【流れ星】

ヴーヴー、ヴーヴー。
テーブルに置いていたスマートフォンが震えている。
カーテンの向こうが少しだけ明るい。
ようやく朝になりはじめた頃だろうか。

瞼を開けきらないまま、ベッドから思いっきりテーブルに手を伸ばしてスマートフォンを見た。

佳奈の笑った顔が画面いっぱいに映し出されていた。

「もひもふぃ」

「ごめんね、めちゃくちゃ早い時間に」

「ほんとだよ。どうした?」

「今日、彗星が見えるんだって!
朝一のニュースで言ってた!見に行こうよ!」

「見に行こうよって、大丈夫なのかよ、外に出て」

「んー、許可が下りるか分からないけど、聞いとくからさ。もし大丈夫だったらお願いね!」

「分かった。また連絡してね。」

「はーい。じゃあね〜」

このまま寝ようかと思ったけど
佳奈から起こされたとはいえ、たまには早起きでもしてみるかと思い
インスタントのコーヒーを淹れ、目を覚ました。

テレビをつけると、佳奈が言っていた彗星のトピックを流していた。
50年ぶりに今夜、彗星が見れるらしい。
次、同じ彗星が見れるのは100年後と言っていた。
100年後なんて、俺たちはもうこの世にいない。
佳奈にいたっては…この続きを考えるのをやめた。朝からこんな気持ちになるのは、せっかくの早起きをダメにしてしまう。

コーヒーを飲み終え、軽く着替えてから
肌寒い朝の空気の中に飛び込んだ。
近くの川沿いを散歩しながら、さっき浮かんでしまったコトをまた少し思い出していた。

佳奈は、1年後もここにいるだろうか。
同じ明日が俺たちに来るのだろうか。

今から半年前、佳奈とデートをしている時だった。その日は2人の1年記念日で、予約の取れないカフェでランチを楽しんでいる時だった。いきなり佳奈は多量の吐血と共に倒れてしまった。
周りは騒然とし、すぐに救急車を呼んで運ばれた。一刻を争う状況だったと後から聞かされた。
一命は取り留めたものの、予断を許さない状況が2ヶ月も続いた。その日からずっと、佳奈は大学病院に入院している。病名は、家族以外には伝えられないのと佳奈は言っていた。だから俺は、佳奈の病名を知らない。難しい病気だってことくらいしか俺には話してもらえなかった。
俺は、数少ない情報から必死で調べた。たくさん出てくる症例の中から、素人の俺には確信の持てる病名は検討もつかなかった。担当の主治医に、しつこいくらいに聞かせてもらえないかと、佳奈には内緒で何度も頭を下げたけれど頑なに断られた。

“私たちには守秘義務というものがあってね。
ご家族以外に伝えてはいけない病気もあるんだよ。頭を上げなさい。君の気持ちはすごく分かるよ。でもね、申し訳ないがこれは法律で決められている。破ってしまうと、私が罪に問われてしまうんだ。君も大人だ、それくらいは分かるだろ?

そもそも君には、病名を知るという覚悟が出来ているのかね。ご家族ですら受け止めきれない病気がたくさんある。私たちは仕事だからそれを説明しなければいけない。もし私が、ご家族の立場だったらと思うと、聞くに耐えない説明が山ほどあるんだよ。病名を知るってことは、時に覚悟が必要なんだ。その覚悟が君にはどれくらいあるのかな?”

優しい口調ではあったものの、厳しさが漲っていた。俺は答えられなかった。覚悟。考えもしなかったことを突きつけられていた。中途半端に、ただ病名を知りたいというだけで動いていた自分自身の浅はかさを思い知った。病名を知ったところで俺には何も出来ない。それは分かっている。
でも…という思いだけが心を埋めているのが分かった。

それから俺は、病名を調べることも主治医に頭を下げることもしなくなった。
佳奈は、あの日のことを何度も謝ってきた。
付き合った当初に、1年記念にはあのカフェでお祝いしようと、確約のないまま、カフェに1年後の予約を入れて実現した日だった。

