KYバンド
起
「Nくん! Nくんはいないか!」
工作場で作業をしていたN氏は、突如、研究所内に響き渡った大声におどろいて、手にしたカッターナイフで指先を切ってしまった。「痛っ」切り傷からじわりと血が滲んでいく。
「Nくんは……ああ、ここにいたのか。探したのだぞ!」
傷の具合を確認しているN氏を見つけたS教授は、早足でそばへ駆け寄った。何かを伝えようとするのだが、ゼイゼイと息を切らしているので思うように声が出ない。
「なんですか先生」N氏は恨めしい視線をS教授に向けた。
息を整えたS教授は、教え子の指先から血が出ているのを見つけて、口ひげをなでた。
「ふむ……その傷はどうしたのかね?」
「どうしたもこうしたも、先生のガチョウのようにやかましい大声に驚いて切っちゃったんですよ」指を突きつけるN氏。
「それは災難だったな。次から耐切創手袋をつけて作業をしたまえ」
「それは、まあ……はい、そうですね」
思わぬ正論を返されてN氏は面食らった。分が悪いと悟り、納得していない表情のまま、とりあえず傷の処置をすることにした。といっても、消毒液を雑にかけてバンドエイドを巻いて終わり。
「研究所内で僕の名前を大声で呼ばないでくださいよ。いつも言ってるじゃないですか」
「きみを探すにはこうするのが早いからな。時間は有限で貴重なものなのだよ。──それより、早速だがこれを見てくれ」
バッ! と、突然S教授は白衣の前を勢いよくあけた。
白衣の下には、現場作業用の紺色の作業着をきちんと着ていた。そして、腰に腹巻きのように見えるバンドを巻いていた。バンドは黄色と黒の線が交互に引かれていてとても目につく。
「露出狂の真似ですか? なかなか上手だったと思いますよ」
「何を馬鹿なことを言っておる。ここだ、これを見なさい」
ポンポンと腰を叩くS教授。眉間にシワを寄せるN氏。
「ベルトですか? それにしては大きいですね。なんで服の上から巻いてるんですか? とうとうボケちゃいました?」
「……きみは時折本当に失礼なことを言うねえ。まあいい。見ていなさい」
S教授はそう言うと、先程N氏が使っていたカッターナイフを手にした。カチカチカチと刃を出し、もう一方を手のひらを作業台にのせた。N氏は素早くかつさり気なく作業台の向こう側に退避。
「一体何を……」
「セイッ!」
S教授はかるい掛け声と主に、自らの手の甲めがけてカッターナイフを振り下ろした!
承
カッターナイフの刃がS教授の手の甲を貫く直前、彼の腰から「ぴーぴー」と甲高いアラームが鳴り、同時に彼の動きもピタッと停止した。
刃は手の甲から1センチも離れていない位置で停止。あっけにとられるN氏もまた動かず、ただことの成り行きを眺めている。
アラームはきっかり十秒で止んだ。硬直の溶けたS教授は刃を手から遠ざけ、手が切れていないかを確認し、満足そうにうなずいた。
「見ていたかね?」と、S教授は言った。
「はい」
「どうかね?」
「え? どうと言われましても……流石に背筋がヒヤッとしましたよ」
「それだけかね?」
そう聞かれてもN氏は眉をひそめるだけ。S教授は口ひげを撫でて一言。「ふむ、きみは鈍いな。それでは優秀な研究者にはなれないぞ」
ムカッとしたN氏は「それでは、先生は良い研究者なんですか?」と思った。そして、そのまま口に出した。
返ってきた答えは「いずれきみにもわかるだろう」だった。
S教授は刃を戻したカッターナイフを作業台に置いて、腰のバンドをあちこちいじり始める。N氏はカッターナイフを確認したが、やはり新しい血痕は付いていない。バンドいじりを止めたS教授がN氏に向き直った。
「さて、本題に入ろうか。きみも見ていたように、私はカッターナイフを勢いよく振り下ろした。しかし、刃は手に刺さる直前で停止した。正しくはカッターナイフを握っていた私が、だ」
「そうですね」
「それはなぜか。私の意思で止めたにしては不自然な動きではなかったか?」
「……つまり、その腰のバンドがそうさせたと?」
「半分正解だ」S教授はバンドを腰から外して作業台に置いた「見たまえ」
