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なぜ暴走するトロッコは誰かが死ぬまでとまらないのか? トロッコ問題の利用法



トロッコ問題がX(旧ツイッター)ではしょっちゅうトレンド入りしていて驚きです。

この思考実験が有名になったのはサンデル白熱教室の影響でしょう。

サンデルの著作の中でもとりわけ売れた

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『これから正義の話をしよう』早川書房 2010年

でもトロッコ問題は論じられています。しかしこの本でトロッコ問題について論じられているのは第1章の32-35頁。本編10章345頁のうちのたった4頁。導入でちょっと触れられてるくらいの話なのです(2011年文庫版だと本編419頁中の41-46頁が該当)。

サンデルはトロッコ問題を広めるために哲学をしているわけではないし、この本も全体が啓発的です。トロッコばかり有名になっていて私は残念です。

それはさておき、やたら話題になるトロッコ問題ですが、そもそもどういう文脈で問題になるのかさっぱり分からない方もいると思います。

まあトロッコの暴走なんてあまり目にしませんし、ふつうは両方が助かる第三の選択肢を探すべきですし、変な問題だと思う向きもあるでしょう。

サンデル自身も「トロッコ問題のような架空の物語は行動指針として不完全なものしか提供しない」という趣旨のことを書いています。ならば尚更なぜトロッコは人が死ぬまで暴走してるんだということになりますね。そこでサンデル本を読んだ経験のある私なりに解説をしてみます。

なおトロッコ問題の提唱者はフィリッパ・フットという哲学者なのですが、オリジナルの議論には詳しくないので、サンデル本の記述をベースにして書きます。


1 あえて道徳的なジレンマを創り出す


なぜトロッコ問題という思考実験をとりあげる学者がいるのか? 

その主な理由はトロッコ問題が道徳的なジレンマを浮き彫りにしてくれるからです。私たちの倫理的な判断は案外一貫した観点に基づいていないかもしれないと疑問をなげかけ、具体的にどうねじれているのかを分析する手掛かりになってくれるのです。

ではそうした視点でトロッコ問題をみてみましょう。

サンデル本で触れられてるトロッコ問題は三パターンあります。SNSだと一パターンしか言及されないこともありますが、少なくとも二つはセットで考えた方がジレンマを体感できます。本記事では二つみてみましょう。

事例1〈スイッチを押すべきか〉
あなたはトロッコの運転士だ。前方線路上には5人の作業員が立っているが、ブレーキがきかない。スイッチを切り替え待避線に入ることもできるが、そちらにも1人の作業員がいる。あなたはスイッチを押さなければ5人を、スイッチを押せば1人をひき殺すことになる。このスイッチを押すべきだろうか?

この問いに対しては、大多数の人が〈スイッチを押すべき〉と答えます。

問題はここからです。なぜスイッチを押すべきなのでしょう? 

おそらくすぐに思いつくのは「5人を殺すよりは1人を殺す方がマシだから」という理由づけです。もっと抽象的に考える人ならば、「そもそも幸福を最大化する行為こそが正しい行為であり、この事例で選べる行為のうちで幸福を最大化するものは(生じる不幸が最小だという意味で)スイッチを押すことだから」とでも答えるかもしれません。

しかし、実はこう答える人たちに揺さぶりをかけるのがトロッコ問題の本領です。「5人を殺すよりは1人を殺す方がマシだ」「幸福を最大化する行為こそが正しい行為だ」といった観点はどんな場合でも通用するのでしょうか? 一見しそうにもみえますが……。


事例2〈歩道橋から突き落とすべきか〉
あなたは歩道橋の上から線路を見下ろす傍観者だ。あなたはトロッコが制御を失い、5人の作業員をはねる寸前であることに気づく(待避線はない)。あなたの隣には見知らぬ太った男(※)がいる。この男を線路から突き落とせば、その男は死ぬが、トロッコは止まり作業員5人は助かる。あなたは男を突き落とさなければ5人を、突き落とせば1人を殺すことになる。男を突き落とすべきだろうか? なお、あなたはあまりに小柄で、自ら飛び降りてもトロッコは止まらないとする。

※ 「太った男」と体型を持ち出すのが無礼だからか、「重いバックパックを背負った男」とされるケースもある。


いらすとやは何でもあるなぁ


この問いには、大多数の人が〈男を突き落とすべきではない〉と答えます。

でもなぜでしょう? 

