アヒル。
人生とは川のようなものなのかもしれない。
行き着くところはみな墓場で、そこまでの道のりは千差万別。
調子がいい時は登っているように感じるが、実際は下がっていく一方。
結局皆に与えられている時間は平等であり、
平等に一分一秒歳をとっていく。
そう考えたら少し心が軽くなった気分になる。
日常のイレギュラーも支流に入って流れが変わっただけ。
行き着く先、向かう先は変わらない。流れがゆったりする時もあれば、流れが速い時もある。だけど結局結果は変わらない。なるようにしかならない。
我々にできることはちょっぴり流れの速さを変えるだけ。結局皆同じ水で、結局最後は死ぬ。行き着く先は結局同じ。
偉人も、億万長者も、生活保護受給者も、精神疾患を抱えている人も
結局死ぬ。遅かれ早かれ、この世からキエル。
流れに逆らうから、流れの速さを人と比べるから、一喜一憂する。
お風呂に浮かべたアヒルが、全然動かないからといって腹を立てるだろうか。
あいつができるのはぷかぷか浮いていることだけ。流れに揺られるだけ。
モーターを搭載して浴槽を掻き乱すことを求めていないし、求めたところでどうしようもない。
あのアヒルのような心持ちで流れにしたがって、何も気にせず過ごせたらどれだけ楽だろう。
近頃落ち葉をよく見かけるようになった気がする。落ち葉も自然の摂理に過ぎない。結局はみな枯れ落ち、みな踏まれる。美しく咲き誇り、皆を魅了していた者も最後は枯れ落ちる。
風によって、気温によって、雨によって、意思に反していたとしても葉は枯れ落ちる。
青々、繚乱としていたものが生気を失い、力をなくし、地に沈む。
やり切ったと言わんばかりの顔をしながら。人はそれを儚いというが、葉にとっては希望なのかもしれない。酷使させてくれるなと鬼気迫った姿が眼に浮かぶ。
散った後はどうなるのだろう。死んだ後はどうなるのだろう。
海辺のカフカに準えるなら、それは生ける者の中で生き続けるのだろう。
記憶として生き続けるのだろう。死とは概念でしかない。
誰かがその形のない事象に対して形を与えたいがためにとってつけた名前に過ぎない。「死」自体に意味など存在しない。
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