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麒麟が来る、のお話し

会社経営・心理カウンセリング・教育コンサルタント・人材育成(ヒューマンリソース)講演家、りゅうこころです。ryukokoro

今回は心理学の観点から『明智光秀』という武将について書いてみようと思います。

「天下の面目をほどこし候」

これは織田信長が明智光秀に送った賛辞です。しかしその二年後に光秀は本能寺で織田信長を討つことになります。ここまで信長に言わせた光秀が、なぜ?その動機は今だわかっていませんし、生年も定かではなく出身地さえ数か所あげられるほど不思議に満ちた武将です。

ビズリーチ!

歴史が苦手な人もいらっしゃるかと思いますので、私なりなるべくわかりやすく書いていきます。そもそもこの時代、現代の「ビズリーチ」みたいに「優秀な人材を確保する」という風習は皆無でした。馬鹿でもアホでも血筋とあらば何万石を背負わされ、責められ落城する。そんな時代に織田信長という人は初めて国を跨いで人材投与や人材育成をした人と言われています。

「そんな事をするから謀反を起こされて本能寺の変が起きたんだ」と言われる歴史学者さんが多い中、その当時誰もしなかったことをやった信長は凄いと思いますし、その目に留まった光秀も凄いと思います。他には皆様ご存じの秀吉なんかも目に留まった一人です。今回のNHKドラマ「麒麟が来る」の主人公は光秀でしたね。私はテレビを見ないので番組の事はよくわかりませんが、「光秀という人物は実に不思議な人だった」というのはわかります。

意外と何もかも不思議な人

1582年に亡くなった事はわかっていますが、何年に産まれたのかはわかっていません。同じ日本人なのに不思議ですね。光秀は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)とも呼ばれ、岐阜県美濃市の明智氏の出身とされていますが出自は不詳です。

織田信長に取り立てられ、1571年に近江国坂本城主となり、1575年からは丹波国攻略を任されます。ここまで読んでもう嫌になった人、近江とは有名な「近江牛」の近江で、丹波国とは有名な「丹波の黒豆」の丹波です。

織田信長に取り立てられるって凄い事なんですよ、すごく苦労して79年に丹波一国の支配を認められるのです。当時この黒豆で有名な丹波が、すごく厄介で大変だったみたいです。でも、この丹波っていう土地は農業が盛んでお米がよく取れたんですって。ほら、武将の偉さを図る言い方で「何万石」ってあるじゃないですか、あれってお米の税金ってことなんですね。だからお米が一杯取れるところを信長は欲しかったのです。でもみんななかなかできなかった、それを四年足らずで光秀はやっちゃうわけですよ。「あっぱれ、よくやった!」と言われて、秀吉と同じくらいの地位まで登ったわけです。

信長が行った「比叡山焼き討ち」はあまりにも有名な史実ですよね。これにも光秀は積極的に参加していたようです。そういう意味でも『情報を重んじて敵を叩く』という手法と考え方は、信長に一番近い考え方だったのかもしれません。


京都の亀岡光秀まつり

このお祭りは京都府亀岡市で行われ、市民から選ばれた「光秀」を中心に、約500人もの武者行列が練り歩くお祭りです。同じく、光秀の妻「煕子」も行列につらなります。壮観ですので一度足を運ばれると、『麒麟が来る』もより面白く見られるかもしれません。

有名な本能寺の変

さて、みなさん一番気になるであろう「本能寺の変」ですが、これは計画的ではなく偶発的ではないかという学者さん達の説があるのをご存じですか?光秀の共犯者や黒幕が存在していたという説もありますが、実際に織田信長を恨んでいる人間が多すぎて、誰がヨーイドンしたのか本当の所はわかっていないのです。

ただ、織田家の最大の危機管理ミス。この時代だから特にミスと言わざるを得ないのですが、1582年6月19日に信長が安土桃山城から京都に入り、信忠は入れ替わりで境に行くはずだったのに、ドタキャンですよ。京都に残ったのです、これには前日に接待の準備をしていた千利休も「え?」という状態です。信忠は17日、18日と夏でも雪の残る京都の山に登って修行していたらしいのですが、光秀もこの時同じ山に登っていた。ということは?