佳奈が謝る度に、大丈夫だよと何度も伝えた。

時計が午後1時を指した頃、佳奈の笑った顔が画面いっぱいに映し出されていた。

「もしもし」

「ヒロくん、やっと外出許可下りたよ!」

「やっとって。本当に大丈夫なのかよ?」

「大丈夫!採血の結果次第って言われて、それをずっと待ってたの。数値は全て正常値だったよ」

「そうだったんだ。それならいいけど、何かあったらすぐに戻るからな」

「分かってるよ。それじゃあ迎えよろしくね〜」


佳奈の外出許可が下りたのは、この半年でたったの1回だった。
その1回は、佳奈の28歳の誕生日。
誕生日は家で過ごしたいという思いを、先生の付き添いのもと実行した。
久しぶりの家に佳奈はすごく喜んでいた。
その日の夜に高熱を出してしまったけど、
佳奈が家に帰れたことは、俺もすごく嬉しかった。

外出は今日で2回目だ。

佳奈と一緒に出かけられるのは、嬉しい反面、不安の方が大きかった。
でも、天体好きの佳奈にとって50年ぶりの彗星というのは、命を削ってでも見なければいけないものなのかも知れない。

車に乗り込んだ時から、ずっとはしゃいでいる。

「あんまり興奮しないようにね。また熱でも出たら、せっかくの彗星が見れなくなるよ」

「分かってるよ。あの日は調子悪かったのに、無理やり帰らせてもらったんだもん。だから、先生が着いてきたんだよ。ちゃんと薬も持ってきたから、今日は大丈夫!」

「そうだったんだ。薬もあるなら、ちょっと安心した」

「ところで、どこに向かってるの?」

「どこって決まってるだろ。星流丘」

「え!?星流丘まで行ってくれるの!?」

「流れ星スポットなんだろ?俺はあんまり詳しくないけど、調べたら一番最初に出てきたから」

「そうそう!天体好きには超有名な場所なの!周りに何もなくて、360℃の大パノラマ!天然のプラネタリウム!でも、辺鄙な場所にあるからなかなか簡単には行けないんだよね。めちゃくちゃ遠いし」

佳奈にスイッチが入ったのか、ずっと星流丘のことを話している。そんな姿を見ていたら、スポットを調べたのは大正解だったと言える。

「ちょっと早く着きすぎたかな」

やっと夕暮れ時になった頃に星流丘に着いた。

「このくらいが丁度いいよ。ありがとう」

夕方の橙色と忍び込む夜の藍色が、見事なグラデーションを作りながらも、まだまだ橙色が藍色を持ち上げるように空を染めていた。

佳奈が早くも空に手を伸ばし、流れ星を掴む仕草を何度も何度も繰り返していた。
その姿が愛らしい。

「星が出るにはまだ早いだろ(笑)」

「絶対に捕まえてみせるの!」
そう言って、画面いっぱいの笑顔と一緒の笑った顔を見せる。ふざけているのか、本気なのか、佳奈は時々分からないことをする。

佳奈は流れ星を捕まえたらどうするのだろう。
佳奈は流れ星に何をお願いするのだろう。
聞くに聞けない問いが浮かんでは消える。


彗星の見頃は20時~22時。
病院には、夜中に戻って来てもいいと、特別に許可をもらっていた。そのくらい、佳奈の病状は落ち着いているのだろう。佳奈からその話しを聞いた時、不安が一気に吹き飛んだ。


超有名な天体スポットと謳っているにも関わらず、あまりに辺鄙な場所なのか、俺たち以外に誰もいなかった。他にも天体スポットがいくつか出ていたから、そっちに行っているんだろうか。
そもそも、50年ぶりの彗星には興味ないんだろうか。

