chatGPT4を反射板として使いながら、Ney & Partnersでの5年の経験を振り返り、最近まとめたレクチャーの内容を記事にした。あまりに長過ぎたので5つに分割して掲載している。これはその4つ目だ。
図式
図式化と中動態
この2項は1つ目の記事に掲載
図式と表記法
アルベルティ・パラダイム
この2項は2つ目の記事に掲載
図式の関数化:オブジェクティル
この項は3つ目の記事に掲載
中動態的アプローチ
国分功一郎はその著書『中動態の世界 意思と責任の考古学』において、スピノザを引用しながら、近代社会における自由意思とは、切断であると指摘する。何か問題が生じたとき、誰がその原因となる行為を行ったのか、それを能動的にやったのか、受動的に誰かにやらされたのか、その行為の起点となる意思を問題視する。だが、意思は何も無いところから立ち上がる訳ではなく、先行する状況や周囲の環境の影響から無関係には存在しない。自由意思の考え方は、本来無限に遡っていける原因の系列を切断し、特定の個人に行為の責任を所有させるための概念だ。
アルベルティ・パラダイムでは、建築の現場において何か問題が生じたとき、それが施工の誤りなのか、図面の不備なのかその問題の起点を特定し、責任の帰属を明らかにさせる。
しかし、現場で生じる問題の多くには無限に遡っていける原因の系列が存在し、契約を盾にその因果関係を切断し責任を特定の誰かに帰属させる事は、施工側の過大な見積もりとVE提案による質の劣化を招く。
これに対して、共著的建築では、切断をしないという中動態的アプローチをとる。犯人探しを敢えてせず、問題のメカニズムを解明するために協力することで、過去の設計に対する責任を引き受け施工者と共に問題の解決を探ることを重要視する。
Ney & Partners 虎ノ門プロジェクトでのエピソードを実例として挙げよう。
設計を担当したのは国道1号にかかるデッキ上にあるキャノピーだ。虎ノ門ステーションタワーとグラスロックをつなぐこのデッキの桁裏は折半構造でデザインされている。これに合わせてそのデッキ上のキャノピーも折れた面で構成することとした。
連続梁のモーメント図に沿って構造高を確保する。折れの稜線が反転した屋根面と天井面を合わせることで、四辺のエッジで厚みがなく、かつ中央で膨らむ日本刀のような立体形状が得られる。
これによって、全く厚みの感じられないペラペラの紙のような、エッジが効いた構造がつくられる。同時に、この多面体の構造は橋上のランドスケープに合わせて緩やかにカーブを描き、様々な角度で連なる面が都市のダイナミズムを反射する豊かなシークエンスを生み出す。構造と体験が統合されたかたちの図式である。
これまでと同様に、複雑な制約条件をひとつのシンプルな図式に統合するためには、個々の要素の複雑なコントロールを要する。故に、かたちの図式をアルゴリズムによる表記法によって関数化し、線形や柱位置の変更に追従させる。コードは幾何形状図に翻訳し、伝達されたかたちのルールに基づき製作マスターが人の手で再現される。
日本刀のようなエッジを持つ端部ブロックは、排水軒樋を統合したことに起因して面が捩じれているため、宇宙・航空産業で活躍する菱輝金型の大型5軸NC機で切削する必要があった。それを職人が公差0.5㎜の超精度で仕上げている。その部材を受け取るUBE(宇部興産機械)が恐るべき精度で溶接しユニットを組み上げていく。出来上がるモノは、原作者の想定を超えて、さながら鉄の彫刻のように、現地架設と現場溶接を担う松田建設工業に納品された。
ここに至ると最早一切の妥協が許されない。現場での架設を安全側にみて、柱を2mm端部ブロックから飛び出させるように位置合わせして溶接する提案に合意したが、実際に橋上からみるとほんの僅かに凹凸がエッジの奥に見えてしまう。溶接とグラインダーの仕様規定上からみれば既に完璧な仕事だが、最早ここまで来たらアートのレベルで仕上げるために平滑にけずらなければならない。だが、鉄の塊を平滑に削るのは決して容易なことではない。原作者としての感性を伝えながら、限られた工期で現実的に何が可能なのか、職人と直接対話する中で現場の制約条件と重ね合わせ、十分に合理的な解を探す。再び現場に訪れた時、厚みも凹凸も感じられないエッジが綺麗に仕上がっていた。
ハーバート・サイモン曰く、人間は限定合理的存在であり、3つの有限性を持つ。有限の時間、限定的な情報、能力の限界だ。現場では工程が詰まり検討に費やせる時間は短く、情報は限定的で予測はつかない中で判断を下す必要があり、自分の職能の能力には限界がある。職人は良い仕事をしたいが、基準や仕様の外側にある質を上げるために何をやれば良いか分からず、一方で設計側は限られた状況で現実的に何が可能で何が出来ないかを知らない。
この限定合理性を、現場に何度も足を運び職人と対話すること事で乗り越える。道具の使用が身体を拡張するのと同様に、他者の存在が個人の世界の知覚を拡張してくれる。この時に重要な事は他者を支配するのではなく、他者と使用関係に入る事だ。道具を使用するために自身の身体の図式を再構築する必要があるように、他者を使用するために自分自身の図式を再構築する必要がある。
複数性とアウラ=この性
レスポンシビリティとは、コールされたときにレスポンスするアビリティを意味する。 責任とは、向き合う出来事に自分なりの応答をするということだ。 この自分なりの応答を他者のそれと重ねていくことを、ハンナ・アレントは、人間の複数性に参加することだといった。
この複数性によって限定合理性を乗り越えた時、建築はアルベルティ・パラダイムにおけるオリジナルの同一的コピーを越えた、作品固有の価値を獲得するだろう。ヴォルター・ベンヤミンは、コピーについて、芸術は複製技術によってオリジナルのアウラが消失すると言った。複数性によってつくられる建築は、単なるコピーではないアウラを宿すだろう。
ここで言うアウラは、この性に言い換えられる。この性とは、このモノ、これでしかないことであり、どれだけ確定記述を積み重ねても説明しきれない剰余が残るもの、この人でしかないもの、この人たちしかできなかった再現性のなさ、固有性こそがこの性、アウラだと言えるだろう。
この性が作品に宿り、原作者を超えたとき、その作者は事後的に発見される。すなわち、それは原作者性の消失を意味するだろう。それを曼荼羅のようなもので表現したい。
以下に続く
アウラと参加性
議論のための図式
過程の中に在り続けること