「なんだ、親子一緒に京都に居るのならチャンスじゃん!」となったわけです。ではなぜ謀反を起こして本能寺の変を起こしたのか。光秀さん、信長から結構酷い事をされていたんです。

織田信長にクレーム!

稲葉一鉄から信長に苦情が入りました。「あんたのところの光秀にさ、家来引き抜かれて困ってるんだけど、どういうこと?」信長は怒って、光秀の髪を引っ張り敷居に打ち付けています。「おみゃあ、なにやっとるんだて!!」という感じだと思います。武士の髷というのは命の次に大切なもの。それを掴まれて敷居に打ち付けられたら殺意が沸いても仕方ないのかもしれません。ちなみにこの時引き抜かれてしまった人は「斎藤利三」と「那波直治」だと史書には残っています。

ここでちょっとご紹介。明智光秀の産湯を使ったとされる井戸が、岐阜県恵那市の日本大正村にあります。見た人はびっくりされますが、井戸って直径1mくらいじゃないですか、普通。それがこの井戸、倍の2mくらいあるすごく大きな井戸なんです。柵もあり網もしてあって、間違って落っこちないようになっていますが、最近まで水があったとか。是非一度見て戴きたいポイントですね。こんな大きな井戸、他で見た事ないです。

さらに日本大正村資料館には明治・大正・昭和の教科書が展示してあったり、町全体がレトロな街並みなので歩いてみるだけでも趣深いものがあります。おすすめは『庵道(あんどう)』さんの創業31年前から変わらない味というハヤシライス。これには思わず唸ってしまうほど美味しいです。そして大正村浪漫亭の光秀ソフトプリン、これがまた美味しいのです。上から光秀醤油ソフトクリーム、なめらかプリン、地元伊藤養蜂場のはちみつと、美味しい三層構造になっており、インスタ映えすること間違いなしです。しかもソフトクリームに刺せる用の「明智光秀の旗」がもらえますので、インスタ映えに写真撮っちゃってください。

奥さん大好き光秀さん

光秀の奥様「煕子」は、顔に疱瘡の跡がありました。縁談の際にお会いしたものの、相手方の親御さんが『妹の方が綺麗だから、妹と結婚して』と光秀に言ったのですが、「僕が好きになったのは煕子さんなんだから、疱瘡の跡なんて関係ない!結婚する」と結婚したほど光秀は煕子さんを大好きだったようです。

「明智城が落城した時には身重の妻を光秀がおんぶして脱出した」なんて話も残っています。側室を持つことが当たり前なこの時代からすると、すごく珍しい奥様想いの旦那さんだったのです。ドラマチックですねー。

奥様のお話し

糟糠(そうこう)の妻と称えられる彼女についても諸説あります。実は「煕子」という俗名も最近なんだとか。光秀には3男4女がいて、3女の珠(たま)が細川家に嫁ぎ、あの有名な『細川ガラシャ』と呼ばれる人となりました。その愛妻家のカギとなるのが妻木城にあるとの事。煕子は明智一続と繋がる妻木一族の娘であったと残っています。

この妻木城跡で圧巻なのが、こんなのどうやって運んだのだろう?というとてつもなく大きな岩です。人間が小さく見えるほど大きな岩がすごい数あります。ピラミッドもそうですが、世界の不思議の1つです。しかも調べてみると、噴火によって固まった溶岩が綺麗に冷え固まり、それがうまいくらいに城を守る形になっていたと。「自然の地形を活かして敵を良く防ぐようになっています。ただ、この奥まで攻め込まれたら勝つのは難しかったのでしょう」と学者さんの意見ありです。

ここのところ暗いニュースばかりなので、ちょっとでも興味持ってもらえたらいいなーって思って書いてみました。

りゅうこころでした。ryukokoro

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5242文字の心理学士ならではの目線で書いた作品です。covid-19(新型コロナウィルス)で人間関係がギスギスしている今だからこそ読んでいただきたい。メンタリストと言われる私がどんな気持ちでお話を聞いているのか、子育てや人間関係に悩んでいらっしゃる方の少しでもお役に立つ事が出来れば幸いです。2980円です、カウンセリングを受ける事を考えたら特別価格でお値打ちです。

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