見出し画像

Aiアートから始まる、アイデアの共産主義革命と人類の末路。

 ※Aiネタはもう飽きたので、最後に話を纏めておきます。Aiが絵を描くようになったので、主にその件と、関係してくる諸問題、人類の末路について。

⚠️悲観的な内容に見えますが、あくまで現実を述べているだけです。状況把握できないと何もできないので。僕が喋る理由は、人間に誇りを取り戻してもらいたいと思う前向きな理由からです。   _______________________________________  

 
 自分はヒューマニストだからこそ、人間を過大評価していない。人間がいなくなったところで、別に誰も困らない。

 Aiが台頭する、来たる社会の中で、人間の役割を探せ!みたいなテーマを最近良く目にするけど、自分は、そんな疑問を持つこと自体が思い上がりだと思っている。九九も出来ない人が、数学オリンピック日本代表チームの中で、自分がやれることを探そうとするくらい無茶な話だ。できることなんて、せいぜいお茶汲みと身の回りの世話くらいだろう。

_______________________________________    


 よく楽観的な哲学者とかは、人間の感性をAiが上回ることはないから、人間はAiにできない情緒的な表現をしていれば良いとか、シナリオや元になるアイデアを考えれば良いとか言うのだけれど、人間がアイデア造りの優位性を保つことができるという話は、あくまで机上の理論だ。

 現実的には、その一生懸命捻り出された誰かの情緒的な表現だって、Aiによって瞬く間に学習される。

 効率化だけが重視された現代において、既にAiなんか登場するまでもなく、誰かのアイデアなんて、運動量と無神経さだけが取り柄の逞しい人達に、ポンポンパクられているのに、その絶望が更に加速する。
 今まで2、3年で食い潰されていた天才達の感性が、2、3日で食い尽くされるようなイメージだ。
 
 ある程度時間や心に余裕があるからこそ、他人の人生を敬ったり、自分の良心と向き合ったりすることができるのに、人間の手に負えないほどの合理化がこれ以上進んだら、そんな悠長なことは言っていられなくなるので、個人の人生や、才能や努力といった概念の価値がますます軽くなっていくだろう。

 そしてこれが一番の拗れるポイントなのだけれど、技術を享受する側の話としても、現実には、絵なんて書けない人の方が多いのだから、そういう人達にとっては、「こんな私でも想いが形になるなんて!」って喜ぶことになるので、一時的には、社会的意義のある革新かのような雰囲気と共に盛り上がりを見せるのかも知れないが、その束の間の感動と引き換えに、アイデアを生み出せる人間達の人生が食い潰されながら、全ての間を取ったような、似たり寄ったりの表現で世の中が溢れかえるだろう、今以上に。
 そして人間の存在価値そのものが、日常の感動と共に失われていくことになる。
もちろん、気がついた頃にはもう手遅れだ。

 やる気のない奴らを甘やかすだけの優しさなんて、絶対に社会に必要ない。そんなに絵が描きたいのであれば、今すぐにでも描けば良いだけだろう。

________________以下本題_________________    


 オリジナルが敬われず、今までの苦労や努力も報われず、文化や表現を愛していた人達ほど、幸せを感じることができなくなり、Aiとおこぼれにあやかりたいだけの人達にお貢ぎするために、本当に才能のある人間ほど、アイデアや閃きの神秘と共に、搾取され続けるだけの奴隷になる。

 つまりこれは、ただのアイデアの共産主義革命だ。

 『要するに、すぐに立ち行かなくなる』

 才能という資本が敬われない社会では、アイデアを生み出すためのオリジナルの存在が極めて生じにくくなり、最終的には、食い潰す側も文明文化の恩恵を享受することができなくなるので、結局は(中長期的には)自分達の首を絞めることになる。

 ゆえに、才能や美しいものに対する敬いは必要なのだ。

 そしてこれが最も重要な問題なのだが、これら社会問題を、新たな社会システムやアイデアで、根本から解決することは、原理的に不可能だ。そこら辺の話は、
Note「対人工知能プログラム」にも書いてあるが、今度最後に書くNoteで詳しく話すつもりだ。

