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「誰かの何かになりたい」ということ

巷でよく言われる言説の中に、「誰かの大切な人になりたい」「好きな人の好きな人になりたい」という言葉がある。直近(というわけでもないのだが)「別の人の彼女になったよ」という曲のタイトルも、この種の言説であろうし、現に多くの人から支持されている。僕自身、この曲はとても好きである。

さて、何か一通りの言説が見られるとき、それをある程度抽象化しようと思うのが哲学を志す者の癖である。ここでいう場合は、「誰か(人)の何か(好きな人、大切な人)になりたい」という欲求の形が現れている。これはある種の承認欲求の究極的フレームとでもいうような形である。

注目すべきは「誰か」の「何か」である。ここでいう「誰か」は一体何者であろうか。もちろん、「好きな人」や「別の人」という言葉である程度指示される場合がほとんどであるが、それらの語はいずれも「自分以外の誰か」すなわち「他者」の存在を指している。

人間の皮肉的な本性として、「一人で生きることはできない」という事実が歴然と存在し、また、その根底に「承認欲求は一人で満たすことはできない」というような暗黙の了解が存在する。

さて、ここ最近僕がめっきり更新を停止してしまった「境界」をめぐる議論において、この事実は非常に重要である。なぜなら、「他者」という存在は「境界」無くして現れないからである。承認欲求とはすなわち、『「自分」という存在の周辺にある「境界」を他人によって定義づけてもらいたい』という欲求である。

言語による「境界」の獲得については以前の記事で触れているが、この境界がさらに細分化されているのが、「個人」という単位である。我々は「似通っている」我々同士を「区別」するために言語を用い、名づけを行う。名付けられた対象は、「私(I)」でも「あなた(you)」でもない言葉によって指示され、記述される。すなわち、より密な関係にある二人称の「あなた」より、また別のベクトルで「境界」が置かれて、「誰か」として定義されるのである。

そして、「誰か」の定義は、すなわち「誰か」自身にとって、あなたを「誰か」として定義してもらうということにもなる(他者による逆定義)。我々は、他者を他者として定義することによって、必然的に、その他者を定義し、なおかつその他者によって定義された「私」を強く感じるのである

では「何か」とは何だろう。これは、定義に付属する諸要素の総合的形態といえるだろう。私があなたを「A」という名前で定義したとき、そこには「A」に含めた様々な要素が折り重なっている。例えば、「A」は女性であり、良き友人であり、どのような見た目であり…また、ここで重要なのが、「A」は私にとって「何」であるのか。そのような、具体性を持たないある種の直感的関係。これこそが「何か」の正体である。

この直感的関係が「好きな人」「大切な人」というような具体性をもって、我々に強く訴えるのである。それは、不安定な定義の生みにさらされているこの「私」自身を、一人の他者として認識してくれるという強い関係であり、また、その「何か」という要素は、名付けられた「A」とそれに付随する外見的要素など以上に強い力を持つのである。私自身は私を「A」とは認識できない。私は私であること以上にそれ以外ではないのである。だからこそ、私は「何か」でありたいと願う。これが承認欲求の形態である。

そして、ここで示唆するべき面白い事実がもう一つ存在する。先ほども上げた「別の人の彼女になったよ」は、一見すると私という定義が変わっただけの、何の変哲もない事後報告のような疎外感を感じるが、曲の趣旨はもっと別である。すなわち「でもあなたのことが忘れられない」という、いかにも恋愛的な感情である。

もちろん、前の交際相手を思い出してしまう現象についての良し悪しの議論は、世俗的な場において幾度となくかわされているため、僕が取りざたする必要はないだろう。しかし、この事実は、「私」という存在のあまりに危うい揺らぎを表出させている。「私」は「誰かにとっての何か」でありたいと同時に、「誰かにとっての何か」ではいたくない。あくまで、「私」として「誰かの何か」でありたいという欲求である。

つくづく人間というものは、不思議な存在である。

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