「何だっけ?スペシウム光線だっけ?」

「それはウルトラマンでしょ(笑)
アルカディア流星群だよ!」

下らないやりとりを続けながら
流れ星を探す佳奈の姿を見ていた。
手を伸ばして、流れ星を捕まえる仕草をまた繰り返している。

佳奈が倒れる前のような鮮やかさが胸を締めつける。俺は知ることのない病が、今もなお、佳奈の身体を蝕んでいる。何もないような素振りで、病気だとは分からないような佳奈の明るさに、俺は救われていた。
こうやって、ありふれた恋人のようにいることが、俺たちにとってはいいのかも知れない。
ありふれたままでいよう。特別なことなんていらない。ありふれていることが一番の幸せなんだと、心からそう思いはじめていた。

俺は、流れ星に何を願おうかと考えていた。

“佳奈の病気が治りますように”
これしかないとは思う。

だけど、これは佳奈の願いなんじゃないかと思う。佳奈や佳奈の家族の最大の願いだろう。
佳奈はきっと、ヒロの願いを祈らなきゃダメだよって、そう言うに違いない。佳奈はどんな時も、自分より誰かを思いやれる、本当に優しい心の持ち主だと思う。そんな佳奈のことが大好きだ。


俺には欲しい物がたくさんあった。2人で暮らそうって話しをしていた。2人で暮らすにはお金が必要だ。お金も家具も家電もたくさん必要なものがある。失くしてきた物もたくさんあった。大事にしていた、母親の形見のオルゴール。初めて買ったアコースティックギター。大大大吉というおみくじ。数えたらキリがないくらいに、俺は大事な物も失くしている。いつの間にか、親父に捨てられたんだろう。実家に置いてきたのも、悪いんだけど。欲しい物、失くしてしまった物を取り戻す願いよりも、もっと大事な何かがあるはずだ。
大人になってから流れ星に願い事なんて、佳奈と付き合っていなかったら考えもしなかっただろう。

しばらく空を見上げながら考えていた。
本当に流れ星に祈る願いが叶うのなら、このまま時間を止めて欲しい。
出会った頃に時間を戻して欲しい。
科学的に不可能なことを必死に祈るのはバカみたいだけど、こんなこと、流れ星より神様だろうと思うけど、50年に一度なら、流れ星にだって出来るはずだ。……出きっこないか……。
項垂れるような重圧が、胸の奥に沈みこんでいく。



持ち上げていた橙色が完敗したように藍色に染まっていた。

佳奈はずっと夜空を見上げている。
佳奈が言った通り、星々がランプのように点々と輝きはじめると、天然のプラネタリウムが目の前に拡がっていた。絶景だ。街の舗装道路からは見ることの出来ない、細やかな星たちが世界を煌めかせている。

オリオン座くらいしか知らない俺は、あまりの綺麗さに言葉を失っていた。

「早く出てこないかなぁ」
さっきまでのテンションとは違い、佳奈が退屈そうにしていた。

「あとちょっとだと思うよ。20時からだもん」

「うん。頑張る!」

“今から流れるよ”なんて、流れ星が喋るわけでもない。いつの間にかに一瞬で流れて、いたずらに消えるんだろう。

それでも、明日もこうやって
佳奈と一緒に出かけられたらなって
いつしかそんな思いを焦がしていた。

やがて現れる彗星を思いながら
手が届きそうなくらいの夜空に、形なき願いを放っていた。

あやふやで、ちゃんとした願いを見つけられないまま、夜は静かに時を刻みながら続いていく。

願い事を探すたびに、これでもない、あれでもないと、小さくてどうでもいいようなことばっかりが溢れだしてくる。
“佳奈の病気が治りますように”
やっぱりこれしかないと思った。
これが佳奈の願いでもいい。同じ願いなら、届く思いも倍になる。もう、これでいいと思った。

