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オムツをつけたウルトラマン

最近、くだらないショート動画を食い潰す中でやけに脳裏にこびりついてるシーンがある。そこには2歳くらいの、おむつを履いた子供がウルトラマンの人形を片手に撮影者である父親に向かって攻撃する様子が映し出されている。子供の表情には敵意らしき物がくみ取れるが、おそらくそこに理由はない。
父親いわく、ウルトラマンを見せてから攻撃的な行動が増え、暴力を振るうようになったらしい。だけどその対象は人でなくてもよくて、例えばタンスとか、公園の遊具を攻撃対象と認識させるとそれでやり過ごせるようだ。

オムツを履きながら悪に正義の鉄槌を下すその姿は、おかしくもあり、可愛くもあり、そしてどこか小っ恥ずかしいような、そんな気持ちにさせてくれる。

まずは根源を

世の中にはいろんな答えがあるよな。物事ひとつとってもその見方は多角的だし、そこから湧き出る感情も多彩だ。だから本当のことを言えば、答えがないことそのものが答えなんだとボクは考えてるんだけど、それでも『より良い社会』みたいなテーマがあれば、その下に『今考えうる最適解』のようなものをくくりつけることはできるし、それを見出す作業は大事なことだとは思うんだ。

たとえばなにかの集団を運営する上でさ、『責任があるのに関わらず役割を果たしてないあいつ』がいるときに、「もっとこうすればいいのに」と思うことってあるでしょ。そういう時ってイライラしたり、悲しくなってしまうよな。

でも本当の問題は『あいつ』が役割を果たせていないことじゃなくて、『あいつ』にその役割を与えるしかない構造にあると思うんだ。
単純に言えばさ、『あいつ』に鞭打ちまくって地獄の特訓を強いるとか、もしくは精神と時の部屋で修行しまくったサイヤ人を莫大な報酬で雇って革命を起こしてもらうことで解決するかもしれないけどさ、不景気とか多様性でそんなことできなくなってきてるでしょ。だから組織は雰囲気でルールを決めながら形だけは何とか保てるように足掻いた結果、いびつで、しょーもないことに縛られながら『あいつ』をそこに置くしかなくなっているんだよ。

物事を正そうとするときに意志の力ってのは大抵無力でさ、死ぬくらいの覚悟がある時は別として、『あいつ』を変えたり消したりしたとしてもその構造の中ではまた似たような問題が生まれるんだよね。次は自分が『あいつ』になってる可能性だってあるんだ。
だからもう一旦、受け入れてしまう選択肢もあると思うんだよ。何かを変える能力がない自分も含めて、存在しちゃいけないものは存在しないから。

そして私を

『あいつ』が変われば全て良くなるって、たしかにそうかもしれないけど、それは果たして『今考えうる最適解』になりえるだろうか。それは無力な『あいつ』に手を差し伸べる余裕も能力もない自分を棚に上げてはいないだろうか。
自分がもしウルトラマンでさ、鼻くそほじるくらいの気持ちで無力な『あいつ』に手を差し伸べられればわざわざ怒らなくてもすむかもしれないよね。でも僕らはそんなのできないと思ってしまいがちだし、事実ほとんどできないだろうし、自分の強さを否定するのは苦しいから、『あいつ』が悪いってことにして、自分は何も悪くないって言いたいだけかもしれない。その行為に依存してしまってるのかもしれない。

どうしたくて、どうありたいの

多くのことを認めてしまうとすごく退屈なんだ。だけど生きていくんだったら何かしらしたいから、自分が何をしたいのかをまず考えなきゃいけないんだ。そしてその欲求には多分あまり種類はなくて、その中の一つに『強くなりたい』ってのがあると思うんだよ。物の分別がついていないおむつを履いた子供が夢中になってしまうくらいには、根本に近い欲望なんじゃないかな。
でも強さなんて言ってしまえば無限にあってさ、評価軸を一つ変えるだけで簡単に弱さと置き換わるじゃない。だから『どう、強くありたいのか』を次に決めてしまわなきゃ始まらないと思うの。そしてそのあり方と今の自分を見比べて、何がありすぎて何が足らないのかを考えるんだ。

そして私たちは

ボクもあなたもダメダメだけど、こうありたい自分がいて、そしてあなたがどうありたいかを考えた時に初めて『これから私たちはどうしていくか』の話が成り立つような気がするんだ。そこでお互いに妥協もありつつ納得のいくような答えが、とても小さな『今考えうる最適解』になると思うんだよ。

それは正解なんかじゃないかもしれない。だけどそれがわかった時、初めて見えるものもあるでしょ。

その先で、誰かにとってのウルトラマンになれたりするんじゃないかな。知らんけど。


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