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#27【夢日記】団子を食べよう! →「俺の皮膚は有限やぞ」

・僕、母、I.R(男友達)、I.H(I.Rの姉)の4人
・スーパーでお買い物をしている際の出来事
・I.R「この団子とかどうですか?」
・母「あら、確かにそうね。良く見つけたわね偉い」
・4人で団子を分け合いながら食べることに
・I.R「楊枝が上手く団子に刺さらないな・・・」
・他の3人「まったく、これだから不器用は困るw」
・母「あ!確かに刺さらない。楊枝が良くないのね」
・母「ほら、皮膚に刺そうとしても、刺さらない」
・母は僕の皮膚に楊枝を刺す → 刺さって皮がめくれる
・僕「・・・おい、俺の皮膚は有限やぞ」
・他の3人「ドッ!(大笑い)」

内容

溜めた一言で笑ってくれればいいが現実は大体滑る

やっぱね、イチ関西人としてはね、“人を笑わせたい”っていう欲求は、少なからず持っているわけでね。

僕だって、会話の流れで「あっ、これを言えば面白いかもしれないな・・・」とか、思い付くと、タイミングを見計らって、ポンと言ってみたりするわけですよ。

だけど、経験則を振り返ってみると、“狙ったボケ”は、大抵の場合、滑りますね。うん。狙えば狙うほど、滑ります。

それはなぜか?

まず、僕が思うに、自然な感じじゃないからでしょうね。「どや!おもろいやろ?」みたいなのが、滲み出てるんじゃないですか。満を辞して感、というのか。

僕、笑いのメカニズムについて興味があるので、その視点でお笑い番組を見たりもするんですけど、笑わされる側の立場に立つと、それがよく分かると思いますよ。

要するに、「ココでボケてくるんじゃないか」って身構えていると、よほどのボケじゃない限り、笑うことは出来ない。ボケーッとしてる時に、ボケを見るから、クスクスってなるわけです。

うん、これはあると思いますね。

あとはねぇ、本人は“滑った”と思っていても、周りの人からすると、“滑ってない”なんてケースも、あるんじゃないかと思います。

それはなぜか?

これに関してはね、「こう言えばこれぐらいの笑いが得られるだろう」っていう、“これぐらいの笑い”の期待値が、高過ぎるんですよ。

数字や記号で表した方が分かりやすいかな。

「Aというボケを行えば100の笑いが得られる」と思っていたけれど「Aというボケを行った結果80の笑いが得られた」となったら、本人としては「滑った」と感じたりもするわけです。

これが、咄嗟に思いついたボケ、つまり、笑いが得られる期待値なんて全く考えていない状態で繰り出して、同様に、80の笑いが得られたとしたら、どうでしょう?

そうです。「ウケたな〜」って、心地良い満足感に浸れたりするのです。面白いね、笑いのメカニズムというものは。

・・・みたいな論調を展開しながら、M-1グランプリ決勝戦を見ていると、「なんやコイツ面倒臭いやつやな」などと、周囲の人から煙たがられること請け合いなので、良い子の皆さんは真似しないで下さいね。

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