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世の中が「自殺」を語っている。

いろいろな著名人や一般人が、「自殺」について語っているのを見て、僕は僕で色々と思うことがあった。

なんというか、「死ぬのは良くないことだ」「あなたが死んだらみんな悲しむ」なんて誰でも言える。というか、それを言われてしまうことは、「死」という、当人にとっては「唯一(に見えている)逃げ道」すらも塞がれてしまう感覚になることだってあるだろう。

僕は僕で、単なる体験談に過ぎないけれど何となく、つらつらと書き留めておこうかなと思う。

死のうと思ったこと

僕が希死念慮を人生の中で最も強く持ったのは、大学院を退学するくらいの時期から、(当時やっていた2人組バンドの)相方に逃げられたときだった。あのときの希死念慮というのは本当に強烈で、もう自分の人生の先行きなど真っ暗だというよくわからない確信のようなものがあって、メンタルもあまりにも不安定な状態で、酒量が凄まじく増えては、友人との飲み会で荒れ倒したりもした。相当、いろんな人が離れていくのを感じた記憶がある。

当時はなんというか1日中意識が朦朧としている感覚があって、「気づいたら」みたいなことがとても多かった。「気づいたら」隣県にいた、とか、「気づいたら」地下鉄の端っこの駅にいたとか。「気づいたら」死んでいたなんてことも、一歩間違えばあったのかもしれない。

結局、ある夜にどっかの橋から飛び降りようと決めたとき、親にLINEを送った(まぁ、ここで人に連絡をしているってことは死にたくなかったんだろうな本当は)ら、(まあ当然だけど)ものすごい勢いで止められて思いとどまったんだけど、それからというもの入水を試みたりとか、高層ビルの屋上に気づいたら登っていたりとかODをしてみたりとか、そういうなんというか「癖」みたいなものがついた。終わりの見えない暗闇からの「逃げ道」がそこにはある気がして、まぁー色んな人にものすごい心配をかけまくったことと思う。

あるときから周囲から「病院に行ったほうがよい」という強い勧めを受けるようになり、心療内科にかかるようになって、しばらく精神安定剤に助けてもらった。

「何も考えられない」

ああいうときは、とにかく「何も考えられない」という精神状態に支配される。当然「前向きなこと」など考えられるわけがないし、もっというと「死にたい」「逃げたい」「楽になりたい」ということ以外を考える脳の回路が完全に欠落する感覚。全身の細胞が「死のう」とする感覚。

当然仕事なんぞ手につくはずもなく、当時の職場にはまぁー迷惑をかけまくった。結局僕の人生はその後(比較的)好転したとは思っているけど、「人生生きてりゃなんとかなるだろ」なんてことはその当時は微塵も思えなかった。

負のエネルギーで吹っ切ること必要

なぜ僕がそれを吹っ切れたのかというと、やはり「それでも近くにいてくれる人」が結構いてくれたことが大きかったと思う。彼らは当事者ではないにしても、僕のことを彼らなりにすごく考えてくれて、夜中まで居酒屋で一緒にいてくれたり、家にいてくれたりとか、とにかく「僕を一人にしない」ように動いてくれていた。これに関しては本当にいまだに感謝しかなくて、あのおかげでなんとか踏みとどまって生きながらえたというのは間違いのないことだと思う。

当時、とある友人と飲んでいたとき、「酒に逃げりゃいい」「そんな裏切り者のことは許さなくていい」と言われたのが、今となっては救いの一言だったなぁと思う。結局、僕はその相方を「恨み」「怒り」のパワーでなんとか振り払った。「好きだから逃げられて辛い」ということは、「嫌いになってしまえば辛くなくなる」というロジックだ。これは人間としての器が小さい選択なのかもしれないし、かっこ悪い選択なのかもしれないけれど、保身をするためにこうするしかなかった。結局、現在はその相方のことをなんとも思っていないし、会って普通に話をすることも多分できるんだろうと思う(会うことはないだろうとも思うけど)。

「足かせが外れてよかったじゃん」と言ってくれた人もいて、これもやはり救いになった。何気ない言葉でも、救ってくれる言葉とそうでない言葉があるのだなと思った。

人生の中で、時にはきっとこういう「負のエネルギーで何かを振り切る」ということも必要なのだろうなということをそのとき学んだ。

薬なんてやめたほうがいい

逆に更に追い詰められたのは、「薬を飲むのはやめたほうがいい」「酒に逃げるのはやめたほうがいい」というアドバイス(主に年長者が多かった気がする)を受けたときだった。

わりと常識的な話だとは思うが、精神安定剤やトランキライザーを自己判断で「断薬」してしまうことは非常に危険なのである。にも関わらず、単なる第一印象で「薬なんて体に良くないからやめたほうがいいよ」なんていうアドバイスをしてくる人もいた(信頼関係が確固な友人とかにはそういう人はいなかった。なんというか、「薄い仕事のつながり」くらいの人がこういうことを言ってくるのである)。

あと、「酒に逃げるのは良くないよ」も同類だった。確かにそりゃあ、体に良いもんではない。しかし、アルコールで気を紛らわせてなんとか朝にたどり着くということを選択肢から断ったら、脳内がまた希死念慮に支配されてどっかから飛び降りてしまうことだって十分に考えられた。

綺麗事でこういうことを軽く言ってしまうのは、それこそ一歩間違えば殺人なのではないか。未だにそう思う。僕はこういうことを、本気で思い悩んでいる人に言わない人間でありたい。

「運動すれば良くなるよ」「朝散歩すれば良くなるよ」確かにそうだ。今なら分かるけどそれで良くなるんだ。しかし、そんなこと出来るような精神状態ではもはやないということだってそれは明白だ。そんな一筋縄ではなんともならないからこそ、僕はどん底で思い悩んでいたのだから。

「友人」と「時間」が何となく解決してくれた

僕をこの泥沼から引きずり出してくれたのは、結局のところ「友人」と「時間」だったと思う。僕は先程も書いたように「負のエネルギー」でいろいろなものを吹っ切ってから、徐々に日常生活を通常通り出来るようになり、なんとなく飛び込んだ「ソシラボ」というコワーキングスペースで様々な人と出会い、そこで見えた「全く新しい世界」で起業をすることを決意して、それがたまたまある程度うまいこと行ったおかげで、通常のメンタリティを取り戻すことができた。

でも、当時ついた「希死念慮グセ」は未だに抜けきってはいない。やはり生きていれば辛いこともあるわけだが、そのたびに「あのビルから飛び降りたら楽になれるのだろうか」なんてことを考えてしまったりもする。この癖は多分一生抜けないのだろう。が、この癖となんとかうまく付き合っていける気もしている。「俯瞰で自分を見る」みたいなことが何となく大人になるにつれて出来るようになってきたからだ。

「とにかく逃げ続ける」「とにかく目を背け続ける」。そんな選択が必要なこともあるのだろうと思う。前なんて見なくても良いのである。見れないんだから。いつかきっと「同じ後ろ」を見続けることに飽きて、前を見るしかなくなる時がくる。そのときまで隣に誰かにいてもらいながら、なんとか耐え忍ぶみたいなことも必要なのだろう。離れていく人なんて追いかけようとしたって仕方がない。ここでやはり陳腐すぎる結論に到達するんだなと思ったが、結局の所「死んじゃダメ」ってことなんだろうな。

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