ネットワークは手段にすぎない

ネットワークとは何か。ネットワークとは表示の接続性についての媒体である。

SNS、ネットワークにより、言論(言論以前の程度の低いものも含め)、広告、と言うものはそれ以前と比べて、はるかにその表示の接続性の可能性を高めた。

これは何を意味しているのか。
ネットワークが変えているのは、媒体であり、表示である。ある記号の伝達速度が最高にまで達している。

ある有名人が愛用しているアクセサリーやファッションも、それが表示されればたちまちその表示圏内に伝達される。その有名人に対する敬意が、権威となり、そのファッションへの欲望―というものを資本主義的広告として生成する。

ここでわかるのは、変わっているのは接続可能性「のみ」が変わっている。ということである。これは、途轍もない事でもあれば、なんでもない事でもある。

有名人のファッションのような信仰対象というものは、ネットワーク前から存在していたし、その文化圏内の出来事であれば伝達というものもさほど変わらない。

文化の常識。憧れの先輩の立ち振る舞い。家族、職場の出来事。

そのフィールドでの経験に限定されていたものが、あるいは新聞、雑誌、広告的に製造されたものが、噂話、言論、主張、日記、鬱憤、といった形で爆発的に双方向的に接続されるようになった、という事である。

しかし、受信の媒体の主流派は個々のモバイルで、その受信範囲は、百鬼夜行の総体ではなくその本人の興味に応じた「検索」である。

受動的であるより主体的である検索は、テレビの発信のような画一性と比較して多様的である。

だが、検索して表示される情報は、資本主義的に生成されたものであり、ある種のセールストークである。あるいは羨望を目的とされ誇張されたライフスタイル(それもまた広告)、あるいは生成過程がブラックボックスの主張の断片。ショペンハウアーが言うような、すぐに現れてすぐに消え去る三文ライター。

多様的である、と言うことはそれだけでは良い事を意味しない(抑圧より良い事であることは確かである)。マーケティングは怠惰を許容する言葉を使うメディアとして現れる。その結果知性と言論がマス層に引き下げられる。

ニーチェが本当に批判したのはキリストではなく俗物としての「群畜」である。その構造の根源としてのキリスト教。神は死んだが、後任の神がまだいる。八百万の神々。変わらない心理現象。何が変わっていると言うのか。マキャベリズム、孔子、労働と金銭。

変わったのは手段でしかない。その可能性のもたらす物質的変容は大きい。私の今書いているこの文章が伝達されるのも手段の進化の賜物であり、人間がライオンより強いのも、手段がより優れているからである。

しかし核爆弾を見てわかるように、手段はそのものは価値に直結はしない。ましてや目的でもない。手段は目的と価値、審美眼に従属する。

ネットワークとは、そのうちの手段にすぎない。

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