデンを埋める朝、泣きもせず抵抗もしなかった私に、両親は驚いたようだった。

「あなたが厭なら、もう暫く埋めずにいようかと思っていたのよ」

 という母に私は笑って「大丈夫」と答えることが出来た。私がブラウスの下に毎日身に付けるようになった首飾りについて、両親は気付いていない様子だった。

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