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奴隷とは何の謂ぞ

どこぞのネット記事で読んだように記憶しておりますが、家庭訪問の途中でトイレに行きたくなってコンビニに立ち寄ったらそれを見ていた保護者から学校にクレームが入ったそうです。
曰く、「家庭訪問という勤務時間内にコンビニで時間を潰すとは何事か」と。
翌日から、家庭訪問の途中でコンビニに立ち寄ってはいけないと管理職からお達しがあったので、その記事を書いたセンセイ(インタビューを受けた先生だったかもしれません)は、コンビニには寄らないことにした、という内容でした。

色々とツッコミどころ満載ですが、これはあれですかね、
「先生が使う可能性も考えてトイレも掃除して家庭訪問に備えているのに使わないなんてひどい!」
という一種のやっかみなのでしょうか。
そもそも学校も(というかほぼ校長の判断だとは思われますが)、そんなクレーム(言いがかり)に負けちゃだめでしょ、とも思ってしまいます。

似たような話で救急隊員が出動の合間に救急車でコンビニに寄って昼ご飯を調達していたら市民からクレームが入った、などというニュースも過去にありましたが、全国的に公務員はコンビニ使用禁止という機運でも高まっているんでしょうか。

政治家も含めて教員(公立に限りますが)、公務員などは時折「公僕」、つまり公の奴隷というような表現がなされるようです。もちろんこの「奴隷」とは比喩であって現代社会において本当に奴隷制度が認められているわけではありません。
ところがこの比喩を読み解くことができないのか、前述の職業にあるような方を本当の奴隷であるかのように扱う発言がまかり通っている現状を見ると遣る瀬無い気持ちになります(お客様は神様だ、というのも同じですね。もっとも、全知全能の神様が本当にお客様なら、カスハラなんてことも起こらないのでしょうが)。

百万歩譲って労働時間が労働成果に正比例する業務に従事しているのであれば、その手の指摘も受け入れられないことはありません(もちろん人間は機械ではないので適度な休憩は不可欠です)。また、アルバイト・パートさんのように時間給のお仕事であれば多少は譲歩できる部分が出てくるかもしれません(その場合、残業代は恐ろしいことになりそうです)。
が、政治家にせよ公務員にせよ教員にせよ、働けば働いただけ成果が出るなんて単純な図式が成り立つ業務ではありませんし、もちろん固定給なわけですから、労働時間=生産性などという19世紀も真っ青な図式が成り立つはずがないのです。トイレを我慢して良い家庭訪問ができるか、少しの休憩がかえって質の高い面談時間を創出するのではないのか、ちょっと想像力を働かせれば、小学生でも辿り着けそうな回答です。

「公僕」とはその立場にある人が自らを戒めるために使用する比喩であって、使役する立場の人が相手に押しつけるイメージではないはずです。

多様性を謳っているくせに、自分の尺度が当てはまらない相手を執拗に叩く不寛容な社会で、本当に個性が育つのか(もちろん社会機能を維持するために多少の矯正は必要でしょうが)、いささか不安を感じざるを得ません。

※タイトルだけ見てもしかしてSM/サブドミ関係の話かと思われた方には深くお詫び申し上げます。。。

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