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2023.07.25 火曜日


「出る杭は打たれるって言うからねぇ…。」

嘆き節でそんなことをボヤく光景を、これまでの人生で、おそらく、両手で数えられるか、数えられないか、といった程度には、経験してきた覚えがある。

付け加えておくと、僕の経験の数は、世間一般の人と比べて、かなり低いのではないかと、内心では感じている。その理由としては、僕は、他の人とコミュニケーションを取る回数が、著しく低いと言わざるを得ない、と思っているからだ。

「なぜ他の人とコミュニケーションを取る回数が少ないのか?」といった点に関しては、今回のテーマから逸れてしまうため、割愛させていただく。”そういうテーマ”が来た時には、満を持して述べるつもりだ。

無論、いつになるかは、分からない。何事も、思い立ったが吉日、なのである。今回のテーマも、昨日以前のテーマも、全ては”その日の思い付き”なのだから。

失礼、話が脱線してしまった。

要するに、僕以外の人の多くは、両手で数え切れないぐらいには、日常会話から「出る杭は打たれる」という表現を耳にして来た、あるいは、そんなセリフは日常茶飯事だから数を数える気にもならない、といった人も、中には居るのかもしれない。

僕は、そんな風潮に、異を唱えたい。敢えて、言葉を選ばずに、僕の本心本音を書かせてもらうと「そんな考えだから出ようともしないんじゃないの?」と感じてしまう。これは紛う方なき事実だ。自分の心に嘘はつけないし、つきたくもないから。

”出る杭は打たれる”

僕は、この言葉自体に関しては、概ね同意見、というスタンスを取っている。具体例を挙げるのであれば、ネット上の掲示板など、特定のテーマで各々が忌憚のない意見を言い合うコミュニティが、一番イメージしやすいのではないだろうか。

モノは試しということで、何かしらのキーワードに「掲示板」とか「ネットの声」などを追加した上でグーグル先生に聞いてみると、おそらく、それこそ、数え切れない量のネット掲示板であったり、個人ブログであったりが、ヒットするのではないかと思われる。一度、怖い物見たさで体験してみるのも、一種の社会勉強としてはプラスに働くかもしれない。推奨はしないが、気になる方は、是非。ただし、検索したことによって生じた不利益な事象全般、一切、責任を負わないので、悪しからず。

ちなみに、僕自身も、そういう類に興味を示さない人間であるがゆえに、ほとんど経験したことはない。「ほとんど」と書いたのは「広島東洋カープのファンが集うネット掲示板」のようなものを定期的に閲覧していた時期があったためである。

逆に言えば、それ以外は、皆無と呼べるレベルで、存じていない。ただただ、夥しい量のコミュニティがあるんだろうな、という、漠然としたイメージを持っているだけに過ぎない。そう考えると、僕なんかよりも、そういう類に精通している人物に話を伺った方が良さそうだ。じゃあ、僕が、せっせと書く意味なんて、どこにも無いな。(唐突☆超絶☆ローテンション)

・・・まぁ、それはいいとして。

今回、僕が、最も主張したかったのは「『打たれる』ことを恐れていたら『出るものも出れない』なんてことにもなりかねないよ?」というわけなのだ。

そもそも、考えてみて欲しい。「出る杭は打たれる」って表現を、アナタは使っているけれども、じゃあアナタは、実際に、打たれた経験があるのですか、と。少しずつ成長(杭が出始めた)しているところを、ドカーンと打たれて、ポキッと折れてしまって、リスタート不可能な状態にまで、完膚なきまでに叩き潰されてしまったのですか、と。

失礼。後者に関しては、少々、誇張表現が過ぎた感は否めない。だが、僕の言い分としては、もしも「出る杭は打たれる」って表現を用いるのであれば、それに類する体験は持ち合わせていて欲しい。せいぜい、前者と似た経験が、ちょろっとだけあるかなぁ、程度であれば「出る杭は打たれる」と、人生の世知辛さを憂い、自己憐憫に浸るのは、それこそ、誇張ではないのか、とも思うのだ。

また、自己憐憫に浸って「私は一生懸命頑張っていたのに…。」だとか「〇〇が『そんなことやってても意味ないからやめとけ』って、全否定されたから、モチベーションを失ってしまったんだ…。」などと他責思考の念を募らせた末に「だから私は悪くない!」だとか「だから私は悲劇なヒーロー(ヒロイン)なのだ…。」などと結論付けて終わるのであれば、まぁ、自己完結はしているので、他人に危害を被ることはない、という観点から、別にアナタがそう思うのであればソレがアナタにとっての正解なのかもしれませんね、といった具合に、サラッと聞き流すことは出来よう。