「5人を殺すよりは1人を殺す方がマシだ」「幸福を最大化する行為が正しい行為だ」という先ほど示した観点からいえば、男を突き落とすべきという判断になりそうですが。

先ほどの観点の方が間違っていたのでしょうか? それとも「男を突き落とす」という行為の生々しさが私たちの倫理観を曇らせているのでしょうか? 

事例2で〈男を突き落とすべきではない〉と判断した理由を尋ねられたなら、どう答えるでしょう。「多くの人を救うためであれ、無実の人を殺してはならないから」と言いたくなるかもしれません。しかし、先ほどの事例1で出てくる1人の作業員だって無実の人です。この答えをするなら、なぜ事例1と2で判断が変わってしまうのでしょう?

もしも事例1の〈スイッチを押す〉という判断は「5人を殺すよりは1人を殺す方がマシだ」との観点で正当化し、事例2の〈男を突き落とすべきではない〉という判断は「多くの人を救うためであれ、無実の人を殺してはならないから」との観点で正当化するというのなら、私たちの倫理的判断は一貫した観点からはなされていないことになりそうです。では、私たちはケースごとに都合のいい観点を持ち出しているのでしょうか……? そんなことでよいのでしょうか……? もっと考えるべきではないのか、と思ったのならば倫理学のはじまりです。

いずれにせよ、事例1と事例2が合わさると、私たちはいくつかの道徳的なジレンマに直面します。このジレンマによって、私たちは倫理的な判断が一貫した観点に基づいているとは限らないと気づかされます。事例を少しずつ変えていけば、どんな要素が倫理的判断に影響を与えているのかを知る手掛かりになることでしょう。

なお、事例1で〈スイッチを押すべき〉と答え、事例2で〈男を突き落とすべきではない〉と答える傾向は、世界的にみられるとのことです(サンデル本のものとはやや事例が違いますが)。

世界的にみられる心理傾向だというのなら、トロッコ問題は普遍的な倫理を考える際にも参考になりそうです。

トロッコ問題について論じられる点はまだまだあります。例えば、「多くの人を救うためであれ、無実の人を殺してはならないから」という観点を一貫させ、事例1では〈スイッチを押すべきでない〉、事例2でも当然〈男を突き落とすべきでない〉とする人もいます。5人を見殺しにしていますが、本当はこちらの判断こそが正しいのかもしれませんし、そうでないのかもしれません。理解を深めるには議論が必要です。

このように私たちの思考は揺さぶられ挑戦を受けるわけですが、それは道徳的なジレンマに直面したからなのでした。全員助かる可能性があると、こうしたジレンマに焦点が当たらないのです。だからあえてトロッコは止まらず、誰かを犠牲にする他に選択肢がないのです。

もちろんこれらトロッコ問題は倫理的な問題のごく限られた側面に光を当てているだけです。倫理学が常に誰かの血を求めているわけではありません。

とはいえ「倫理の世界にも難問があるのだよ!」と分かりやすく示してくれていますので、倫理学の授業の導入には使いやすそうです。だからサンデルも第1章のうちの4頁ほどの分量を割いたのでしょう(邦訳単行本換算)。

……しかし記事冒頭にも書いた通り、サンデル本は興味深い議論がばんばん出てくるのでトロッコ部分ばかりが取り上げられるのは私としては残念に思っています。

2 トロッコ問題とその答えは行動指針を与えてくれない


これもこれで重要な点なのでしっかり触れておきます。SNSで毎度つっこまれている通り、トロッコ問題は現実に生じている倫理的な問題とは似ていません。なにせ事態がどう展開するかがはっきりと分かっていることになっているのですから。

サンデル当人もこう言っています。

路面電車の物語のような架空の例では、われわれが実生活で出会う選択につきものの不確実な要素は取り除かれている。ハンドルを切らなければ――あるいは男を突き落とさなければ――何人死ぬかが確実にわかっているとされているのだ。そのため、こうした物語は行動指針としては不完全である。

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『これからの正義の話をしよう』早川書房 2010年 35頁
文庫版 2011年 45頁


サンデルは「行動指針として不完全」という表現に留めていますが、私は「基本的に行動指針にはならない」とまで言ってしまっていいと思います。

実際、トロッコ問題に取り組む際は次のような事態を確実視しないといけません。

・トロッコの暴走を止める手段はない。
・作業員は誰もトロッコの接近に気づかず、轢かれて死ぬ。
・橋の上にいる男は線路に突き落とすことができる。
・線路に突き落とした男は死に、トロッコは止まる。
・自分は小柄なので線路に飛び降りてもトロッコは止まらない。
・以上諸々の事実を自分は確実なこととして知っている。

