見出し画像

私は彼を模倣する。

「模倣」について考えるきっかけになったのがヨルシカの3rd Album「盗作」である。

音を盗む泥棒を主人公とした男の破壊衝動を形にしたコンセプトアルバムで、初回盤には小説「盗作」を含めた書籍型の装丁となっている。小説「盗作」は「盗作」と「模倣」という行為を対照的に置いた芸術論、ないし音楽論が語られている。

ヨルシカの作曲者、n-buna(以下ナブナ)は常々12の音階の中で生まれるドレミのパターンなんぞ出尽くしている。新しいと思って生み出されるメロディもコードも全て既に誰かが作ったものだと。しかも、楽曲がパクリだろうが、楽曲がどんなものに使われようが価値は変わらず美しいと。

先日、放送内では

「ベートーヴェンが人を殺してたって月光ソナタは美しいだろう?」

と呟く。

これが彼の思想だった。

随分惚れ込んだ。全部彼の言う通りだと心底思う。

これは、影響されたのもあるが、某ロックバンドのボーカルが不倫したことが話題になった数年前、盗作がまだ発売されていない時だ。私はその時から不倫してようが彼の音楽は最高に変わりないと自分だけは好きでいようとそう思ったことがあった。

しかし、彼は「表現方法までは出尽くしていない」と言う。

「メロディだけでなく、歌詞や楽器や構成のような複合的な要素が組み合わさった中で偶発的な美しさがそこに生まれると思っている。」初回盤に同梱された小説も新しい組み合わせだろう。


アルバムに収録されている楽曲と小説で語られる「模倣」とは、特に思い入れもなくなされる「盗作」とは違い、誰かに憧れ、触発されて行うことであり、それは芸術体験において決定的に重要なものだと考えられる。「ああなりたい、こうなりたい」という思いから模倣に踏み出すような経験こそが本当の芸術であり、音楽であり、それが心の穴を埋める、と彼は考えている。


別視点から見てみる。脳科学において「模倣」とは「他者の運動を見てそれと同じ運動を行うことである。ヒトに普遍的に見られる文化的行為であり、観察学習の一方法として捉えられることもある一方、ヒトは無目的、あるいは遊びとして模倣をすることもある。」とされている。

他者の行為の結果のみを真似するというレベルからそれに至るまでの過程も含めてコピーするというレベルまで含み得ることから、模倣は非常に曖昧な概念であると言われている。

まさか「普遍的に見られる文化的行為」と定義されていることには驚いた。しかしそれは一般的に「模倣」=「パクリ」と考えられているからなのかもしれない。幼い頃からカンニングが悪であることが大前提のもと、人の真似やおうむ返しなどの類も悪として扱われてきたように思う。

義務教育の理念には「個性」とか「独創性」とかそんな言葉ばかりであった。そう言っておきながら協調性を身につけることを強制し、はみ出しものはいじめられ大人からも見捨てられるのが一部の子どもたちの運命であるではないか。


「鬼滅の刃」だって一人の少年が家族、友人思いで自分に厳しく人には優しく悪に恐れず立ち向かうなんて設定の主人公はこれまでに死ぬほど生み出されてきた。でもどうだ。「鬼滅の刃」は面白いじゃないか。

「似ている」も「パクリ」も「真似」も「模倣」も「オマージュ」も「盗作」それらは全て言葉が弊害を生み出しているだけで、オリジナルと価値は何も変わらないはずだ。

そこにあるのは、作品の美しさだけである。

だから何かとそれを真似た何かの間に区切り線など必要ない。芸術は全て同じ土台の上にあると考えるべきだ。

模倣は非常に曖昧な概念だろう。他者の何を盗むか、どこをどんなふうに盗むか、幅が広すぎるからだ。そう考えるとオリジナリティが何か、なんて問いは愚問かもしれない。

なぜなら、自分が自分の手で編み出したもの全ては、他人の生み出したものと同じ価値だからだ。そうあるべきだからだ。

そうでない今の世の中は何かを生み出す全てのアーティストにとっては息が詰まる場所だろうなと思う。


模倣の定義付けは難しい。誰にもできないかもしれない。

しかし、模倣がパクリではないということだけは断言したい。

そして強いて言うなれば、ナブナの思想を自分に取り込みたい。

彼の生み出した作品の中の人物のように生きて、同じような最期を迎えたいと思う。

私は、彼と彼の作品を、模倣する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?