読書記録「推し、燃ゆ」

推しという言葉はとても便利だ。
特定のアイドルやグループを応援するような意味合いで、○○推し、と使われていたのが最初のように思うけれど、いつしか応援しているその人という意味で見かけるようになった。

今日、Twitterはじめネット界隈においては、色々な対象への抑えきれない愛の、呟きというよりは叫びが散見される。よって、『推し』への愛について、リアルな生の声を見聞きすることができる。『推し』の推し方には色々なタイプがあると思われるが、本作の主人公は『解釈』するタイプで、推しの思考を理解しトレースして生きる上での軸(本作においては主人公の言葉で『背骨』と表現される)としている。彼女は、事件により炎上してしまう推しへさらに情熱と時間とお金を注ぎ込み、その生活は破滅へと向かっていく。

最後の方、主人公が推しの住む建物へと向かい、そこで推しのものかどうかわからないベランダの洗濯物を見て、そのリアリティに打ちのめされるシーンがある。遠い虚像で、だからこそ何とかして理解しようとしてきたけれど、現実には主人公の推しは生きていて、誰かと生活を共にしているということを実感させられるのだ。

主人公は本来、いわゆるガチ恋やストーカー紛いのファンではない。もちろん熱心ではあるが、ブログの記述から見ても、推しを冷静に観察し咀嚼し、理解しようとする様子がうかがえる(そういう、大人なスタンスで推しを推す自分に酔っているところがあるようにも感じられるが)。
他メンバーが戯れになりすました推しのツイートに、すぐ疑いのリプライを飛ばせるほど、主人公は自分の推しをよく分析している。

だが、他人を理解しようとすることは、一方的だったとしても愛情表現に限りなく近いものである。
そして、異性を殴って燃えてしまった推しを、無償の愛情を注ぐ信仰の対象とするのはもう難しいだろう。
手の届かない存在と分かっていても、心のどこかで見返りを求めてしまう部分はあるだろうし、熱量を注いだ分、喪失感を覚えるのは理解できる。

『推し』に限らず、他人への感情を生きる軸にしてしまうことは不幸な結末につながる。自らの『背骨』に他人のものを接続するのと同じだからだ。
不自然であるがゆえに、いつか負荷に耐えられなくなったとき、その部分で容易にぽきりと折れるのである。

生きる軸を失った主人公の目の前にあったのは、冷静に分析できているようで、考えないようにして目を背けてきた現実だけであった。
そういう意味では、本作は現代を舞台装置にした更級日記のようなものなのかもしれない。

推しを推すことは余暇の楽しみや純粋な活力であるべきで、立ち向かうべき現実から目を逸らす言い訳にはならない、そんなことは当たり前である。
恐らく主人公もそれを頭では理解していただろうし、本作の伝えたいこともそのようなありふれたお説教ではないだろう。

本作の特徴は生きにくい人間のありのままの生きざまがリアルに描かれているところである。ひとつひとつの描写が非常に丁寧で、学校生活の何となく閉鎖的で気怠い感じも、スマホで常に推しを追いかける様子も、変なところで頑固なゆえに生じるちょっとした生きにくさも、部分的には共感を呼び、この主人公は完全に自分ではなくとも、自分が今学生だとしたら、学年のどこかにいそう、校内ですれ違っていそうな感じなのである。

友人は好きな地下アイドルと『繋がれた』けれど(この友人がその後幸せになれたかというとそうも思えないが)、主人公に奇跡は起きない。推し以外にも多くのものを失った主人公に、このまま明日が訪れるであろうという残酷な事実。それもまた人生なのだろう。

本作の最後を希望のあるラストシーンと捉える向きもあるようだが、自分にはそうは思えない。主人公は失われた『背骨』を取り戻せず、自ら決めて背負い込んだ『業』から逃れられないまま、完全には立ち上がれず這いつくばって残りの人生を生きていくような気がしてならないのである。
ーーいや、更級日記の菅原孝標女の晩年のように、絶対に燃えない『推し』を推せるものーー宗教に傾倒する可能性なら、あるかもしれない。
(いずれにせよ、人が立ち上がって生きていくには、『背骨』が必要なのだ)


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