見出し画像

差別とは何か。

例えば自分の管理するコインパーキングに近所の子どもが入り込んで遊んでいたとします。このままでは事故に繋がりかねないし、普通に駐車したい人にとっては邪魔者以外の何者でもありません。
意を決して注意したところ、「うるせえ黙れ」と罵声を浴びせられてしまいました。
仕方なくオーナーであるあなたは、
「駐車場内で子どもを遊ばせないでください」
という立て看板を立てることにしました。

さて、これは「子どもを差別した」と非難、批判されるべき行為でしょうか。

【物議】対馬で韓国人観光客が“逆ギレ”禁煙の神社で喫煙ポイ捨て注意も怒鳴り声…韓国人出入り禁止に

(この記事のタイトルが【物議】であることも私は気に入りませんが…)私はこの神社側の対応を全面的に支持します。神社はフリースペースではないし、ましてや喫煙に対する注意を呼び掛けて罵詈雑言を浴びせられる謂れなどありません。

静寂な住宅街で夜中に騒ぎ立てる若者。彼らが「表現の自由だ!」などとうそぶいたところで、誰も彼らの肩を持たないでしょう。
授業中に教室内を走り回る子どもにも権利があるからと教員が注意をしなければ職務怠慢と責められるでしょう。
つまり、権利というのは他者の権利を守るからこそ得られるもの、他者の権利を守るという義務を果たすからこそ得られるものなのです。

最近、何でもかんでも「差別」と騒ぎ立てる風潮があります。しかし、他者の権利を守れない相手の権利を認める必要が本当にあるのか。
「差別」のワードが大好きな皆さんには、よくよく考えていただきたいものです。

今年の冬から春にかけて、山菜採りに出かけた方が熊に襲われる、という事件が度々報じられてきました。こういう場合は地元の猟友会の方が駆除に協力されるそうですが、そういう猟友会の方々に対して「熊には何の罪もない!ひどい!」というコメントを投げかける人がいるようです。
いやいや、それならあなたの住む街に熊が出ても共存するんですか?ご近所さんや、場合によっては自分の家族が襲われても同じことが言えますか?と素朴に思います。

今回の件も同じです。安全地帯から「差別だ」と騒ぐのは簡単です。
でも、自宅の敷地や目の前で、特定の国の人が騒いだり、ポイ捨てしたりしても、それを注意したら逆ギレされたとしても、「差別はいけない。みんな仲良く」と言えるのでしょうか。
それを言いたいなら、まずは当該神社に行って、一か月ほど、ポイ捨てされたタバコの吸い殻を拾うなり、危険運転や迷惑駐車がなくなるように交通誘導のボランティアをするなりして、それから改めて「差別はいけない」と言えるかどうか、改めて考えていただきたいものです。

某保守政治団体の政策ではないですが、日本のルールやらマナーやら法律やらを尊重できない人は国外退去で良い、と心底思います。
日本のことわざにも「軒を貸して母屋を取られる」というものがあります。
軒先を貸す相手については十分に留意しないといけません。その留意を「差別」と呼ぶなら、差別なんかクソ喰らえ、と私なんかは思ってしまうのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?