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メタバース イン メタバース。意識統合思想の不毛さ。

※このNoteは、以下リンク前回Noteの関連、補足ですが、今回のNoteだけ読んでもらっても大丈夫です。

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Ai、デジタル化社会、メタバースの流れで、最終的には人類の意識は統合され、死生観さえも曖昧になる。みたいな極論を、最近わりと耳にするようになってきた。

こういった世界を思い描いている人達の思想背景にあるものは、今まで話してきた通り「全ては本当はひとつ」といった類の話を真理とする、禅的な思想や、ある種の哲学であることが多い。量子物理学における、全ては同じ素粒子からできている、といった考えとの親和性も高い。

だけどそれなら、既に一つの意識、真理の中で、さらに意識を統合する作業は必要だろうか。僕にはそれがとても息苦しく感じる。自分の本も、そんな話から始まるのだけど。

これらの説を前提とすると、それがテクノロジーによる物であれ、存在論的真理に基づくものであれ、意識の統合を目的としてしまうと、どの道、人間の存在にこだわる必要がなくなってくる。つまりこれらの発想の行く末は、人類の存在に対する否定でしかないのだから、少なくとも「人類のため」といった大義名分に妥当性は見当たらない。

近年における、行き過ぎた精神統合思想は、人類の存在に対し悲観的な思いを持った人達による、身勝手な集団自殺願望のように自分の目には映る。

「つまるところ全てはひとつでしかない」現実の中で、人間が自分達の存在意義を守っていけるかどうかは、いかに自らの必要性を、自らで創造し続けていけるかにかかっている。人間の存在の目的は、Aiに感情まで支配され、単細胞生物に成り下がることではない。

そしてそんな逃げ腰で向かった先の、仮想現実、第二現実的世界で、中途半端に個の存在なんか認めてしまった日には、あいも変わらず人々は、不平不満ばかり言うのだろうから、結局はまたその新たな現実の中で、意識を統合する必要が生じてしまうのだろう。(一生やってろ)

ゆえに人間がすべきことは、今と向き合い、自らで答えを見出し、今を生きる道を歩み続けることなのだと思う。





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著書【世界の証明】


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