決めつけすぎでしょう。複雑さと細部に満ちた現実の問題に直面したときに、こんなにものを決めつけていては救える命も救えません。それこそ現実にトロッコ問題のような状況に出くわしたときには、どちらも救える第三の選択肢を模索することこそ倫理的な態度だと思います。少なくとも、いきなり「1人か5人か?」などと思案しはじめるのは考えものです。

またトロッコ問題に取り組んだだけで倫理問題全般の答えが手にはいるわけではありません。まずトロッコ問題に正解があるのか、あるとして何なのかはっきりしません。仮に正解が分かったとしても、その答えが他の事例で通用するとは限りません。倫理的あれこれを解き明かしたいというのならば、トロッコ問題以外にも考えることが山積みです。

加えてトロッコ問題のような「極限事例における究極の選択」ばかりを考えていると、「倫理的な問題に正解はない」という早まった結論を下しがちになるかもしれません。

しかし実際には様々な倫理観をもつ人々が共通に正しいと認めていることもあります。例えばトロッコ問題で見解が対立している人たちでも、「仮にトロッコの暴走をちょっとした工夫で止められるのならそれこそが望ましい」ことでは一致するでしょう。幸い現実の問題に関してはこういう工夫の余地が色々あります。それこそ社会を良くしようというなら、切迫した状況にパニックを起こしているであろう個人の選択の倫理性を論じるよりも優先してすべきことがいくらでもあるのです。


まとめ

トロッコ問題で、トロッコが止まらず、作業員が棒立ちで、一人以上は死ぬ定めだと決めつけられているのは、だからこそ道徳的ジレンマが浮き彫りにできるからでした。道徳的なジレンマを考えることは、私たちの倫理的な判断・観点を反省してみるとき、よい道具になります。

しかし現実の問題を解決するときにまず求められるのは、その種の思考実験を道具に倫理の本性を解明することではなく、目の前の問題を首尾よく解決することです。思考実験のときのような状況の決めつけはしばしば有害でしょう。

ある目的に役立つからといって、どう使ってもいいわけではないのです。包丁は料理に仕え、人に向けるなみたいなもの。トロッコ問題は用法用量を守って使いましょう。


つけたし トロッコ問題の極限状況をリアルにありありと想像しようとすると酷く苦痛ですが、私はその苦痛を負うことに意味はないと思います。この思考実験は極限状態でのリアルな人間心理を知りたいという趣旨でなされてはいません。〈あなたはどうすべきか〉とは問われますが、感情移入はほどほどにして、ニュースを聞いたときのような第三者目線で、それどころか小説を読むような目線で答えるのでも十分だと思います。それでもジレンマがあることは分かるので。


【参考文献】

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『これからの正義の話をしよう』早川書房

単行本版

文庫版


トロッコ問題は第1章「正しいことをする」で出てきます。10年以上前の本ですが、幅広い論点について原理的なところから考察しているので、今でも大いに読む価値ありだと思います。私はたまに読み返しています。全体として「倫理とはそうそう単純なものではないぞ」「でも合理的に思索を深めることはできるぞ」と訴えかけてきます。

第2章以下の内容はこんな感じ

功利主義(第2章)、リバタリアニズム(第3章)、市場倫理(第4章)、カント主義(第5章)、平等主義(第6章)、アファーマティブアクション(第7章)、アリストテレスの徳倫理(第8章)、共同体への忠誠(第9章)、正義と共通善(第10章)

はじめて私がこの本を読んだときに特に印象に残ったのは、功利主義を扱う第2章。

高校生頃までの私は、おおよそ「価値とは幸福である」「倫理的に正しいこととは幸福が最大化されていることである」「幸福を最大化する行為こそ倫理的に正しい行為である」と考え、この考えを応用すれば倫理的な問題は解決するはずだ、問題は単純なのだ、と思っていました(ここまで小賢しくシンプルに言語化してはいませんでしたが、大筋そんな感じ)。

いわば功利主義の一種ですね。しかしこの章を読むと、「功利主義は確かに魅力的なのだが少なくとも理論的にはかなり洗練させないとダメそうだなぁ」と実感しました。









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