N氏は、バンドを手にとって色んな角度から観察した。
バンドは長さにして一メートル程度。ベルトというよりも腹巻きやコルセットに似ている。しかし、大きさの割にはかなり軽い。素材は革ではなく鋼。N氏が試しに力を入れると、革ベルトのように簡単に曲がった。よく見ると、一定間隔で小指の先よりも小さいカメラのレンズが埋まっている事に気がついた。そしてバンドの裏側には『KYバンド』とデカデカと書かれていた。
「KYバンド? もしかしてこれの名前ですか?」
「そのとおり! これで、もう理解したのではないか?」
「まあ……理屈はわかりませんが、このバンド──」「KYバンドだ」「……このKYバンドが危険を予知というか察知して先生の動きを止めた。そう言いたいんですね?」
胡散臭そうな表情でS教授を見るN氏。S教授は謎の溜めを作り、
「そうだ! それがこの装置のすごいところなのだよ!」
と、大声を上げて両手で作業台を叩いた。振動でカッターナイフが作業台から落ちた。N氏はサッと動いて無言でカッターナイフを拾った。S教授はそのままリズムを刻むように作業台を叩き続ける。すると、次はKYバンドが落ちた。N氏は小さく舌打ちをしてバンドも拾った。
両手の埋まったN氏は、隣の作業台に移動してS教授は教授が落ち着くまで自分の作業を続けることにした。
◆
「よし、きみも気になっていることだろうし、そろそろ種明かしといこう」
およそ十分間リズムを刻み続けていたS教授は、KYバンドを腰につけ直して、作業台の上に登った。そして、わざとらしい咳払いを一つ。
「このKYバンドはだな……」一旦言葉を切り、たっぷり二十秒溜めてから、
「なんと、使用者が災害につながる可能性のある行動をした時、アラームが鳴り、同時に使用者の筋肉に微量の超特殊電流を流して、使用者の動きを強制的に十秒間止めてしまう装置なのだよ!」
と一気に言い切った。
「へぇ……」N氏は作業の手を休めずに相槌を打った。
「しかもだ、このKYバンドは自己学習をするのだ!」
「へぇ……」
「つまり常日頃から装着しておけば、KYバンドの危険予知力はどんどん向上する。結果、使用者の安全がより確保されるというわけだ!」
「へぇ、すごいですね……よし、できた」
作業を終えたN氏は、完成品のできの良さに少しだけ口角を上げた。
「Nくん、真面目に”聴”いていたかね?」
「”聞”いてましたよ」と言ってからN氏はあくびをした。
「それならいいんだ」
S教授は作業台から飛び降りようとした。すると「ピーピー」とアラームが鳴り、彼は硬直した。十秒後、彼は作業台に手をついてよっこらしょ通りた。
「机から飛び降りたら足をひねる可能性があると判断したのだろう。うむ、初日だと言うのにこの感度、上出来だ」
満足そうなS教授。その様子を横目で見ていたN氏は、おもむろにカッターナイフを手にして、刃をほんの僅か出した──たとえ刺さっても軽症で済む程度に。そして、ゆっくりと立ち上がると、
「先生」
「ん、なん──」
ゆっくりとだが、カッターナイフでS教授を刺そうとした。まるで、ケーキを切り分けるかのように淡々と。
突然の身の危険にS教授はたいそう驚き、「のわっ!」と叫び声を上げて背中から倒れた。一方下手人はというと、ただ刃を戻して作業台に置いてから、
「大丈夫ですか?」
と言っただけだった。もちろん手を差し出したりはしない。
S教授は「いたた」と背中をさすりながら立ち上がった。その時、N氏から若干距離をとった。彼がカッターナイフを持っていないことを確認すると、一歩だけ詰め寄った。一歩だけ。
「な、な、いったい何のつもりだね!? きみは私に何か恨みでもあるのかい?」
「恨みはありますけど、今のはただ試したかっただけで」
「試し?」S教授は首を傾げた。
「ええ」N氏はうなずいて言葉を続けた。「そのKYバンドが先生の使用者を見ていることは分かりました。なら、外からの危険にも反応するのかと思いまして」
「なるほど……いや、そういうことはやる前に聞きたまえ」
