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人生とは戯曲なのかもしれない

父の死後、初めて会社に行った日のこと。

父の葬儀が無事に終わって、一息つく間もなく、忌引休暇の終わりが近づいていた。
忌引きというには、もうちょっと喪に服す時間をくれても良いんじゃないかと思いつつも、生き残された者の現実の世界は、私の状況などお構いなしに回っていた。

出社日、会社に向かう私の足取りは、傾斜のキツイ坂を自転車で登るときくらい重い。

どんな顔をして、何を言えばいいんだろう。
というより、どんな表情で何を言うのがこの状況のベストなんだろう。

私の心の深い所にある、あからさまな悲しみを、父と全く面識がない赤の他人にぶつけるのは気が引ける。かと言って、死後まもないこの状況で、作り笑いをしながら話すことも違和感がある。

「なぜこんなことを、肉親の死を経験した私が気遣わなければならないのだ、むしろ労わってほしいのは私なのに理不尽だ」と思った。同時に、普段ならうんざりするほど、周りの顔色を見て行動していたのに、「死」という極地を盾にすると「今、喜怒哀楽の哀を体験しているのは、世界で私だけである」とい言わんばかりの、独善的な考えができることがなんだか少し滑稽だった。

そうこうしているうちに、職場のフロアへ着いていた。
私はまるで、誰かに身体を操縦されているかの如く、「習慣」という名の下に叩き込まれた無意識だけを頼りに、私はデスクに向かって進んでいた。

席に着き、諸々の支度をしていると、周囲からの視線を感じる。
「ああ、あの人お父さん死んじゃったからショックなんだろうな」という視線。その視線は「肉親の死=可哀そう」という同情と「部内に肉親が亡くなった人がいるから、何か言わないとな」という、普段の日常と異なる、一種の非日常を持ち込んだ私に対して、少し面倒な気持ちを孕んだ「何か言わないとな」という腫物に触る感情が合わさっていた。

そんな感情を感じたとしても、「礼儀」という名の慣習に沿って、私は香典返しを渡しながら、各人に挨拶回りをしなければならない。

部門長、部長、課長、部内の人、各人に対して「ご香典ありがとうございました」と、曲のサビ部分のフレーズを何度も口ずさむように、挨拶をしながら品物を渡していく。そのたび返される「この度はご愁傷様です」「本当に大変だったね」というAメロとBメロ。そこに歌詞の独創性はない。両者とも「昔からみんな歌っているから」という理由だけで、代々歌い継がれている曲をただ歌っているだけなのだ。

そして、その曲とセットで「可哀そうだね」、「気の毒だね」という表情の芝居がそこにあった。大抵、眉間にしわを寄せ、目をしぼめるのが定番。名俳優でなく、一般人がそこで繰り広げる演技は、すべて同じ表情で、その表情が薄っぺらすぎるのが、あまりに荒唐無稽でだった。

まるでそれは戯曲だった。
皮肉にも、私自身もその戯曲にセリフをもって参加している。
参加せざるを得ないのだ。なぜなら、コンセプト:「悲しい父の死」という戯曲の主役は私なのだから。

今回の戯曲の主役は私である。
しかし、私も他人が主役の戯曲に、一般人の脇役として、これまで幾度となく登場していたということに気付いた。私も、一丁前に感情の演技をしていた。きっとその時々の主役から見たら、私もとんだ大根役者だっただろう。

この世界は、どうやら様々な種類の戯曲で成り立っているようだ。
自分にとって悲しい出来事も、嬉しい出来事も、他人にとっては戯曲にすぎない。

主役にしか本当の感情はわからない。戯曲の中での、脇役は主役の動きに合わせ、これまで先人たちが言ってきたセリフを準えるような対応しかできないのだ。

別に、脇役が必死で主役の気持ちになることもない。気持ちがわからなくていい。それぞれが状況によって主役で、脇役だから。

けれど、私が他人の戯曲に脇役として参加する時は、せめて、私が経験したことのある状況や感情のジャンルの時だけは、渾身の芝居で主役と絡みたい。芝居が下手でも、その思いはきっと主役に伝わる気がするから。


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