【スカーレット】

ねぇ、ちゃんと聞いてる?
寧々は少し膨れた顔で僕の顔を見ていた。

ジョボボボ…とコップの底をストローで啜る音を立てながら、寧々を上目遣いで見た。

もういい。幼なじみがこんなに恋で悩んでるのに、ちっとも気にならないんだね!

いや、そんなことないって。

じゃあ今、あたしがなんて言ったか言ってみてよ!

いや〜、その〜。。。

ほらね!涼介っていっつもそう。

ごめん。で、もう一回お願いしていい?

今日はもういい。その代わりに奢ってよね!

はいはい、分かりました。

今日のバイト1時間分の金額を払ったあと
僕たちは、混み始めた駅前のファミレスを出て改札へ向かう。12月の空気が街を白く染めていた。みんな、暖をとる為なのか店々に入っていく。

寧々とは幼稚園から高校までずっと一緒だった。
家も近所で、幼い頃はたくさん一緒に遊んで喧嘩もした。
大学はさすがに違うところに進学したけど。

今は、お互いに一人暮らしをしていて
住んでる場所も反対方向である。

じゃあ、また何かあったら言えよ。

今度はちゃんと聞いてよね!
本当に悩んでるんだから!

はいはい、分かりました。

僕たちは肩をすくめながら駅のホームで別れた。

“同じサークルの先輩が気になってるんだけど、その人には彼女がいるんだよね。でも、先輩の姿を見ると、こう、胸が狭くなるんだ”

あの時、寧々はこう言っていたはずだ。
聞こえてないフリをするのがやっとだった。
寧々の言葉をかき消すように、わざと中身の入ってないコップの底をストローで啜った。

寧々のことは中学で生徒会を一緒にした時に好きになった。それまで何とも思ってなかったのに不思議な感覚だった。
寧々が生徒会長で僕が副会長をした。

それからずっと想いを伝えられずにいた。
寧々とはいつも一緒だったから、それで十分だった。

寧々を応援したい気持ちと、寧々を想う気持ちが、ぐるぐるとコーヒーとミルクが混ざり合う渦のようにマーブル模様を作っていく。

どうしたらいいんだよ…
白い息と共にぽつっと吐いた言葉が、行き交う人たちの声にかき消されていく。

僕は大学で心理学を学んでいる。
昨今、度々ニュースで話題になる自殺。
自ら命を絶つ、という痛々しくも悲しい現実を目の当たりにする機会が多くなった。
そんなニュースを見聞きする度に、胸の奥を刺されるような感覚になる。
自殺者は年間3万人を超えているという。
これはとても恐ろしいことだ。
時代背景を危惧する専門家もいる。
僕は、自殺に追い込まれるほど心がボロボロになった人たちを救いたいと、いつしか強く思うようになった。

そう思うようになったのには絶対的な理由があった。高校時代に出会った、唯一親友と呼べる正樹の自殺だ。前日まで一緒に授業を受けて、昼休みには隠れて一緒にエロ本を読んだ。
正樹の自殺を知った時には、頭の中が真っ白になったのを覚えている。本当にあの正樹なのかと疑った。だけど、正樹の席に正樹はいなかった。現実は容赦なく目の前を映し出していた。
自殺する人は、自殺する前日や数日前まで普段と変わらない様子を見せていることが多い。その心理というものを、僕は日々、研究している。

自殺する人を救いたいのなら、生き辛さを感じて暮らしている人が生きやすい世の中になるように政治家になって、世の中を変えていけばいいじゃん。その方が夢がある!って、寧々は至極真っ当な言葉を投げつけてきた。

確かにそうだ。自殺する人の理由はそれぞれにしろ、そっちの方が近い道なのかもしれない。
でも、残念なことに、僕は全く政治に興味がなかった。興味のないことを仕事には出来ない、譲れない思いが勝ってしまう自分が情けないとは思った。ゴールが一緒ならそれでいいと考えられたらよかったのかも知れない。

到着時刻になっても電車は来なかった。
どうやらまた、人身事故で遅れているらしい。
構内がざわつきはじめて、駅員が大きな声で対応している。これが都会では日常茶飯事だ。どこかで知らない誰かが、自らの命を絶っている。やりきれない思いが、焦燥に変わっていく。ホームの人々は、迷惑がっている。自殺した人の思いは計り知れない。正樹はどんな思いで、あの日を過ごしたのだろう。バイト先に事情説明の電話を入れ、遅れることを伝えた。タマシイのような白い息が、目の前で消えていくのを僕は見ていた。