問題は、自分の主義主張を他人にぶつけて「だからアナタもそんなバカなマネはさっさとやめた方が良い」だとか「どうせこの社会は頑張れば頑張るだけバカを見るように出来ているんだから、どれだけラクして生きられるかを追求した方が幸福感を得やすいんだ」などと、熱弁するヤカラのことだ。そういう存在になると話は別。看過出来ない。「おい、それは違うだろう」と言いたくなる。「お前の偏った思想をあたかも真理のように語るなよ」と言いたくなる。

さらに、残念なことに、こういった”説法”を行なうヤカラは、大抵の場合、自分よりも社会的地位が上の人物であったりするものだ。役職で例えるならば、説法を行なうのが部長で、説法を聞かされるのが平社員、といった具合である。

わざわざ書くまでもないだろうが、こういう立場の差が生じた場合、説法を聞かされる平社員は、”渋々”、部長の説法を、”ありがたそうに”、聞かざるを得ない空気感が流れていたりもするものだ。もしも「いや、部長、それはちょっと違うんじゃないですか?」などと異論を述べたら「なんだお前は。下っ端のくせに偉そうな口を叩いて!」などと怒鳴り散らしてくるような、正真正銘のヤカラであるのならば、いよいよもって、厄介極まりないと言えよう。

こういったモヤモヤを一言でまとめるならば「他人を巻き込むなよ」といった感じであろうか。しかし、僕が知り得る限り、ではあるのだけれど、なぜだか、自己完結させて一件落着、めでたしめでたし、というパターンは、ほとんど無いのもまた事実だ。大多数が、先ほど述べたような展開。つまり「コイツだったら自分の話を『ウンウン』と聞いてくれるだろう」と思われるメンバーを集めて、”人生をよりよく生きるためのありがたい説法(笑)”を行なうのである。

そういう風潮が、僕は解せない。敢えて申せば「正しい・間違い」の話を、今回、言いたいわけではない。なぜなら、万人にとって正しい答えも無ければ、万人にとって間違っている答えも無い、というのが、僕の持論でもあるからだ。

要するに「絶対解」を探し求める旅に出かけてしまうと、いつまでもいつまでも、答えを求め、彷徨い続けることになってしまうわけだ。なぜなら、先ほど述べたように「絶対解」と呼べるべきものは、実質存在しないから。(繰り返すが”あくまでも僕はそう思う”という話)

であるならば、我々は、どうすれば良いのだろう。簡単なことだ。毎日の生活を通して、様々な経験を重ねていく中で、自分にとっての「納得解」築き上げていく。これが、人生をよりよく生きる上で、最も大切な考え方であると、僕は心得ているのだ。

ただし、強調してきたように、この考え方は、やはり、万人にとって当てはまるものではない、とも思っている。ゆえに「だからアナタも私のようなマインドで人生を謳歌しなさいよ!」などとは、口が裂けても言わない。否、言えない。だって、僕自身、話を聞かされる側で、嫌な思いを、それこそ、嫌というほど、経験してきたのだから。

今振り返れば「なんか、あの頃は、自分が所属していたコミュニティで交わされている話が『真理』だと思い込んでいたなぁ…。無駄な時間と労力を費やしてしまったのかなぁ…。」などと思わなくもない。しかし、それを補ってあまりある、と言っても良いぐらいのプラスを得ることが出来た、とも思っている。

それはなにか。ズバリ言おう。「反面教師/人の振り見て我が振り直せ」という観念を、一生忘れない、と言い切れるぐらいには、ガツンと腹落ちさせられたことだ。言い換えるのであれば、無駄な時間や労力を割いてしまったと感じたことによって、僕と、縁あって関係を築くようになった人に対して、「この人と一緒に居るのは時間(労力)の無駄だなぁ」などと思わせてしまうリスクを減らすことに、一役買ってくれたのだ、と思えた。ココに、大きな意義を、僕は見出したわけだ。

だからこそ「人生に無駄なモノは何一つない」と言われるのだろう。要は、己の考え方・感じ方一つで、活かすことも殺すことも出来るというわけだ。であるならば、いつまでもいつまでも「あの時は時間を無駄にしてしまったなぁ…。」だとか「あの時、別のコミュニティに属していれば、俺の人生、もう少しマシになったんじゃないか…。」などと、過ぎ去ったことを悔やみ続けるのは、それこそ、時間と労力を無駄にしているじゃないか、という事実にも、気付けてくることだろう。

なので、最後に、もう一回だけ。他人を巻き込むな。ぶっちゃけると、今日言いたかったのは、たぶん、そのことだけ。以上。

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