最近DAOとか話題になるけど、あれもただの茶番だ。


 なぜこのような革新が行われようとしているのかというと、こういう技術を作る発想の人達は、そもそも、芸術分野のクリエイティビティに乏しい人達。もしくは、競争相手のいる分野で、自分の限界を知ってしまって、諦めきれない人達。Aiなんて使うまでもなく、今まで不誠実に他人の才能を食い潰して生きてきて、それが正解だと思っているような人達。
そんな人達が、社会やシステムの絵図を描いているからだ。

 そしてその上で彼らは「アイデアは皆のものなんだから、みんなで力を合わせましょう。みんなのものなら優しい世界だ。もともとは世界はひとつなんだよ」なんて耳触りのいい言葉を口にしながら、誰かの人生や才能を、結局一番図太く逞しい自分達で食い潰していく。その発想の末路に、Aiアートが登場したのだろう。だったら金も均等に配分しろよなって思うけどね。俺はそんなの嫌だけど。

 一つの組織の中でそれが成り立つ分には、好きにすれば良かったのだけれど、そういう人達の欲望ってキリがないから、今や世界は、彼らによる、その嘘にまみれた思想で覆い尽くされ始めている。

 今の世の中を作ろうとしている人達の中に、前向きな情熱のようなものは存在していない。劣等感や虚栄心、悔しさといった類のセコい感情をバネに、社会の高みに上り詰めたような人達が、持て余らした虚しさと、思い上がりの使命感で作り上げてきたのが、今の世の中だ。

_______________________________________    



 もう少し具体的な話をしよう。

 情緒とか佇まいとか揺らぎとか、確かにそれらは神秘であり、表現の原理ではあるのだけれど、同時に、音楽や映像、絵画にしても、大体はスピーカーやモニター、印刷物なんかを介して、僕たちは情報を受け取っているわけだよね。つまり信号化できるわけだ。

 だから、所詮スクリーンの中の存在でしかない俳優だって、最終的には必要なくなる。映像処理の技術と、現実との差異が無くなった頃には、もう実在性なんて二の次だ。

 言語が有限の情報である以上、それが詩や文なら尚更だ。
そのうち繊細で感動的なポエムだって、Aiなら適当に書けるだろう。今いる状況、身の置かれた環境、他人との関わり合いで生じている空気、所詮人間の活動、行動、思考パターンなんて、統計的にはたかが知れている。人間の力だけでやってきた現在で既に、各分野ネタ切れとか言われているのだから。

 立体造形とかだって、既にあるオートメーション化された造形技術を応用するだけなんだから確実に可能だ。

 そんな世の中の土壌で、新たな才能なんて育つだろうか。
 時代の歪みの中から、奇跡的に生まれてきたとしても、そんな効率重視で他人の才能を食い潰す前提で成り立っている世の中で、才能のある人達がどうやって世に出るのだろうか。ネットで発信してみた所で、人とAiとの違いなんてその頃には無くなっている。モニター越しなんだから尚更だ。

 テクノロジーと自分達の現実との境界が曖昧になった世界で、何も感じなくなっていることにすら気づかないまま、前進しながら退化して行った人間の感覚で、わざわざ生身の人間の非効率な才能なんて、誰が有り難がるのだろうか。

 現時点では、ライブの時代になるなんて見方もあるけれど、その状況は言ってしまえば、ライブに価値があるから行くというより、ライブくらいにしか価値を見出せなくなるからライブに行く世の中、という表現が正しい気がする。
 つまりそうなってくると、その対象は必ずしも人間じゃなくても良い。なぜなら先述の通り、その世界に、大して見る価値のある人間なんていないし、奇跡的にいたところで、使うメリットも少ないのだから、ライブの演者だって、わざわざ出来の悪い「人間」という存在を使う必要がない。