心理学を学んでいるのにも関わらず
恋愛における心理には手こずっていた。
本屋で数冊買って読んだものの、学んでいることとはどこか外れていて、あまり参考にならなかった。寧々の相談にイマイチ乗れないのはそのせいもある。恋愛は、心理学に頼るものではなく経験なのかもしれないと思った。恋の駆け引きなんて、経験値の低い僕がやろうとするならば、引いたら引いた分だけ距離が出来てしまうだろう。
引いた分だけの努力をさらにしないといけない。それでは息が上がってしまって追いつけなくなってしまう。やれやれだ。

寧々は、僕が心理学を学んでいることをいいことに、恋愛相談以外にも、こういう時の人の心理ってどうなの?といろいろ聞いてくる。

寧々の頼みごとには断れない。
こうやって、寧々は僕に手を伸ばしてくる。
その手を掴まずにはいられなかった。

寧々の力になりたい気持ちは大きくなる。
それが、僕にとって関係ないことでも、全く知らない誰かのことであっても構わなかった。

ゆらゆらと揺れる気持ちの向こう側から
寧々はしっかりと手を伸ばしてくる。
いつだって、寧々の味方でありたいと僕は思っている。
出来るだけ優しく、その手を引き寄せて抱きしめるイメージで、寧々の話しを聞いている。
この前の先輩の話しは耳が痛くて、すかさず誤魔化してしまったんだけど。

寧々と話していると、何もかも忘れられそうな気がしていた。心理学を学んでいると、様々な事例に感情移入してしまって、学んでいる者が病んでしまう、ということも少なくない。
僕の友達の何人かは、それを理由に休学している。教授には、オンとオフをしっかりするように!と、いつも念を押されている。

僕には、それが寧々との会話だった。

心理学を熱心に学ぶのはいいことだ。
時に感情移入してしまうことは僕にでもある。
その度にやりきれない。統計されたデータに答えがあるにも関わらず、どうしてそうなってしまうのだろうと疑問に思うことが多々とあった。
これが人間の心理なんだよ。と、教授は僕の肩を叩く。僕は、自分が学んでいる学問が、時に埃のように思えて仕方なくなる時がある。
何の役にも立たずに、埃のように隅で固まって、
自分の言葉すら誰かの心には埃のように積もるだけの、フワフワとした軽いものになってしまうのではと、拭いきれない思考が落ちてくる。
きっと、休学している友人たちは、同じような思いに呑まれてしまったんじゃないかと思っている。僕は、そんな思いに苛まられそうになったら寧々に連絡を入れて、他愛もないことを話して気分を和らげていた。


オンとオフをしっかりするように!でしょ?
寧々は見透かしたように笑う。

寧々には適わないね。

こんな時間に電話してくるのは涼介だけだもん。
何時だと思ってるの?1時なんだけど。

ごめん。でも、出てくれてありがとう。

いいよ。明日は学校もバイトも休みだし。
あんまり勉強しすぎたらダメだよ?
涼介まで埃だって思いはじめたら、正樹の死がムダになるよ。

そうだよね。今日はもう寝る。おやすみ。

おやすみ。あ、明日ヒマ?
時間あったら、この前の続きをお願いします。

あー、いいよ。大学は昼までだし、バイトも休みだから。また連絡するね。


電話を切ったあと、しばらく考えていた。
この前の続きって先輩の相談だよな。
こうやって、寧々が手を伸ばしてくると掴まずにはいられない。心が痛むのを知っていても、引いた分だけ距離が出来てしまう。
幼なじみっていう関係だけで、永遠とは限らない。

僕が寧々のことを好きだということは、正樹にも言えなかった。正樹も寧々のことが好きだったのを知っていた。それを正樹本人から直接聞いた。僕はそれを応援した。親友だったから応援した。正樹に正直に言えなかったのは、三角関係で全てが壊れてしまうのが怖かった。だから僕は、誰にも言えずに寧々と一緒になれることを夢みていた。


今日はどれ奢ってもらおっかなー
寧々はメニュー表を見ながらじっくり選んでいる。

今日は奢ると言ってないぞ!

涼介くん、あたしはハンバーグとエビフライ定食にする!ドリンク付きだよ!

