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感染対策がもたらした分断を考える~魂への暴力的な侵入を許すのか?~

 マスクや注射など感染対策に対する考え方の違いで家族や親しい人との間に亀裂が入ってしまった。この3年間でそういう経験をした人は多いのではないだろうか。実際に耳にするし、私自身も、親しい人や通じ合えていると思っていた人達に対して言いようのない違和感を覚え、以前のように連絡を取る気持ちが減ってしまったことが何度もあった。

 どうしてこんなことになってしまったのか。私たちを分断したものは何なのか。考え方?価値観?いや、それをはるかに超えるものがある。その思いがますます強くなる。

 それを考えていくにあたり、一冊の本を紹介する。
「ワクチンの境界 権力と倫理の力学」 國部 克彦 著(神戸大学大学院経営学研究科教授) アメージング出版

 この本は、感染対策をめぐって、目に見えない権力が私たちの内部にどのように侵略してくるかについて書かれている。今行われている感染対策とは何なのか、私たちはどう向き合わなければいけないのかを明らかにしてくれる一冊であった。
 是非読んで欲しい一冊であるが、今回は、この本に影響を受けたことを明示した上で、考えていきたい。

 感染対策は、「生命と健康を守る」というにわかに逆らい難いプロパガンダにより押し進められた。疑いをはさむことすら許されない「空気」が醸成され、実際に異を唱えようものならプロパガンダの信者と化した大衆から壮絶な批判を浴びることになる。もはや行政そっちのけで民衆が苦しめ合っている。
 そして感染対策に疑問を挟んだ人が、最も身近な、あるいは信頼している(と思っていた)人からの批判にも晒されたとき、苦しみはさらに肥大する。
 これこそが、尊厳への侵略ではないか。

 この本の終盤の一文を引用する。
 「尊厳は、生物としての命を超えたものですから、命だけを守ろうとすると、尊厳はどんどん棄損されていきます。(238頁)」

 では、「棄損される尊厳」とは何なのだろう。
 私たちが、誰かと親密な関係を築くときに求める条件は何だろうか。
 もちろん年収や容姿を挙げること自体を否定はしない。が、やはり「価値観の一致」「性格の一致」を大事だと思う人は多いだろう。友人同士だって、価値観があまりに違う人とは一緒に居て楽しくない。
 では、価値観の包含する範囲とは何か。生きる上で優先することや仕事観、金銭感覚や文化、子育て・教育に関する考え方などなど数え出したらきりがない。
 しかし、それらの価値観とは、あくまで私たちが人生を自分自身で選択できるという大前提があってのことではなかったか?

 ところで、自分の存在を構成しているものは、同心円でイメージできる。一番表層の部分はそれこそ「外面(そとづら)」と言えるかもしれない。内側に進むにしたがって、社会的存在としての自分、家庭内の自分、さらには一人の人間としての自分から最も深いところにあるのが根源的な自我なのだ。

 そう、人間には、どれほど親しい人や愛する家族であろうと絶対不可侵の核の部分がそれぞれに存在すると、私は思っている。普段はその存在自体を意識することがないくらい、深いところにある。この「核」こそがが魂、尊厳という言葉で表現されるものなのだ。

 価値観とは、あくまでも核の部分が守られた上での、その上の部分の指標に過ぎないのではないか。

 一方、この3年間にわたり「感染対策」が要求してきた行動や規制は、その「自我の核」に暴力的に侵入してくるようなことだった。

 マスクを着用しなければ、注射を打たなければ、今まで当たり前であった権利がいとも簡単に奪われる。自由や権利と引き換えに己の核が「嫌だ」と言っていることを、強要されるのだ。
 それは、己の存在そのものを脅かすほどに暴力的であった。

 そしてそのやり方にも問題がある。「命」の一言を振りかざされ、しかもそれは自分の命だけではない。他人の、社会の命を人質のように振りかざされ容易に抵抗できないやり方で私たちの「自我の核」そのものの変容を迫って来たのだ。いきなり侵入されむき出しになった核心部分は、皮膚を剥がれたように激しく痛む。
 これが私たちが感じてきた痛みではないのか。

 それは、実際に暴力を受けたときの激しい心の痛みと極めて似ている。
 日本において、暴力事件の被害者になる人の数は少ないかもしれやないが(諸外国に比して)同じ思いの方はいるのではないか。
 私は、事件の被害者にこそなっていないが、仕事柄、時に暴力・激しい罵倒に晒される。身長190㎝を超える巨漢に掴みかかられ、もはやこれまでと思った瞬間もある。幸い、直ちに介入が入り身体の方は事なきを得たが(もちろん無傷ではない。無数のすり傷や皮下出血を後に確認する)、心臓が鷲掴みにわれたような苦しさ、ざわめきは容易に収まるものではなく、何日も私を覆う。
 私が暴力的な感染対策により感じる自分の内部の痛みは、まさにこのときの感覚と酷似していたのだ。
 
 そして「親しいと思っていた」「分かり合えていると思っていた」人が実は権力側と同じ色だったと分かったときにも、同じ痛み、苦しみに襲われる。

 かつて「分かり合えていると思っていた」ことは間違いではないだろう。分かり合うための前提条件が崩れたのだ。自分の核と、相手の核が全く違う色であることが分かってしまった。
「感染対策でいくら話し合っても意見が合わない」とは、そういうことだろう。
 考え方や価値観の範囲を超えているのだ。

 それでも、私たちは、自分の核を、尊厳を、自分で守らなければならない。
 これまであなたが感じた痛み、苦しみは、単なる考え方の問題ではない。あなたの魂がそれを拒んで叫び声をあげているのだ。
「冗談じゃない!」と叫んでいるのだ!
あなたの叫びは、正しい魂の叫びなのだ!

 「感染対策」とは、己の尊厳を棄損し得るほどに重大な問題であった。改めてその認識を踏まえ、「自分は」どうすべきか、考えなければならない。

 これは、私達に課せられた義務だ。

~おわり~

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