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「優しさの中の厳しさ」なんてものはないから。

お久しぶりです。最近書けていなかったのは、自分のせいです。と言いたいところですが、三連休ということもあり、ホテルに宿泊されるお客様が多かった為、いつもの休憩明けにフリードリンクコーナーで執筆作業ができなかった為です。ゆるしてちょんまげ。

ということで、今日から再開していくnoteですが、なんと本日100フォロワーを達成いたしました。多分昨年の12月に100人突破するぞ!とか言ったような気がするのですがようやく達成したようです。最近では

「好きなように、殴り書き」

を目標に日々書いているので、自分もストレスなく好きな時に殴り書きで頭の中を整理しています。しかし時に多くの方が記事を読んでくださり、ある人はコメントを。ある人は引用をしてくださったりします。

とても嬉しいし、僕がこうして書く力になっております。いつも皆さんありがとうございます。


最近乃木坂46の「君に叱られた」という曲にハマっているのですが、何が好きって

いつもはあんなに優しい君に叱られた

という歌詞があるからです。いやメロディーとか大好きなのですが、いつまでも優しいだけではだめなのかなと感じたのです。


こうやって考えると、タイミングよくインスタグラムでいつも優しいだけの人は危ない!?!?みたいな投稿が出てくるんですよね。携帯も勉強しているんです常に、、、

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君は誰にでも優しいから。だからじぶんなんかじゃなくてもいいんじゃないの?と恋人に言われたことがあります。いやいろんな人に言われたことがあって、いつも優しいだけではだめなのかなと不安になってしまうのです。僕は小さい時から口喧嘩も普通の喧嘩も弱くて、すぐに涙があふれるような弱虫だった(優しさの塊)ので、どうしても戦わなくて済みそうな道を選択し続けてきました。どうにかして相手の怒りを誘わない様に、、、と考えたりあまり自分の意見は言わないようにしていました。僕は空気を読むことが苦手なのでほとんどの場合、場をしらけさせてしまいます。今ではだいぶん治ってはきたのですが、たまに空気を読み間違えてしまうことは今でもあります。

こんな生き方をこれまでしてきたので、あまり怒りの感情や、その人に対して意見を言わないで合わせる選択を取ってばかりです。なので他者からみれば、皆にやさしい人だと思われがちなのです。いや本当に優しさに溢れているのかもしれませんが笑 優しさの中の厳しさが抜け落ちているのかもしれません

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優しさの中の厳しさ


ここでいう厳しさって何でしょうか。まったく見当がつきません。違うと思ったところはちゃんと怒ること?自分の意見をちゃんと言うこと?恋人にちゃんと思っていることを言うこと?わかりません。

ここでは怒りの感情を表すことは間違っていると僕は思います。やはり如何なる時も「怒り」の感情は無駄なんじゃないかと。大切な人が傷つけられたときだけ出す感情が「怒り」です。馬鹿にされた、理不尽なことで怒られた、集合時間に遅刻してきた、などの理由で怒ることは誰の為にもなりません。誰も幸せにはしません。

僕の大好きな言葉に「すべては誰かの幸せのために」というものがあります。すべては誰かが幸せになるように行動するのであって、そうならないような行動は避けていかなくちゃいけないんです。僕は誰かを少しだけ幸せにする力を持っています。日本酒をあげたり、プレゼントを豪快にあげたり、そっとレジに置いてきた友人の雪見大福を買ったりします。みんなが少しだけ幸せになれたらそれでいいんです。そこに怒りの感情はないし、少しも後悔することもありません。ここまで書いていくと優しさの中の厳しさとかではなくて、優しさで人を少しだけ幸せにして、少しずつ愛していくことが最強の優しさになるんじゃないかと思いました。そうして少しだけ幸せになってもらうために、僕はこう思うけどと意見を言ったり、また愛を言葉にしたり、それを行動に置き換えて、厳しく言うこともできるのかもしれないですね。なんだか今日はとても考えることができました。ではまた👋


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