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山本ひかる結婚

芸能関連の話題には全くと言って良いほど興味を示さないタイプなのだが、たまたま、LINEニュースの検索窓に「山本ひかる結婚」という文字が認識に上がって来て、尚且つ、僕の心が反応を示した感覚があったので、今日の日記は、この気持ちを言語化することに努めてみたい。

まず、認識に上がったこと自体に、意味があると思う。人間とは「見たいように見て、信じたいように信じる」生き物だと僕は心得ている。この考えは、哲学者のカントが提唱した「コペルニクス的転回」が元となっている。カントは、人間の認知構造を「認識が対象に従うのではなく、認識が対象に従う」という表現で説明した。

例えば、今僕は、スマートフォンでこの記事を作成している。もしも、人間の認知構造が「認識が対象に従う」としたら、全ての人間が「これはスマートフォンという機械で、メーカーは○○で、機種は△△で・・・」と、全く同じコメントを発することになるはずだ。

しかし実際は違う。人によってスマートフォンへの知識レベルは異なる。Aさんは、僕が知らないスマートフォンの便利な機能を沢山知っているかもしれない。逆にBさんは、ガラケーしか使っておらず、スマートフォンと呼ばれる携帯の存在自体は知っているが、具体的にガラケーとどう違うのかよくわかっていない、なんてケースも考えられる。

以上のことから、カントの「認識(ヒト)が対象(スマートフォン)に従うのではなく、対象(スマートフォン)が認識(ヒト)に従う」という説は正しいと言える。なぜなら、同じスマートフォンであったとしても、人が変われば、発するコメントも変わることになるからだ。

(「・・・俺は何を言ってるんだ?」)

失敬。正気にかえった。ココまでの話は一切無視してくれ。今日は山本ひかるについて語るつもりだったんだ。話の広げ方を間違えた。僕の悪い癖だ。自覚している。「直せないんじゃなくて直さないんだろう。それは直す気がないからだ」という物言いも甘んじて受け止める。否定は出来ない。僕自身、僕の「冗長癖&脱線癖」を毛嫌いしていない、むしろ愛してすらいる。それが一番問題であることは承知している。そしてこの、弁解だかなんだかよくわからぬ自分語りこそが最も無駄であることも承知している。

・・・山本ひかるについて、語ろう。

「山本ひかる結婚」という一文が僕の目に入って来たということは、それだけ好いていた、ということに他ならない。そもそも僕は、「○○結婚」について、ほとんど興味関心を示さない。そもそも認識に上がらないことも多いであろうし、たとえ認識に上がってきたとしても「ふーん」で終わらせてしまうことも多い。「今日のnoteで取り上げてみるか」なんて、まず考えないだろう。なぜなら心が1ミリも揺さぶられていないからだ。どうせ取り上げたところで「続いてのニュースです。○○さんが結婚しました。お相手は・・・(以下略)。次のニュースは、」といった感じで、淡々と事実だけ述べて終わることが目に見えている。

ではなぜ、僕は「山本ひかる結婚」について、心が揺さぶられる感じがあったんだ。そこに焦点を当てて深掘りしたくなったから、今、僕はこうして、文字を紡ごうとしているんじゃないのか。核心に迫るまでまだに1300文字以上を費やしているぞ。しっかりしてくれ。頼むよマジで。

なぜだろう。本当に話したいと思うことほど、口が重たくなって、上手く話せなくなってしまうのは。どうでもいいことほど饒舌になり、どうでもよくないことほど寡黙になる。言いたいことが無いわけじゃないんだ。むしろ、言いたいことが有り過ぎるんだ。だから、頭の整理が追い付かない。複雑に入り組んだ思考を解きほぐして言語化するまでに多大な時間と労力を要する。それゆえ、会話のキャッチボールを成立させることが出来ず、テキトーな話題を持ち出して、テキトーに言葉を並べて、なあなあで終わらせてしまう。

思い返せば、子どもの頃からそんなコミュニケーションの取り方をしていたような気がする。よくある「子どもの時は何も考えなくても出来ていたのに、大人になって色々と考え過ぎて出来なくなってしまっていた」というわけでもなさそうだ。昔から何にも変わっちゃいない。面倒臭がりなんだろうか。自分の心の声に耳を傾けるのが億劫で、取るに足らないことしか話そうとしないのだろうか。だとしたら、怠慢だ。相手に対しても失礼だ。

・・・いや、違う気もする。いや、違う、と言い切れない時点で、半ば認めているともいえるのだけれども、自分の心の声に耳を傾けるのが億劫、という見立ては、ちょっと違うんじゃないか、とも思う。むしろ、暇さえあれば心の声に耳を傾けている自分が居るようにも思われる。自問自答の癖が長年染み付いている気さえする。だとすれば、面倒臭がりではなく、言語化能力に著しく欠けているのであろうか?

・・・いや、あまりしっくり来ない。これを否定すると「私は言語化能力には自信がある」と主張しているようで、なんだかむず痒い思いもあるのだけど、問題の根っこの部分は、そこじゃない気がする。だとしたら・・・。

そう。ありのままの自分の気持ちを直視する勇気が無い。これだ。これしかない。今回の件で言うならば「山本ひかる結婚」の報道を通して、ポジティブな感情とネガティブな感情、両面を俯瞰する勇気が、僕には無いのだ。付け加えると、どっちの方向性で話を進めて行けば良いのかすら、整理出来ていない。やろうと思えば、どっちでも行けたはずなのに・・・。

ポジティブな面であれば「お団子ヘアは貫地谷しほりと山本ひかるの二強と言い続けていた」というエピソードトークを膨らませれば、大体なんとかなる。その流れで「科捜研の女」に関しても触れていけば、それで一つの記事として完成させることも出来たはずだ。

ネガティブな面であれば、俗に言う「○○ロス」的なテイで話を進めれば、言葉は泉のように湧いて出て来たことだろう。僕と山本ひかるとの出会い。僕が山本ひかるを意識し始めたキッカケ。僕が山本ひかるを好きになったキッカケ。書ける。間違いなく書ける。個人的には、こっちの方が気持ちが筆に乗りそうなので、ポジティブ路線よりも書いてみたい。けれども、機を逸した感は否めない。

“二兎を追う者は一兎をも得ず”

端的に言えば、こういうことなんだろう。つまり僕は、本当は、ネガティブな気持ちに焦点を当てて、僕の想いを書き出したかった。けれども、結婚報道を受けて祝福の気持ちがあったのもまた確かだった。それゆえ、ネガティブ路線で書き進めていけばいくほど、山本ひかるに対して申し訳ない気持ちが募っていく。そんなことをはじめから予感していた僕は、タイトルを「山本ひかる結婚」としたためておきながら、テーマと関係なさそうなことにばかり手を付けて行ったんだろう。その結果がコレだ。山本ひかると向き合おうとしていないという意味で、最も失礼だと言える。

こうやって、僕は、本当に大切に感じている人ほど、大切にしたいという気持ちが強まれば強まるほど、ぞんざいに扱ってしまって、自分のもとから去って行って、後の祭り状態になってから悔やんで・・・、を、繰り返していくんだろうなぁ、と思った。

【P.S.】

和田毅の人的補償騒動に触れようとした時も、そうだった。今日と全くおんなじ。テーマと向き合おうとしないで、思い出話ばっかりしている。決めた。金輪際、noteでは、ホットな話題を取り上げない。僕の情動が働けば働くほど、見るに堪えない記事になることは明白なのだから。

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