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細目で海を眺めて

 思えば私は今まで何度嘘を重ねてきたろうか。虚言を実現させる、そういった要領で僕は今まで生きてきたが、昨今というものはどうだろう。記憶を紡いでみると、私は自己の中に見ず知らずの、一人の人間を創出しているようなことをしている。それは私が思い描く自分ではなく、全く別の、国籍があるわけでもない、肌の色も分からず、ましてや言語を用いるかもわからない。もしかすると、デザインが感情の伝達に使われていて、もしかすると、モノクロームの世界で、もしかすると、色すらもなく、そこには何もない彼のみが生きる空間かもわからない。ただ自分自身の存在証明のため、虚妄の世界に実存を残す。

自宅のソファに深く腰を下ろしてながらふと目を上げたとき、世界遺産であるルーブル美術館の写真がうつる、何の変哲もないカレンダーが視野の中心に入った。

暦の上では桜の季節「四月」だ。

私には孤独が付きまとう。誰といても、どこにいても、それがたとえベッドシーンであれ、いついかなるときも僕には孤独という一人の自分がいる。

四月四日

僕はいつもの道を歩いていた。ここの大学を卒業してからすっかり三年がたつ。二十日大根のような新入生が歩いているのを見ると、毎年のことながらやはり春の訪れを感じるものだ。期待と不安でいっぱいになって、今にも小石につまずきそうな足取りだ。通り過ぎていく彼を横目に私はそそくさと行きつけの喫茶店へと向かった。

この店はいつも人がいない。それもそのはず、メニューはブレンドコーヒーだけ。そのうえ味もいたって平凡でこだわっている気配が一切見受けられない焙煎具合だ。店主も寡黙で愛想がない。人を惹きつけるような魅力は感じられない。それなのに何故だかこの店は長く続いている。そしてこの私もかれこれ四年間も世話になっている。定位置である窓側の席に座ると店主はいまどき珍しいネルドリップで珈琲を淹れ始める。たちまち店内にブラジル産特有の匂いが広がり、数分後、氷が三個入った水と年季の入ったコーヒーカップを、彼は無言で僕の前に置く。他人とのかかわりを一切絶ったかのような冷酷な目をした初老の男性。それでもコーヒーは運ばれてくるのだ。彼の手を介して。

この四年間、僕は大半をこの場所で過ごした。そして五年目もこの場所で過ごそうと決めている。そういえば、他人の顔色を窺う生き方をやめてしまったのもこの場所を訪れてからだった。世間一般では、自分の殻を破ったなどと、賞賛を受ける事が多いが、ぼく個人に関して言えば、決して良い変化とは言えない。一つの大きな武器を失ったと言っても過言ではない。僕は今までずっと二十五年間、他者との関わりを第一に生きてきた。目の前の人間にどうしたら喜んでもらえるか。気を悪くさせないためにはどうしたら良いか。そんなことばかりを考えていた。そしてそう動ける自分を誇らしくも思っていた。                    しかし、どうしたものか、いつの間にやら一切のそういったある種「自己犠牲」の感情を失くしてしまった。この空間の何が自分にどんな影響を与えたのか、それは全く検討のつかない事だが、この店の扉を初めて開けた時から徐々に今の自己が醸成していったことは違いない。

ある日、通院帰りに喫茶店へ立ち寄ると、張り紙がはられていた。四隅を貼るのが面倒だったのか、上の二箇所のみ貼られていて、風になびかれている。近づいてよく見てみると「暫く休業」と潔い字で書かれていた。カーテンの隙間から凝視して店内の様子をうかがうが、特に変わった様子はない。そして、なにより、マスターがコーヒーを淹れている。

(その姿があまりにも自然だったので気付くまでに時差が生じた。)

僕は不思議に思ったが、ここはそっとしておこう。彼も、僕と同じで、悩みがあるのだろう。

その数日後だった。朝起きて散歩を終えて新聞を読んでいたら、社会面三十一ページ目の右下に一段だけ設けられた記事が目に入った。死を伝える記事だった。

行きつけのマスターが亡くなるということは人生においてそうあることではない。本来ならば、涙するまではいかずとも、どこかで一抹の寂しさ、悲しみに苛まれるものだが、私はそうでなかった。ただ、その日の帰り道は少し遠回りをして帰った。ただ、それだけ。

帰り道、僕は一人の女性に遭遇した。ジーンズを履いて、レザーのジャケットを着ている美形の女性だった。偶然にも喫茶店で何度か見かけた美しい女性だ。

うろ覚えながらも根拠のない自信に背中を押され、「喫茶店で、見ました。」

交差する直前、ぼそっと私はつぶやいた。彼女は歩みを止めることなく過ぎ去った。波風が立つことは無かった。私はその場で立ち止まって考えた。聞こえなかったのか、それとも無視をされたのか、ただ今の僕にとってそんなことはどうでもよかった。屈辱感ともにどこか安堵感を抱きながら、私は足早に家路を急いだ。

夜、珍しくも一本の煙草に火をつけた。アルコールだけでは物足りなさを感じたのだ。死を意識した日に、敢行しきれず終わった自分が情けなかった。刹那的に生きると決めた一年でもあるのに。満月になりかけの中途半端な月に煙草の火を重ね合わせ、「簡単なのに」とつぶやいた。月が消滅したら地球はどうなるのか、潮の満ち引きがなくなり、夜は暗黒に包まれ、極端な気候が終始、人類が生活できなくなるそうだ。                       一度でもよいから月を燃やしてみたい。

