はるをかう
雨が降っていた。音もなく降り続く雨は地上と天を繋ぎ、辿れば空に手が届くような気分にさせる。
雨が降っているせいか、夜のせいか、あたりは暗い。
ぽつりぽつりと立ち尽くす街頭はその足元だけを照らし、他は闇に飲まれている。
闇、光、闇、闇、闇、光、闇、闇、闇、光、闇、闇…
街頭に照らされた狭い光の中には雨が見える。途切れることもなく、降り続く雨。天から地に。地から天に?
闇の中を、のそりのそりと動く影があった。その歩みはひどくのろく、遅々として進まない。人…であろうか。ひょろりと長く、よたよたと、進むことで精一杯といった様子だ。胸のあたりに何かを掲げているようで、そのシルエットはまるで磔台のようだ。
動く磔台が街灯にきた。やはり人だ。男のようだ。
傘をさしていない。古めかしくもシルクハットのような帽子を被って雨を避けている。帽子の上で、肩の上で。雨が。跳ねる。ははぁ、移動磔台の正体をみたり。
ひょろりと細長い男が、胸のところで棺桶のようなものを水平に抱えているのだ。
足取りが遅いのは、おそらくその棺桶が重たいせいなのだろう。棺桶を抱えた腕は白く…おや。男は顔も蒼白だ。腕だけが白いのではないらしい。おや…光から抜けてしまった…。
男は進む。闇の中を進む。夜闇と同じ色の外套を着て。男は進む。遅々として進まぬが、前に。雨が降っている。天と地が繋がる。人と創造主が近づく。私は水路に飛び込んだ。
□■□■□
道の端にうしがえるがいた。かえるには詳しくないが、ここいらでは、かえるはすべて「うしがえる」と呼ばれる。めでたい存在ではない。私が子どもの頃は、うしがえるを潰すと褒められた程度には忌み嫌われている。ただ、今の私にはうしがえるを潰すほどの体力も気力もない。
この雨が止まぬうちに、行かねばならぬ場所があるのだから。元来、私には力がない。思春期の頃に背ぃと手足ばかりがひょろひょろと長くなったか、筋力とやらはからきしついてはこなかった。幼少期の、まるまると肉塊のようだった時期が酷く懐かしい。あの頃は早くは走れなかったが、道端のうしがえるを潰せるだけの無邪気さとチカラがあった。今は枝のような私が、棺桶を掲げて歩かねばならぬのは相当な苦労だった。仕方がない。私にはやらねばならぬ事がある。
雨はまだ止まぬ。一向に止む気配がない。
有難いかな、歩みの遅い私が彼の場所へ着くのを待ってくれているようだ。ただ雨は好かぬ。天と地が分断される。創造主との交信はやはり晴れた日でなければできぬ。また、雨は濡れる。帽子などでは雨は防げぬ。もっといい何かがあるはずであろうに、何故それを誰も考えぬ。街灯が少ない。なぜもっと道に灯りを付けぬ。ここは小路であるが、道なのだから、大通りと同じように灯りをつけるべきではないか。いや、まてよ、この道は本当にこんなにあかりの少ない道だっただろうか…
闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、光、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、光、闇、闇…
灯りの数がおかしくはないか?歩みが遅いせいでそう感じるのか?いっこうにわからぬ。そんな事よりも、早く目的地につかねば…雨が止んでしまう…この雨が止まぬうちにたどり着かねば。音のない雨が振る夜でなければならぬ。
□■□■□
外は雨だというのに、部屋の中は明るく乾いていた。春のような明るさに整えられた室内に、栗色の巻き毛の後ろ姿が見える。
「クロッキー、今日はお客が来るよ」
寄宿舎の生徒のような、白と紺の清潔な服に身を包んだ巻き毛が、窓の外を見ながら告げた。外は雨が降っている。陰鬱な窓の外とは対照的に、部屋の中は、本当に明るく乾いていて、太陽のにおいさえ漂っていた。
