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"Chinese Taipei"の苦闘

オリンピック。
若いころは、もっと観戦を楽しめていました。

と、少し前に書いた記事の出だしをリユースしてしまいましたが、相も変わらず競技以外のニュースに反応してしまいがちです。職業病。
今回は、こちらの話について。

オリンピックの会場で「台湾」や"Taiwan"と記された応援グッズが警備員らによって次々と没収されているというのです。背景には、言うまでもなく、中国政府によるIOCへの圧力があります。
ここでは、そもそも"Chinese Taipei"というオリンピックでの不思議な呼称が生まれた経緯も含めて、この問題を掘り下げます。
(冒頭の写真はバドミントン男子ダブルスで金メダルを獲得した台湾の李洋、王斉麟のペア。TAIWAN TODAYより)


オリンピックでの中台の熾烈な攻防(競技ではなく)

まずは、こちらの写真をご覧ください。

台湾のオリンピック委員会HP(https://www.tpenoc.net/game/rome-1960/)より

これは1960年のローマ大会での開会式で行進する台湾選手団の姿です。旗手は旗を持っていません。代わりに"UNDER PROTEST(抗議中)"と書かれた幕を掲げての入場です。

尋常ではない光景ですよね。

ローマ大会に際して、IOCは台湾の蒋介石政権に"Formosa"という呼称で参加することを要求しました。"Formosa"とは、ポルトガル語で「美しい島」を意味し、西洋における台湾島の呼び方として広がりました。

しかし、蒋介石にとってこれは非常に不満でした。"Republic of China(中華民国)"としての参加を求めていたからです。彼は大会をボイコットすることも検討しました。しかし、陸上の男子十種競技でメダルも狙える「アジアの鉄人」こと楊伝広(よう・でんこう)選手がいたことから思いとどまりました。その代わり、開会式で抗議の意思を世界に見せつけたのです。

ちなみに、その楊伝広は見事に銀メダルを獲得。台湾にとって初のメダルとなったのです。ボイコットしなくて本当に良かったです。

国連における中国代表問題と同じように、オリンピックでも中華民国(台湾)と中華人民共和国(中国大陸)は熾烈な攻防を繰り広げました。どちらが「中国」としてスポーツの祭典に参加すべきなのか。

1952年のヘルシンキ大会。IOCが中国からの圧力を背景に台湾に"Republic of China"での参加を受け入れない姿勢を示すと、台湾は大会をボイコット

次の1956年メルボルン大会ではIOCが台湾に"Republic of China"での参加をIOCが認めると、今度は中国が大会をボイコット。さらに1958年にはIOCから脱退までしました。

台湾が勝利を収めたかのように思えたが…

IOCとしては、面積や人口で圧倒的に大きな大陸側がオリンピックに参加せず、小さな台湾側が「中国」を代表して参加することは歓迎せざる事態です。そこで、1960年のローマでは台湾側に"Formosa"としての参加を求めたわけです。

憤懣やるかたない蒋介石は、IOCからの脱退も検討したそうです。
ただ、そうすると中国がIOCに復帰して名実ともに中国が"China"として大会に出場することが容易に想像できます。苦々しい思いで"Republic of China"ではない呼称での出場を受け入れました。

1964年の東京大会。台湾は"Taiwan"という呼称で大会に参加しました。ただ、入場行進で選手団を先導したプラカードでは"Taiwan"の下に薄く「中華民国」という文字も書き込まれました。
これはIOCの意向ではなく、日本側の台湾に対する配慮だったと伝えられています。

その後も台湾はIOCとの交渉を続け、ついに1968年、"Republic of China"での参加を認めさせました。外交的に大きな勝利でした。1972年のミュンヘン大会と1976年の冬季インスブルック大会で台湾は"Republic of China"として堂々の入場。

ところが、その後、「中華民国」としての登場はありません。

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