そう思う。

僕はまだ陽が昇らないうちに目が覚めた。部屋は就寝前に淹れたコーヒーとタバコの匂いに支配されていた。窓を開けて、雨が降っていないことを確認し、僕は近くのコンビニへサンドイッチを買いに出かけた。今日は何をしよう、そんなことを考えながら歩いていると、偶然にも(今思えばあれは必然だったのかもしれない)昨日の彼女が路地からふと現れた。それがあまりにも急だったので僕は思わずうろたえ、彼女もまた、うろたえた。                        お互いに目を合わせ、会釈をして一緒にコンビニエンスストアまで歩いた。

「あなた、窓側に座る方ね。私もあの席が好きだったの。」

一言目にそんなことを言われた僕はどんな顔だったろう。困惑のあまりまたしても腑抜けた顔をしていただろう。

「そうなんだ。」

「ええ。三時を過ぎたころ、窓から差し込む光がとても美しいのよ。あの時間がずっと続けば良いのにって毎回思うの。」

「でも刹那的だから味わい深いのよね。」彼女はそう付け加えた。

「あなたはどうしてあの席に座るの?」

別れ際に言われた彼女の声が私の脳内で処理しきれず、いつまでも響き渡っていた。

マスターの死がときの流れを止めるはずもなく、私は変わらず暇を持て余し書籍や映画で月日を埋める生活を送っていた。彼女には先月以来一度も出会っていない。連絡先を交換したわけでもなく、ましてや居住地を知るはずもないので、会えるはずないのだが。  

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あの喫茶店が無くなった今、僕の居場所はこの索漠とした部屋だけだ。ただ、僕は人肌が恋しくなってきた。孤独と戦おうにも、そんな覚悟をこの僕が持ち合わせているはずがない。人間たるゆえんは一人で生きていけない「依存性」にある。その生来性こそが善にも悪にもなりえるのだ。                   私は街へ繰り出すことにした。なんでも今日は月曜日、天気は晴れ。息が詰まりそうだ。 風は強く、久方ぶりに整えた髪は外に出るや台無し。鬱積はたまっていくばかりだ。 時は進んでいても、それでもこの漠然とした気持ちだけは一向に進んでくれない。何をしたら良いのかわからず、夕方から営業をしているとある一軒のバーに入った。

スコッチを飲みながら呆然としていると、横にいた初老の男がほろ酔いで僕に話しかけてきた。

「お前さんどっかで見た顔だ。あれ、あっこの喫茶店じゃあねえか?」

たしかに、もう一度今度はしっかり顔を合わせると、どこかで見覚えのある男性だ。

「〇〇って名前の喫茶店だよ。ほらそこの。」

僕はどこかおかしいと思った。なぜならあの喫茶店には名前など存在していないものかと思っていたからだ。外観には一切看板などなく、店名などどこにも書かれていなかったはずだ。ただ、うろ覚えの記憶をたよりに話を遮るのはどうもきまりが悪いので

「そうです。あの喫茶店好きでね。暇さえあれば行ったもんです。」

「なんだ。過去のもののような言いぐさしやがって。」

話が微妙にすれ違っている。それぞれ思い描いている喫茶店が違うものなのではないかと疑い始めた。第一に、紛れもなくあの喫茶店は過去のものであるのだから。

「それはどこの喫茶店でしょうか。」僕は勇気を出して聞いてみた。すると

「なにをいまさら。あの二丁目の曲がり角をいってさ、近くに大学があるだろ。そこだよ」

僕はますますおかしいなと持った。なぜならその男性が指し示す場所こそがぼくの行きつけだったからだ。いつになく鳥肌が立ち始めた。僕は勢い任せにピート香のするウイスキーを飲み干し、店を後にした。

五月四日

朝から何だか妙な違和感を覚えたので、僕は気晴らしにどこか遠くへ向かう電車へ乗った。

行き先はどこでも良かったのだが、僕は気づいたら日本海の荒波を眺めていた。

タバコをふかしながらぼんやりと海を見つめる。白く透き通った猫が恍惚境を求めて歩み寄る。歩み寄った先には一つのカカシ。カカシを見てカラスは立ち止まり、人間か否か吟味する。矜持を捨てたカカシは手招きをする。このまま一生時が止まってしまえば良いのにとおもった。

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それにしても海を見たのは久方ぶりだ。大学生の頃、サークルの合宿で訪れた以来なので、数えると五年ぶりのことだった。陽射しが強く、目を十分に開けることもできず細めで眺めていた頃を記憶から思い起こした。今の僕はこの大海をくっきりと目を開けてじっと凝視する事ができる。あの頃から何も変わっていないと思っていた自分も、この「時」が止まっているかのような空間と比較すれば、多少の変化はあったことに気付かされる。

これで自信を持って現実に戻れる。

自らに言い聞かせながら僕はあの雑踏の世界に戻った。


彼女はそこで待っていた。答えを出せないまま僕はすれ違った。

彼女は何を言うでもなく、ましてや僕を引き留める様子もなく、立ち尽くすのみだった。幻影という言葉のなかを僕は彷徨い続ける。僕はどこか遠くへ来た。嘘偽りのない世界にやってきた。枝のように脆弱で、絶望すらも抱えきれず、人間として生きることを忘れたような人間が、僕と交錯する。

そして僕は喫茶店へと足を運ぶ。いつものように窓側の席へと座り、コーヒーとタバコのにおいが微かに香のように立ち込める。深煎りのコーヒーが運ばれてきて、私はカップに口をつける。店内を見渡してから、僕は文庫本を開く。

「黒塗りの成績表の中で、三角とバツが絡み合って、意気投合。」        冒頭の一文にはそう記されていた。マスターは今日も変わらずの表情だ。気難しい感じを装いながらも心持ちは僕らと同じだろう。なぜならここには僕らのような人間のみが入店を許されているからだ。

喫茶店フェイル。沈むにも沈み切れず、消化不足の我々が、生きるための。

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