_______________________________________    


 だから僕は現時点で、既にAiに対し、あらゆることに敗北する未来をを認めていて、だからこそ、介入してくる領域に、明確に線引きをするべきだと思っている。

 人間がマウンテンゴリラやライオンと喧嘩して勝てないのと同じで、自分にとってAiが思想感情分野に踏み込んでくることは、超好戦的な狂犬病のエイリアンと同じ部屋で生活するのと同じ様な話だと思っている。

 最低限人間を存在させるための秩序ってあると思う。
法律で人を殺して良い世の中が、平和ではいられないように、僕がしているのはその次元の話。
だからクローン製造規制法とか、独占禁止法みたいに、本来法律で明確に線引きすべきような話だ。

 スポーツとかも、ルールがあるからこそ、各分野のパーソナリティが認められているわけだ。何でもありなら、野球やサッカーなんて区分もないからね。だから楽しめていたと思うのだけど。

_______________________________________    


 今まで何度か話したけれど、自動車やインターネット、スマホの登場などの利便性の革新とは全く異質な革新だ。
 CGやペンタブも、あくまで人間が意思決定をする前提の『道具』だったから楽しめた。

 決定的な違いは、例えばスマホは、有る時と無い時の違いがはっきりしているから、なければないで、たまには距離置くのも気楽だね、なんて感想も持てるけど、Aiが絵を描いたりする技術は、それが上手いにせよ下手にせよ、人間の絵の技術と同様のものだから、あってもなくても違いがない。

 それが表現という「思想や感性そのもの」であるがゆえに。

 つまり、スマホから距離を置いた時の話に例えるなら、まさに「気楽ね」の部分にAiが介入してくるわけだ。だから思想や感情の領域に踏み込まれると、もう人間の感覚そのものが侵害されているわけだから、全然気楽じゃない。

_______________________________________    


 そしてスマホのように、社会に組み込まれたら、もう後戻りは出来ないので、感情を支配されながら加速度的に人間の心の領域は狭まっていくはずだ。

 滅びるまでは行かないにしても、虚しさばかり感じて仕方のない、自作自演の悲劇のモルモットになるのは時間の問題だ。モルモットみたいに、山登りとセックスくらいしかやることがなくなるだろう。だから元々そういう人達にとっては、気にならない問題なのかも知れない。

 適当に絵でも描いてみても、その頃には"人間らしさ"も"味"も、Aiが表現できてしまって、何をやっても全てにおいて絶対に敵わない最強の存在がそこにはいる。

 既に多くの人が、他人に対しても、そういった虚しさとか惨めさを抱えて生きているのに、そこにあった0.001%のわずかな望みさえ0%にして、逃げる道の先々にまでトラウマの化身みたいな存在をこしらえてまで、人間は一体何がしたいのか。(作る側はそこまで考えていない)

 ただでさえ皆、ため息ついて文句ばっかり言って人生嘆いてるのに、今よりさらに感動が減る世の中で、表現という大きな救いを失ってまで、人間はどうやって幸せを見出すつもりなのか(セックスと山登り)

_______________________________________    


 思い出してほしい。みなが盲信している"宇宙科学的見地から見たら"(僕の考えじゃないよ)(現状)人間の存在する価値なんて、便所の隅の埃以下なんだ。存在している意味がそもそもない。

 いなくなった所で、科学真理的には誰も困らない。
 どうせいつか死ぬんだから、今死んでも変わらないみたいな現実と、常に隣り合わせで僕ら人間はここまで存在してきたんだ。
 そんな状況の中、自分達がなんで存在しているのかもわからないなりに、喧嘩したり宗教を信じてみたり、愛とか夢みたいなわけのわからない物を、命懸けで欲しがったりしながら、自分達のアイデンティティを、必死に守り育んできた。

 人間という非合理的な生き物を、完全に合理化された社会で救うことはできない。
人間は、正論と共に消滅してしまう生き物だから。


↓以下関連。補足、余談

著書【世界の証明】 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?