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【ショートショート】本屋の奥に

2024年5月15日。

読書好きな石川光太郎は、先週できたばかりの大きな書店にいた。
光太郎は毎週水曜日と日曜日がオフで、妻が仕事に出ている水曜日は1人で行動することが多い。本を愛する光太郎は、自宅から車で10分ほどの場所にこれほど大きな本屋ができたことに大喜びである。

大型連休明けの最初の1週間を終え、いつもより少し疲れを感じている光太郎。ゆっくり本でも読んで疲れを癒そうと考えていた。

「ひえー、立派だなぁ。いくらでも時間を潰せそうだ」

ワクワクしながら奥へ進む光太郎。しばらく歩くと、「ショートショート」と書かれた大きな看板が目に入った。光太郎が住む通葉市(つばし)にはショートショートで有名な三条ツバメという作家がおり、その影響もあってか通葉市のどこの書店でもショートショートのジャンルがよく売れているらしい。
「通葉市民は世界で一番ショートショート小説を読む!」という大きなポップが天井から吊り下げられている。少し大袈裟だと苦笑いする光太郎にとっても、ショートショート小説は特別なものだ。

「ツバメさんの新作買ってみるか」

光太郎は5月1日に発売された『苦し紛れの25編』を手に取り、レジに向かった。

「お買い上げありがとうございます。奥にカフェがございますので、よろしければご利用ください」

黒髪でボブの店員が、優しい笑顔で言った。
店員の言う通り奥に進むと、美術館に併設されているカフェのような優雅な空間が広がっていた。

光太郎はブラックコーヒーを注文し、席に座った。25席ほどあるうちの半分ほどが埋まっていた。オープンしたてとは言え、水曜日の昼過ぎにしてはそれなりの客入りである。

(落ち着いた空間だなぁ…ツバメさんの本、読み終わっちゃいそうなくらい集中できそうだ)

そう思いながらゆっくりと最初のページを開けると、遠慮がちながらも少し大きな声が聞こえてきた。

「あ、もうちょい右!あ!行き過ぎ!そこ!そこ!」

奥の席では、女子高校生たちが写真を撮り合っている。
よく見渡すと、人は皆写真を撮ったり、ソーシャルメディアを更新したりしているようだ。
上品で時の流れも緩やかに感じられる店内だが、光太郎以外の人間は何かに追われているかのように撮影を続ける。

「せっかくまったりできそうな空間なのに、みんな焦っちゃって可哀想に」

この店舗のホームページには「俗世から離れた時の流れ」というキャッチフレーズが掲げられている。しかしながら、躍起になって写真を撮る人々からその緩やかな時間軸を感じることは全くできない。モノが溢れた都会では、「本当の落ち着き」などを演出することはできないのだ。作り物の静寂ほど弱いものはない。求める人が増えれば、たちまち雑踏と化す。

(カシャっ)

光太郎は周りから聞こえるシャッター音の誘惑に耐えられず、カメラのアプリを起動させてしまった。



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