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愛って何だっただろうかという覚え書き———Xで太宰治『創生記』の一節を見かけて

 愛の言葉は、説明を必要としないからこそ愛の言葉となるのだろう。

 恋人が愛を囁き合うとき、それがどれだけ人類史上で繰り返し用いられてきたフレーズであったとしても、それが特別な関係性の中でのジャーゴンとして特別な愛の幻想を可能にする。

 その幻想は、もはや歴史上で人間による自然支配を盤石にさせた「言語によってはじめて可能になる幻想」というよりも、互いに触れ合い、輪郭を確かめるようなフィジカルな行為に近いのではないだろうか。

 と、最近考えていたことが腑に落ちた気がした。

 もいちど言う、言葉で表現できぬ愛情は、まことに深き愛でない。むずかしきこと、どこにも無い。むずかしいものは愛でない。

太宰治『創生記』

 考え出してからこの一節を読み返して気付いたけど、「むずかしいものは愛ではない」の部分しか自分の考えと似ているところがないような気もする。けど、それはそれでいいかとも思った。

 重要なのは、簡単に言葉で表現できるはずだってところで、それが太宰と似ていたのがなんだか嬉しい。

 「文学部生で太宰治が好きなのはダサいか」と変に自意識拗らせてあまり人に言えなかったけど、やっぱり好きだ。いつも太宰は自分の先に立って大事なこと(なのかは知らないけど)を教えてくれる気がする。

 たんに感性(?)が近いだけの話なのかもしれないけど。

 あ、あと、この作品多分読んだことあるけど全く覚えてないし、流石に読み返しとこうかなと、忘れないように書いておく。

 いい一日だった。

 自分への戒めとして言葉を借りて、

 日々謙虚、日々感謝。

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