おい!聞いてるのか?

どう?この前のあたしの気持ちが分かった?
ニヤニヤしながら、どうだといった顔を見せてくる。

くそ…可愛いから許してしまいそうになる。

はいはい。分かりました。ごめんなさい。
ほんとにそれにするの?

んー、もうちょっと迷ってみる。

もう1つのメニュー表を見ながら僕も選んだ。

鶏の唐揚げ定食にしよっかなー

涼介って本当に唐揚げ好きだよね。

いつ食べても美味しいからね。
1週間鶏の唐揚げでも同じテンションで食べれる自信がある!

なにそれ。じゃああたしも久しぶりに唐揚げにしよっかなー。

僕たちは鶏の唐揚げ定食を頼んだ。

僕が水を飲んだ時、寧々も同じように水を飲んだ。

窓際の席から見える駅の屋上の観覧車を見上げると、同じように寧々が観覧車を見上げていた。

ねぇ、さっきから同じ動きしてるけど
もしかしてミラーリングのつもり?

たまたまでしょ!勉強のしすぎ!
寧々は、オンとオフをしっかりするように!と
指を立てながら笑っていた。

それで?この前の続きは?

聞きたくなかったけど、その為に僕らはここにいる。

うん。とりあえずはご飯食べてからにしようよ。
唐揚げまだかなー。

そうだね。

ランチタイム真っ只中のファミレスは
バタバタと店員が走り回っている。

そういえば涼介って、好きな人とかいないの?

なんだよ急に。
変に慌ててしまって顔が熱くなる。

いや、どうなのかな〜って思ってさ。
いくら幼なじみでも、そういうことに触れてこなかったなーと思って。
涼介の口から、女の子の名前とか出てきたことないし。

寧々がつっこんでこないところをみると、
どうやら顔は赤くなってなかったみたいだ。

グッドタイミングで唐揚げ定食が運ばれてきた。

涼介の方が唐揚げが大きい!
トマトと交換してよ!

は?それじゃ割に合わないだろ!

あたしがトマト食べれないの知ってるくせに。

トマトだけもらっとく。
寧々のトマトをひょいっと口の中に入れる。


それで?先輩の話なんだろ?

うん。同じサークルにいる先輩のことが気になるんだけど、その先輩には彼女がいるんだよね。
あたし、どうしたらいいのかなって思って。

寧々は先輩が好きなの?

あたしもよく分かんなくて。
その先輩を見ると、胸が狭くなるのは狭くなるんだけど。それが好きって気持ちなのかは分かんなくて。

そっか。先輩に彼女がいるんじゃどうしようもないよな。こればっかりは、心理学でどうこう出来ることじゃない。自分の気持ちもよく分からないなら、様子みるしかないね。ごめん、普通のことしか言えなくて。

寧々が期待しているようなことは、何一つ言えなかった。

寧々は黙って唐揚げを食べている。

涼介って好きな人いないの?
気づいたら寧々がずっと見ていた。

今、ここで自分の気持ちを伝えるには
いろいろ準備が整っていなさすぎた。
ましてやランチタイムのファミレスで
周りにはたくさんの人がいる。

とてもここで言えるような感じではない。

今日は寧々の話を聞く日だよ。
僕の話しをする日じゃない。先輩の話しはそれで終わりかよ?

うん。終わり。

どうやら僕のターンらしい。早すぎるだろ。

大きい唐揚げいる?

もうお腹いっぱいだからいらなーい。
それより、あたしの質問に早く答えてよ。

まだ時間もあるんだし、久しぶりにひばりヶ丘公園に行ってみない?続きはそこで!

続きはWebで!みたいに言うな!
寧々がケラケラと笑っている。

今日、バイトの給料日だったから奢ってあげる。
寧々が伝票を取りながら席を立つ。

いいの?

