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【哲学】「境界」についての考察 #1

このシリーズでは、僕なりの哲学をもって「境界」という事象について深く考えていきたいと思う。何度も繰り返し言うことではあるが、本記事は僕が記事の読者とともに、「境界」ということについて哲学的考察を深めていくことに意義がある。それに、僕はソクラテスにならって「無知」から始めていこうと思っている。つまり、事前に何らかの書籍を熟読しているわけではないということである。未熟な僕の考察に、少しでも良い素材となりえる本や作品を知っている方がいるのであれば、ぜひ教えてほしい。僕のTwitter、この記事のコメント欄を含めて、自由に。

「境界」を語る必然性について

境界について、辞書の記述を見よう。

きょうかい【境界】
土地(二つのものの間)の境。[ー線を引く]
                      ー新明解国語辞典より引用

境界とは何かと何かの境にあるものである。しかし、僕がこれから語りたい「境界」は、もっと広義であり、もっと人間的な意味を含んでいる。人間的な意味を含む、「境界」について、とっつきやすい例を挙げよう。

君が今、この記事に触れている。まさにそれ自身である!!

どういうことか。いいや、そのままの意味である。君が今手に持っているか、はたまた机の上にあるか。はたまた、活字となっているか。僕にはそれが具体的に何であるかということはできない(というのも、僕は君ではないからである。たとえそれがスマホだろうが、PCだろうが、ネットで撮ったスクリーンショットの画像であろうが、それは僕には認知できない)。
 少なくともくとも君が今読んでいるこの記事は、今、僕がまさに書いている「この記事」ではない。君はきっと、この記事を何らかの形を通して…例えばそれは「note」というサービスであり、あるいは僕が印刷したプリントであり、書き溜めておいたノートの記述であり、そういった、何らかの仲介を経ている。

こうした、何らかの仲介作用を起こす、「仲介者」とでもいうべきもの。これを僕は「境界」と定義したいのである。
 この「境界」の定義において何より重要なのは、作用の前後において、作用されたもの(これを、「対象」と呼ぶことにしよう)が、完全なコピーであったとしても、それは「境界」の仲介作用を受けているということである。いや、厳密にいえば、「境界」は人が何らかの情報に触れる時点で、すでに多大に影響を及ぼすどころか、その人自身が「境界」の作用結果を受け取っているのである。カントの名著である「純粋理性批判」の内容を説明するときに用いられる「色眼鏡」の例えがよい。(というより、僕の「境界」についての考察は、高校の倫理の授業で学んだカントの思想からそのエッセンスを得ている。したがって、僕がいまだ学んでいない様々な哲学者の思想の中に、似たような考察がすでに行われている可能性は否定できない)。

 さて、しかし僕がなぜ「境界」という言葉をこうして用いているかについてであるが、それは何より、「境界」が今、現実にあふれかえっているからに他ならない。
 情報化社会における「境界」は、今やあらゆるところに見られる。ネオン街で光り輝く電光掲示板。巨大な交差点で流されている動画広告、ポスター、書籍、SNS、…厳密にいえば、情報のあるところすべてに「境界」が存在するといって過言ではない(これについては後々の考察で触れていく予定である)。そして、情報が「境界」を超えるたび、それは少しずつ変化を生んでいる。

 結論を先に提示するならば、以下の一言にまとめられる。

「境界」があらゆる複雑性の根本的原因である。

 「境界」の中に生き、「境界」として生き、「境界」として存在する我々人間とその社会が、文字の出現によって加速度的に複雑になっていったことを、僕は主張したい。そして、「過度の複雑性からの脱却」という、我々に課された哲学的使命の一つを、哲学的手法を用いて導き出したいと考えている。それこそが、「境界」を語る意味であり、本シリーズ執筆の動機である。

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