リーーーーーンゴーーーーーーーン
ひどく間延びしたドアベルが鳴った。
「ほら、きたきた。はいはーい」
巻き毛が軽やかに扉に向かう。
「こんばんわ、僕の店へようこそ。さぁ、中へどうぞ。外は寒かったでしょう?今、コーヒーをいれますよ。」
扉の外には、動く磔台がいた。
「あぁ、クロッキーを踏まないでください。クロッキーは大切な従業員ですから。」
ぐぶぶぶぶ、と部屋の隅でうしがえるが鳴いた。
磔台はぬらりと動き出し、ゆっくりと乾いた部屋に入った。
「あなたはうしがえるを潰したことがありますか?」
「本当になんでも買えるのか」
巻き毛が微笑む。
「本当に、なんでも、買えるのか」
巻き毛が笑う。右の口の端を上げて、酷く歪んだ顔で。室内水路の中で、うしがえるが声を上げてなく。ぐぶぶぶぶぶぶふ。
「有るものならばね」
「では、これを。私ははるを買いに来た」
磔台が、中央のテーブルに置いた棺を開けた。
それは本当に棺だった。中には女が入っていた。だが、女はまだ辛うじて生きていた。顔は血の気が失せ青白くなっていたが、細く小さく、呼吸の音がしていた。
「これはこれは…」
腹には銀のナイフが刺さっていた。
「抜けば、はるは死ぬ。放っておいても死ぬ。はるは一昨年、胸の病気になった。もう治らぬ。ならば、ここではるの命と引き換えにはるの命を買いたい。等価交換だと聞いた。しおれかけの花と咲き誇る花、老いた猫と子猫でも、等価であれば良いと聞いた。ならば、死にかけた命とあふれる命も等価であろう」
ぐぶぶぶぶぶぶふ
「なるほどねぇ。刺したのは誰?」
「私だ」
「いつ刺したの?」
ぐぶぶぶ
「数刻前だ」
「この女(ひと)はなんと言った?」
「無駄な事を、と言った」
「でも刺したの?」
「そうだ。はるを救いたかった」
ぐぶ、ぐぶぶ
「救いたかった?」
「そうだ。救いたかった。しかし今は違う。はるの命ではるの命を買って、救われるのは私だ」
あははははははは!
ぐぶぶぶぶぶぶふ!
巻き毛の声とうしがえるの声が重なった。
「大いに結構!そこまで分かってるなら、あなたのために、その女(ひと)の命でその女(ひと)の命を交換してあげる!大昔には金や銀と交換した事もあるらしいけれど、価値の変動の大きな物ではいつ損をするかわからないからね!いいとも!そのエゴイズムと僕のエゴイズムも等価だ!あははははははは!!」
ぐぶぶぶぶぶぶふ
巻き毛が下品に笑う。かえるが大声でなく。気がつけば部屋の中はじっとりと湿っていて、それは水路のような、雨のような、生臭い臭いもはなっていた。
巻き毛が棺に飛びつき、腹のナイフを引き抜いた。その傷口に、かえるが飛びついた。
磔台は動かない。
あははははははは!
ぐぶぶぶぶぶぶふ!
室内は暴風に荒れ狂い、巻き毛とかえるの声が響く。
暴風が行き届かない天井の隅に、光が映ったのは幻か…
ねぇ、お兄さま。私はもうすぐ聖なる父の元へ帰るわ。お兄さまの前からは消えるけれど、側からは離れないの。聖なる父が常にお兄さまと共にあるように、私も共にある。どうか悲しまないで。私を留めようとなど思わないで。病になれば、先に父の元へ行くのは摂理だから、それを曲げたりしないで。旅立ちを金や銀で先延ばしにすることも今はできるけれど、そんなものはまやかしでしかないの。どうか、私という呪縛から逃れて、お兄さまはお兄さまの命を生きて…
それでもはる。私はお前を愛しているよ。
「あははははははは!これで君は救われるだろうね!でも女は?腹の子は?あははははははは!」
薔薇色に蘇った女の規則的に上下する胸を見ても、表情を変えなかった。
「ねえ、命は水から生まれるんだよ。水の中で誕生して温かさの中で芽吹く。命は生臭く、じっとりと濡れていて、その誕生はけして心地よいものなんかじゃないんだ。」