さまざまな、濃い気持ち

中学生の時、友だちに借りた漫画版を数日で読んだのがエヴァとの出会いだった。
カラオケに行くといつも誰かが「残酷な天使のテーゼ」を入れるし、深夜アニメの世界とは無縁だった俺でも名前くらいは聞いたことがあって、そんなに面白いのか?と、気になって貸してもらったのだった。
結果的にその頃の俺にはまったく刺さらなくて、ただ物語を追って、読み切って、いつしか忘れてしまった。
これは俺の物語じゃない。そういう認識だけがずっと残っていた。

そして時は2021。今年、遂にエヴァンゲリオンが完結するということを知る。ん?逆にまだ完結してなかったん?と少し気になって調べてしまったが最後、NetflixでTVシリーズから一気に観始めて、すっかりファンになってしまった。この作品を面白く感じなかった10年前の自分が恥ずかしい。何も考えずに日々を過ごせていたあの頃の俺には(今思うと周りの人にすごく恵まれていた)、この作品は複雑すぎたのだろう。主人公・碇シンジの葛藤をまったく理解できていなかったのだと思う。

この作品ではシンジの気持ちや行動が、そのまま世界の運命を握っている。彼が選択を間違えると、人類が滅亡してしまうなんてこともあり得る世界。そんな中、新劇場版:Qでは、DSSチョーカーという首輪をシンジにつけることで、彼の感情の暴走(=エヴァの覚醒≒人類滅亡)を防いでいる。ものすごく簡単に言えば、それは「感情的になったら爆発する首輪」だ。
で、ふと思ったのが、この首輪、現実世界にもあるじゃない、ということ。それは常識やモラルかもしれないし、法律かもしれないし、読まなければならない空気かもしれない。何にせよ、人は社会的に振舞うための首輪をつけられている。そしてその範囲内に留まるようにいつも心がけている。そこで気づく。シンジ、俺は君と一緒だ。

先日公開されたシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇はQの続き、そして最後の物語だった。出会いや別れの中でずっと(俺が産まれる前の1995年からずっと!)もがいてきた碇シンジの物語が、ようやく完結したのだ。結論から言うと、ものすごく感動した。観てよかったと思った。シンジの、レイの、アスカの、ミサトの、ゲンドウの、その他すべてのキャラクターの気持ちがちゃんと伝わった。
人って、濃い気持ちを持っている生き物だと思う。都合が悪いので大人になると薄いふりをしたり、麻痺させたりするけど、本来は誰でも濃いはず。その濃い気持ちを伝える装置として、小説だったり、音楽だったり、映画があるんだと思う。首輪を爆発させずに濃い気持ちを伝える唯一の魔法、それが創作なんだ。映画を観終わった後、そんなことを考えた。

世界にはさまざまな人がいる。さまざまな出会いがある。さまざまな別れがある。そしてさまざまな、濃い気持ちがある。
そんな当たり前だけど愛おしい真実をこの作品は教えてくれた。今なら言える。エヴァンゲリオンは紛れもなく、「俺の物語」だ。

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