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朗読劇『吾輩は猫である─はじまりの漱石─』感想

 2020年は新たな伝染病が世界経済に打撃を与え、私たちのに生活様式を大きく変えました。特に娯楽産業、劇場や美術館といった芸術の場には多くの人が集まることから一時は完全休業を余儀なくされ、日常を離れる楽しみを奪われてしまいました。そんな中での在宅勤務や外出自粛…これまでとは違う生活で楽しみもない中、私の心は荒み、精神的にも不安定になることがありました。

 現在も完全に病の流行が沈静化したとは言い難い状況ですが、少しずつ制限は緩和され、徹底した予防対策を行ないながらの芸術鑑賞はできるようになりました。今日はそんな中、一筋の光を求めるようにして出会った朗読劇『吾輩は猫である─はじまりの漱石─』についてご紹介します。

 はじめての朗読劇鑑賞であること、漱石についての予備知識も全く持ち合わせずの鑑賞であったことから、史実とは異なる箇所もあるかとは思いますが、個人的感想として捉えて頂けると幸いです。

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 この朗読劇は夏目漱石の処女作でありその名が知られるきっかけともなった小説『吾輩は猫である』を軸に、妻鏡子や友人正岡子規、そして門下生との関係を描いています。

 興味深いのは、漱石が生きた明治時代と私が生きる令和、全く違う時間軸ではありますが、この2つの時代は非常に似通った部分があるということです。漱石が生きた時代では結核は不治の病でした。そして性別や身分によって職業や生き方も決まっており、目に見えない様々な圧力も強い時代でした。現代も同じように、新たな伝染病となんとも形容し難い閉塞感に悩まされているように感じます。

 たしかにこの100年の間に私たち人間は、経済的にも科学的にも進歩し、精神的社会的自由を求めて邁進してきました。しかし日本の経済成長は頭打ちして久しく、より良い未来に希望を見出すことは困難になりつつあります。また、多様な価値観を受け入れる代償に、国家や家族によって与えられた唯一絶対の正義は緩やかになり、各人が己に合う生き方、心の拠り所を探し求め彷徨うようになりました。

 情勢も人の心も不安定な中、新たな流行病は追い討ちをかけるように、人と人とのかかわりまでを脅かしています。このような境遇下で、文明の利器により肥大化した自覚心は他人が自分より幸せであることを許さず、探偵のように人の粗を探し出し、過激な思想や行動に拍車をかけているようです。

 しかしそんな世界の物憂げさに身を委ねるのではなく、自分の心の中は、空想の世界では、明るくいたい、と私は思いました。

 どんな時代においても、人の心は同じです。自分の将来への不安や病や死に対する恐怖…悩みは尽きませんし、このご時世も相まって気持ちも塞ぎこみがちです。きっと漱石や子規も、同じことに悩んでいたのでしょう。彼等は100年前を生きた過去の人には到底思えず、今新たに息を吹き込まれ生き生きと眼前に現れたかのようでした。

 彼等はしかし、決して沈みきっていた訳ではありません。漱石と子規の文通には日本文学に対する熱い思いが、鏡子とのかけあいは喧嘩であっても面白おかしさがあり、そして猫の目から見た世界は必ずしも不安ばかりを捉えず、どこかカラッとした明るさを感じます。漱石は猫の目を通すことで、漱石をとりまく世間や漱石自身と向き合い、受け入れることができたのかもしれません。

 私は朗読劇を鑑賞して、今このような時だからこそ、自分自身を見つめ直し、身近な人とのかかわりを大切にしたいと思いました。私たちは知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまいますし、これ以上傷つかないように心を閉ざしてしまうこともありますが、その心を溶かすのもまた私たち人間です。どれだけ生活が変わろうと、私は私のままです。誰かと直接会うことが減ってしまった今だからこそ、人の心のあたたかさを忘れず、自分自身を見失わずにありたいです。

 そして時には日常から離れて芸術・文学作品に触れ、ちょっとした逃避行を楽しみたい。劇場のように皆が同じ空間で同じ時間、同じ空気を共有することがいかにかけがえのない貴重な時間であったか、痛感しました。その場所でしか味わえないわくわく感や臨場感は何にも代えがたいものです。今後どれほど科学技術が発展しようと、現場での直接的体験に勝るものはないと信じたいです。

 まだまだ予断を許さない状況ではありますが、このような素晴らしい公演を開いてくださったことに感謝です。オタンチン・パレオロガスにも、心に明かりを灯すことはできるはず。心おきなく芸術を楽しめる日々と、笑顔を見せあえる日々が戻ってくることを願って。

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