「次から気をつけます」悪びれた様子のないN氏だが、ふと思いついたように「ところで、なんでそんなものを作ったんですか?」と聴いた。
S教授はピンと背筋を伸ばして質問者を見た。
「ふむ、良い質問だ。ところでNくん、きみはこの研究所内で起こる災害について考えたことはあるかな?」
「前も同じようなことを言ってましたね。たしかここ最近、研究所で災害が増えてるとかなんとか」
「ほう、よく覚えていたな。そのとおりだ。そして現在もまだ、この研究所内での災害数は上昇傾向ある。このままではいずれ致命的な災害が起きてしまうだろう。そこで、この状況を打破するべく委員会で話し合いが行われた。その結果、私に白羽の矢が立ったというわけだよ」
N氏は人選ミスだろうと思ったが口に出さなかった。
いつの間にかS教授はレーザーポインターを手にしていた。そして講義をの時によくやるように、右に左にウロウロと動き始めた。これは長くなると察したN氏は身近にある椅子に座った。
「私は考えた。災害を減らすにはどうすればいいか。指差し呼称の徹底? 保護具着用の徹底? ルールの厳格化? 罰則の強化? ノー、効果があったとしても一過性のものだろう。所内の危険箇所を全て洗いだして対処? ほんのわずかな段差で躓いて骨折することを想定して、安全のために全面にマットでも敷く? ナッシングだ。そもそも予算が下りない」
「災害が起きた後の被害を抑えようとするのはどうですか?」とN氏が口を挟んだ。
「委員会はいい顔をしないだろうな。それに──」
自分の世界に入ったS教授はあーだこーだと演説を続ける。N氏は部屋の隅にあるコーヒーメーカーで熱いコーヒーを入れた。その時、淹れたてのコーヒーは火傷のリスクがあるなと頭に浮かんだ。
席に戻ると、S教授は作業台の上に立っていた。彼の癖だ。
「──とういわけで、危険動作を第三者が強制的に止めることによって、効果的に災害を減らる事ができると考えたわけだ! しかし、そこで新たな問題が発生する。その第三者をどう決めるかだ。資格の有無? 講習会を開いて受けた者にまかせる? いっそ筆記テストでも行うか? 実技はどうだ。見てる分には面白いだろうな。それとも──」
カツカツと作業台の上を歩き回るS教授。レーザーポインターの光が天井に床に壁に走る様子を黙って眺めるN氏。
「──そして!」S教授は歩き回るのを止め、ビシッとN氏を指差した。「私はこのKYバンドを発明したというわけだ。今はまだこの一本しかないが、じきに所員全員に行き渡る分が作られるだろう──もちろん、きみの分もだ。何か質問はあるかね?」
「はい」N氏が小さく挙手をした。
「なにかな?」
「なぜ、バンドなんですか?」
S教授は腰をポンと叩いて言った。
「ちょうど腹巻きが欲しかったのだよ」
「なるほど」
◆
翌日からS教授は常にKYバンドを付けて過ごしていた。なので、事あるごとに腰から「ピーピー」とアラームが鳴った。いつしか彼は『ウルトラブルマン』と影で呼ばれるようになった。S教授はトラブルを起こすことで有名なのだ。
N氏はN氏でそんなS教授を気にかけることもなく、いつもどおりの日常を送っていた。
ある日の昼休み、N氏が屋上の開放スペースで『ゴロッと具沢山カレーパン』を食べていた時、どこからか例の「ピーピー」音が聞こえてきた。耳を澄ますと、南の方角からのようだ。N氏はそちらの方へ向かった。そして、低い柵から身を乗り出した。
そこで見たのは、研究所正面扉の前、三段しかない階段の前で固まっているS教授の姿だった。しばらくすると、教授は階段の端にあるスロープへ向かった。老人にとって階段は危険なのだろうとN氏は思った。そして、すぐに興味をなくして、昼休憩に戻った。
転
春の終わりが近づいてきたある日の深夜。そこそこ大きな地震がN氏の住む辺り一帯で発生した。
多くの住民が目を覚ました。慌ててガスの元栓を確かめる者、SNSに書き込む者、我関せずと二度寝する者。行動は千差万別だった。
N氏はというと、地震に気が付かず寝続けていたのであった。