「あっ」
佳奈がふいに声を漏らしたその時

ひとつの流れ星を皮切りに
トビウオのように幾つもの星が、深い闇を切り裂きながら流れていく。

凄まじいほどの流星群だった。

「ヒロくん、仲良しでいようね」
佳奈の瞳が潤んでいた。

佳奈の言葉が胸の奥を締めつける。
泣きそうになるのを堪えて、俺は佳奈を抱きしめた。

佳奈がここにいる。それだけでいいと思った。
佳奈はやっぱり、自分だけのことじゃなく、俺とのことを願っていた。どこまでも優しい佳奈が、世界で一番愛しいと思った。

佳奈と流星群を見上げた。
2人の胸の中に流れる思いが、それぞれに深まった夜を照らしながら駆けていく。

まだ消えるな。まだ消えるな。

流星群は、虹のように弧を描きながら止むことを知らずに流れていた。

佳奈との夜がこのまま続けばいい。
どこまでも果てしなく続いて欲しい。

「今日は本当にありがとう。こんなに素敵な夜は、きっと、この先ないかも知れないね」

それがどういう意味なのかは、知らないままでいいと思った。

ありふれたままでいよう。
特別なことなんて、何一ついらない。
こうやって隣にいる。抱きしめることが出来る。
言葉を交わすことが出来る。
これだけでいいじゃないか。
時間を止めようとか、戻してもらおうとか、そんなことじゃなくて、佳奈といられる時間を大切にしようと思った。

それから半年後、佳奈は眠るように息を引き取った。俺の願いは届かなかった。
だけど、ありふれた恋人のように過ごすことは出来ていたかも知れない。
毎日じゃなくても、病室を訪れては時間が許す限り一緒にいた。たくさん笑って、たくさん泣いた。ただ当たり前に、これが佳奈との恋なんだって思った。特別なことなんかなくても幸せでいられる。それが一番幸せなことなんだと、佳奈に教えてもらった。

「長谷川くん、だったかな?」

声の方を振り向くと、佳奈の主治医がそこにいた。俺は足を怪我して大学病院を訪れていた。ちょうど会計を済ませたところで、声をかけられた。

「掟を破るのは好きじゃないんだが…君の熱意には心底驚いたよ。何度、口が裂けそうになったことか。ちょっとこっちに来なさい」

主治医は小声でそう告げると、俺を屋上へと案内した。

「谷口さんは君の話しをたくさんしてくれたよ。流星群を星流丘まで見に行ったこと、ものすごく喜んでいた。あんな場所まで連れて行ったんだと、私は本当に驚いた。谷口さんの死を、私は無駄にしないよ。彼女は、私が死んだら検体に使ってくださいと、ある日私に言ってきたんだ。私と同じ病気の人の為に、治療に役立てて欲しいと。」

佳奈はどこまで…俺は溢れる涙を必死で堪えた。

「亡くなったあとも、人権というものはちゃんと守られている。もちろん、家族以外の人には病名を教えてはならない守秘義務もね。さっき、掟を破るのは好きじゃないと言ったんだが、どういう意味か、もう君には分かるよね?覚悟は出来ているかい?私は医者として、失格かも知れないがね。」

俺は頷いた。

「彼女の、谷口佳奈さんの病名は、進行性溶血腐敗症候群という難病指定にもされている病気だった。本当に珍しい病気だ。身体中の血管が突然に破れて、そこから急速に腐れていく病気だ。吐血して倒れた時、胃袋の中のあらゆる血管が破れていた。本当に危ない状態だったんだよ。あそこまで回復したのは奇跡に近い。胃袋の一部は腐り始めていて移植手術もした。この病気は、余命が読めなかった。明日かも知れなかったし、10年後かも知れない。身体中の血管がいつ破れるのか分からないからね。今、私は谷口さんの大切な身体で、この病気のことを調べている。」

そうだ。と、主治医は内ポケットをゴソゴソと探りはじめた。

「谷口さんが、私が死んだら彼にこれを渡して貰えませんか。と、ずっと預かっていたんだよ。」

そう言うと、主治医が小さなメッセージカードを俺に渡してきた。

“ヒロくん、仲良しでいようね ずっと。”

そこには、あの日、佳奈が言った言葉が書かれていた。

俺はその場で泣き崩れた。

主治医は黙って、屋上から街を眺めていた。


佳奈。俺たちはずっと仲良しだ。

画面いっぱいに笑う佳奈の笑顔は、あの日の流星群のように輝いていた。