いいよ。今度奢ってもらうから。

ありがとう。ご馳走様でした。

僕たちは、僕たちの実家近くのひばりヶ丘公園を目指した。寧々とよく遊んだ公園だ。

ここからは3駅ほど先の距離だ。
歩くには少し遠いから電車に乗ることにした。

電車が揺れるたびに、マフラーから浮き出た寧々の髪がふわふわと揺れている。
穏やかに差し込む陽の光の暖かさに、寧々がウトウトしていた。

僕のこの気持ちをありのまま正直に話したら、この関係が崩れることなく、寧々は笑ってくれるだろうか。
不利な状況にいることは分かっている。砕けることも目に見えている。
ひばりヶ丘公園が近づくにつれ、僕の心臓は大きく脈を打ちはじめていた。

次はひばりヶ丘。降り口は右側です。

冷たい空気が一気に車内に流れ込む。
その冷たさに目が覚めたのか、眠っていた寧々が起きる。扉が閉まるギリギリでホームに降りた。

少し高台にあるひばりヶ丘公園の大きな滑り台が、駅のホームからも見える。

正月に帰って以来だった。
そこまで懐かしいわけでもないのに、見慣れた景色を見ると、懐かしさを感じずにはいられなかった。一人暮らしのアパートからわずか5駅ほどの距離なのに、こんなにも景色が違って見えるなんて。そんな感傷に浸っていたら、寧々が早く行くよと袖を引っ張った。


変わってないね〜
寧々が大きく伸びをしながらつぶやいた。
ひばりヶ丘公園に来るのは2人とも久しぶりだった。

思ってたより駅から距離あったね。
こんなに坂道がキツかったっけ?

涼介の体力が落ちただけじゃない?
あたしは平気だもん。

それだったらちょっとショックだな。
最後に遊んだのはいつだろうね。
10歳くらいかな?

そのくらいかもね。
習い事始めたら来なくなったもんね。

僕たちは、しばらく昔話に花を咲かせていた。

続きはWebで調べても出てこないんだから
そろそろ話してもらおうかな、涼介くん。

寧々がフェンス越しに街を眺めながら
僕が話し始めるのを待っている。

変な間をあけてしまうと言い出せなくなってしまう。それでも言い淀んでしまうのは、この気持ちを伝えたら関係が崩れてしまうのが怖いからだ。
意を決して話始めようとした時だった。

あたしが先輩を好きになってもいいの?
寧々が寂しそうな顔で僕をみる。

それを僕に聞く必要があるの?
展開が読めずに戸惑ってしまう。

もう!涼介っていっつもそう!
少しは焦らないの?男なら、好きな女のことくらい奪われないように必死になってよ!
ずっと待ってたのに。涼介、全然動こうとしてくれないんだもん。

寧々は少し泣いていた。
嫉妬のストラテジーだよと言っていた。

恋愛の心理学で聞いたことがある。

他の人の名前を出し、その人に嫉妬心を燃やさせるという、恋愛における心理学のテクニックだ。

その先輩が気になってなかったわけじゃない。その先輩の話しを聞くたびに、焦ってなかったわけじゃない。ただ、そういう姿を見せるのは、みっともなくて恥ずかしいと思っていたからだった。

あたしはずっと涼介が好きだったよ。
一緒に生徒会をした時からずっと。
いつも一緒にいたから、それで十分だった。
でも、大学で離れ離れになって、涼介に彼女が出来たらどうしようって思ってた。
涼介がおじいちゃんのところで心理学を学んでるって聞いた時はびっくりした。

え!?
高麻呂教授って、寧々のおじいちゃんなの!?

そうだよ。変な名字でしょ。
お母さんのお父さんなの。
オンとオフをしっかりするように!
あたしがこの言葉を知ってること、疑問に思わなかったの?

僕がどこかで言ってたのを
ただ寧々が使ってるだけかと思ってた。

はぁ。ほんと涼介って頭が良いのか悪いのか分かんないね。涼介が、あたしのことが好きってことも、何となく分かってた。幼なじみを甘くみないでよね。何年一緒にいたと思ってるの?
いくら涼介がポーカーフェイスだからって、気づいてないわけじゃなかったんだから!

僕らはあの時から、ずっと一緒に胸に灯った小さな火を守り続けていたんだ。
誰かに消されないように。

喜びも悲しみも同じように分け合ってきた。
正樹の死も、お互いの大学合格も。

12月の空気が一段と冷たくなってきた日。
僕たちは初めて手を繋いだ。
寧々は、いつも手を伸ばしてくれていたんだ。
僕に分かるように。誰にも取られないように。

そんな無邪気さを僕は思い出していた。

あれは笑っちゃったな。
慌ててストローで啜りだした時。
効果抜群だって思った。

寧々には適わないね。

スカーレット色のマフラーに包まれた寧々の髪が、ふわふわと揺れるのを僕は見ていた。

寧々の手は離さない
このまま 時が流れても