翌朝、本棚からたくさんの本が落ちているのを見て、N氏は寝ている間に地面が揺れたのを知った。
ぶつくさと文句を言いながら、スマホで情報収集をしつつ本を片付けていると、震源地は研究所の近くだと知った。
今日一日は片付けで忙しそうだと思い顔をしかめた。
彼の予想通り、研究所内はしっちゃかめっちゃかになっていた。カップ、ニッパー、書類の束、軍手、保護ゴーグル、ボルトにナット、モンキーレンチ、研究用イグアナ、ウェス、カッターナイフ、ペットボトル、など研究所内であるありとあらゆるモノが散らばっていた。
「まるでフリーマーケットだ。先生はまだ部屋かな?」
N氏は落ちているモノを極力踏まないように注意して、S教授が寝泊まりしている部屋へ向かった。
部屋には問題なくたどり着いた。扉には『就寝中』と書かれた看板が貼られていた。
N氏は、まずはいつもどおり扉をノックした。勝手に扉を開けるとS教授はとても不機嫌になるのだ。
五回ほどノックをしたが返事は帰ってこなかった。
「先生、おきてますか? Nです」
返事は帰ってこなかった。N氏は訝しんだ。どこかにでかけているのだろうかと思った時、
「だれか……」
「ピーピー」
N氏にとって聞き覚えのある声とアラームが耳に飛び込んできた。
「ん?」
N氏は扉を睨んだ。まるで扉の向こうを見透かそうとしているかのように。アラームが止んだので、次は慎重に扉をノックした。
「たすけ……」
「ピーピー」
またしても声と音。
「先生、開けますね」
N氏は扉を開けた。
室内は、廊下と同じぐらいひどい有様だった。いや、S教授が発明した数々のガラクタがある分、被害はひどいように思えた。
そして部屋の中央に敷かれた布団の上で、S教授が仰向けになっていた。しかし、何やら様子がおかしいとN氏は気がついた。
彼の周りには数々の発明品が転がっていた。それらには、鋭利な角やむき出しの導線が付いている。さらに彼の頭上には、大型グラインダーが付いている機械が覆いかぶさっていた。グラインダーは高速回転しており、うっかり触れようものなら即座に大怪我してしまうだろう。
「先生、大丈夫ですか?」
N氏は発明品を脇にどかしながら進み、S教授の脇にしゃがみこんだ。すると、S教授が目だけを動かしてN氏を見た。
「なんですか?」
視線がN氏とグラインダーを往復した。
「これの電源を切ればいいんですか?」
視線が上下に動いた。
「分かりました」
N氏は立ち上がり、注意を払って発明品を観察した。赤色のボタンはすぐに見つかった、それを押すとグオォンと動力が切れる音がした。装置が完全に停止するのを待ってから、
「これでいいですか?」と訊いた。
「ありが……」
「ピーピー」
「ダメみたいですね。やれやれと」
周りに転がっている発明品もどうにかしないと結論付けたN氏は、入り口脇の棚から牛革手袋と保護ゴーグルと、ついでに防塵マスク身につけ、手当たりしだいに片付けを始めた。
結
「いや、まいったよ。まさか起きたら身動きが取れなくなっているなんてね。きみが来てくれなかったら危なかった。感謝する」
あの後、N氏が発明品を一通り片付けたおかげで動けるようになったS教授は、真っ先にKYバンド取り外した。全身が痛むようでしきりに痛い痛いとつぶやいていたが、S氏の淹れたコーヒーを飲み干した頃には元の元気を取り戻していた。
事の顛末は『深夜の地震によって移動した発明品がS教授を取り囲み、KYバンドのセンサーに引っかかった』というものであった。N氏はそれを聞いた時、思わず「アホですね」と本音を漏らした。
「しかし今回の件でKYバンドの問題点が浮き彫りになった。これは大きな一歩だよ」
運が悪ければ餓死していた可能性もあったというのにあっけらかんとした調子のS教授に、N氏は疲れの色濃い表情を向けて言った。
「そうですね、次に作るガラクタには安全装置をつけなきゃいけませんね」
~終~
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