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【哲学】「境界」についての考察 #4

第一章:人間は「境界」的存在である。
第二節:境界の性質および歴史性 その2

第二回の記事でも説明したが、人間が「人」「間」という二つの言葉を用いて表されることは大変興味深く、また当然だ。名前という「境界」によって分離された「群れ」は、単一の個体がうなる様に群れた「集団」として再構築される。ここで重要なのは「群れ」と「集団」とでは、「境界」の有無が異なるという点である。

私は生まれた、とあるサルが考えたとしよう。いや、彼はおそらく考えもしないであろう。自分が生まれたこの血でつながった集団の保持こそが、自分の役目であるということを信じて疑わない(疑い得ない)。彼にとって、どこからどこまでが群れであるかということを、考えることは不可能である。言葉による「境界」が明確に区分されない以上、それを把握する手段はより原始的な……いうなれば、「におい」や「フェロモン」などに頼らざるを得ない。

しかし、「集団」として暮らす人間は、自分たちが「人間」であるということを自覚している。すなわち、「人間」と「それ以外の生物たち」との間に、はっきりとした線引きが成されているのである。

それだけではない。人間たちは、その個人それぞれが、一つの「名前」によって区別された「境界」を持つ。自分とは違う「同族的存在」、すなわち「他者」が存在するのである。このような空間の中において、境界内部に存在するありとあらゆる境界が、それぞれを互いに、「他者」化していく。これこそが、集団と群れとの最大の違いである。

集団を構成する主体(つまり人間)は、自分たちが「集団」という領域の中に存在する「名前」という境界を持った存在であると無意識に自覚しているのである。

これは、人類の定住化に伴う都市構造の発達について考えれば、非常にわかりやすい。都市は「個人」の存在を前提とした構造である。壁や扉、窓(境界)で仕切られた一つ一つの構造(領域)の中で、一つ一つ名前(これもまた境界である)が与えられた人間が暮らしている。言葉通り、「人」が暮らす場所に、教会で仕切られた「間」が、いたるところに存在しているのが、都市という構造である。

これは言い換えるならば、「境界」無くして「都市」なし、という、意味ありげな、魔導書のような文言に置き換えることも可能である。というより、特に近代に突入して以降の「都市」という構造が、境界によって定義された個人の存在を無条件に前提としていることを忘れてはならない。

唐突に話題を転換することになるかもしれないが、ここで「他者」化という、非常に重要な「境界」の性質が浮上してくる。「境界」のこちらと向こう側において、いや、境界のこちら側を「領域」と呼ぶことにしよう。つまり、領域が、境界の外部を、境界を超えた認知によって「他者」化するのである。

ナチスドイツの反ユダヤ主義に代表される「民族」とその「浄化」という行動。もちろん、ナチの将校たちの間には、ヒトラーのこの政策に対して、吐き気を催すような邪悪を、表には出さないにしても感じ取った人物がいた。彼らは、一人の独裁者によって作り上げられた「アーリア人種」という境界が、「ユダヤ人」という境界外部を、狡猾で残忍な詐欺師たちという存在として「他者」化したことに、潜在的な違和感を覚えたのである。当然だ。なぜなら、「境界」は創造されるものであるからだ。

「境界」が、領域の外部を「他者」化させる。

思えば、「敵の敵は味方」という考え方も「境界」という概念によって、驚くほど簡単に説明できる。連続した二つの「境界」によって、仕切られた三つの国が存在する状況で、A国はB国と対立、C国もまたB国と対立している。このとき、A国はB国を「他者」化し、C国もまたB国を「他者」化している。二つの同一の他者が存在することは、ナチの反ユダヤ主義が、ドイツ人を統一させたというあの歴史から見ても、必然的にその二者どうしの境界を薄くするという性質を浮上させる。つまり、A国とC国の間の「他者」化が弱まるのである。それは同胞意識の浮上と、他者同士の対立の激化を招く。この具体例について考えたいのであれば、第一次世界大戦勃発時の、バルカン半島におけるゲルマン主義とスラブ主義の対立を見れば、一目瞭然である。

同一の他者の存在は、境界の薄化を起こす。

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