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「拾」と「捨」の一考察

「拾得物」という言葉を手書きで数回書く機会があったのだが、毎回「拾」を「捨」と書き間違えてしまった。斜線でピッピッと引いて、新たに「拾」と書き直そうとしたのだが、またしても「捨」と書きそうになっている自分が居たのに気付き、これは余程のことだと思った。

(「いい歳になって、毎回同じ漢字を、それも漢検3級以下クラスであろう漢字を、それも毎回同じ箇所で、ことごとく書き間違えている自分。なんて情けないんだ・・・。」)

僕にだって、そういう気持ちが無いわけではない。しかし、ここまでくると、恥じらいという感情を飛び越えて、「なぜ『拾』を『捨』と書いてしまうのだろうか?」という疑問の方が上回ってしまったからか、あまり恥ずかしいとは感じていなかった。一度斜線でピッピッと引いただけで「ああ・・・。」と、自身のミスを悔いる傾向が強い僕にとって、それはとても珍しいことだった。とはいえ、この場面においては、他人の目を気にして恥じらう余裕すら無かった、と言った方が正しいのかもしれないが。

“捨てる神あれば拾う神あり”

前述した問いに対する答えを出すため、一人、悶々と考えていると、フッと頭に浮かんできたのがこの言葉。意味合いとしては「人間は、見ているようで見ていないものだが、見ていないようで見ているものでもある。思いもよらぬところから縁が繋がることもある。『どうせ頑張ったところで誰の目にも留まらないからもういいや』と投げやりな態度になってはいけないよ」といったところか。要するに、自らを戒める金言のようなものだと解釈している。

ふと気付く。そういえば、僕は「捨てる神・拾う神」の視点ではなく「神に捨てられる民・神に拾われる民」の時点でしか、この言葉を捉えてこなかった。「捨てる神」に焦点を当てずに「拾う神」に焦点を当てることを意識するのはあっても、自分自身が「捨てる神」に属するのか「拾う神」に属するのかは、これまで一度も考えたことがなかった。そもそも、考えたことがなかったことにすら気付けていなかった。たった今、そのことに気付くことが出来た。

ようし、せっかくの機会だ。書き間違いを繰り返して「拾」と「捨」が認識に上がっている。このタイミングで考えなくて、いつ考えるというのか。僕の心の中の林修も、ドヤ顔&決めポーズで「いつやるの?今でしょ!」と言っている。ここはいっぺん、じっくりと腰を据えて考えてみようじゃないか。

(「え〜っと、『拾』を『捨』と書き間違えたということは、無意識レベルで『拾』よりも『捨』の方に気持ちが向かっている証拠だと言えるのかな・・・。さらに、書き直そうとしても、まだ『捨』と書きかけたということは、理性よりも本能の部分で『捨』を求めていたとも言えるのかな・・・。」)

ここまで思いを巡らせて、僕はハッとする。待て。待て待て。そうなると僕は「拾う神」よりも「捨てる神」に相応しい人物、ということになるじゃないか。そんなのはまっぴらごめんだ。もしも「民」の立場ではなく「神」の立場になれるとしたら、どうせならば「捨てる神」よりも「拾う神」でありたい。それも、他の、不特定多数の「拾う神」が(存在や魅力に気付けず)拾いきれなかった民に向かって「アナタはこういうところが素晴らしいですね」と言ってあげられるような「ベスト・オブ・ザ・拾う神」でありたい。それなのに・・・。

なんということか。「思い立ったが吉日!」とばかりに勇んで思案してみたら、受け入れ難い現実を突き付けられるハメになるとは。僕は、理想と現実の乖離の甚だしさに、思い切り打ちのめされてしまった。嗚呼、かくも人生というのは、世知辛いものだ・・・。

(「ま、まぁ、『捨てる神』も、人間関係の断捨離、という観点で見れば、必ずしも悪いことばかりではない。『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』なんて言葉もあるじゃないか。『自分はいざという時に捨てる勇気がある人間なのだ!』と捉えれば、見え方や考え方もプラスの方向に転じていくはずだ。それに、近頃では『ミニマリスト』と呼ばれる生き方が礼賛されている。『拾う』よりも『捨てる』が現在のトレンドと言っても過言ではない。これで良かった・・・。否、これが良かったのだ・・・。」)

僕は、すっかり落ち込んでしまったもう一人の僕を、懸命に励ましていた。脳みそをフル回転させて、必死に言葉を取り繕っていた。そんな様子を俯瞰している、もう一人の僕の表情が「言い訳乙」と言っているように見えた。「僕・僕・僕」の板挟み状態になった僕は、一人、戦慄(わなな)くことしか出来なくなってしまった。

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