【一緒に長生きしませんか?時を掛けませんか?というゆる〜いお誘い。】

これは、ゆる〜いお誘いです。

ユル募ですね😆


昨夜、友人と長々と元首相の暗殺、現職首相の襲撃とそれに関する現代日本の病理についてラインで語ったのがきっかけで考えが1つ明確になったのですが。


問題の根底に、多くの現代人の「長生き」というものをどこかで嫌う傾向があるのではと、明確に感じます。


これは狭い私の人間関係からとった統計として成立しない統計ですが。


長生きしたいという願望を持つ人。

本当に少ないです。 

びっくりするくらいに少ないです。


日本人の平均寿命が

女性で87歳

男性で81歳ですので。


それまでに亡くなれば若死に。

女性であれば95歳くらいで亡くなっても「普通」の範囲内。

なので最低でも110歳はこえないと「長生き」の範囲に入らない、と私の中ではそういう感覚なのですが。。


漠然と「長生きしたい?」と聞くと、殆どの人は「そうでもない」、半分以上はさらに「長生きしたくない」と答えてくれ。

具体的に「100歳まで生きたい?」と質問すると、YESは一気にほぼ0になりますね。


となると、この狭過ぎる小松龍司統計によると現代人には長生き願望がほぼないという結果になります。

いや、「若死に願望」が異様なまでに強いと言い換えても良いかもしれません。


しかし、冷静に考えると。

テクノロジーとそれに附随する情報技術の爆発的進化により、人の生きる空間と時間もまた爆発的に拡大した。

これは認知可能な欲望の爆発的拡大ともいえます。

 

とても100年の人生では消化することも出来そうにない欲望。

「あれもしたいこれもしたい。あれも欲しいこれも欲しい」


なのに若くして死にたい。


必然的に圧倒的に不足するのは時間となります。


ますます時短やスピードというものは至高のものとなり、効率化に対してイケイケドンドン。


同時に二度手間を嫌います。


そりゃ失敗なんてのは恐怖ですね。


挫折なんてレベルの失敗になったら、自暴自棄にもなりましょう。


「だって時間が足りないもの。。。」


一国の少なくとも表向きは最高権力者を暗殺した若者、襲撃した若者。

あえて報道を真に受けるとしたら彼等は類稀なる真面目な人達と言えはしないでしょうか?

少なくとも彼等なりに真面目に考えたから大きな行動を起こした。

そして、良くも悪くも責任感が強いから。。「自分で」行動した。


真面目で責任感もあり、故に当然のごとく行動力のある彼らがなぜあんな「馬鹿な真似」をしたのか?

何が足りなかったのか?


と考えた時に、


挫折に対する耐性が無かったのではないかと考えるのです。

と、こう言葉にすると、あまりに陳腐な表現になりますので、試しに時間と文字数を掛けてみましょうか😁

ちょっとした実験です。


挫折。

全てが失われ、真っ白の状態に戻されたとき、人はどうせねばならないか?


それは、結局は再びゼロの場所から、イチから、小さな事をコツコツコツコツコツコツコツコツ積み重ねていくしかないのです。

必要なのは、膨大な時間と、その膨大な時間という財産を投資する度量と、忍耐が必要になるのです。


必然として長生きを願望するのではなく、覚悟せねばならないのです。

挫折前よりは当然、「必要な時間」が増えるからです。

挫折した場所から、本気で這い上がりそこから夢を描いて幸せな人生をもとめるのであれば。

そうなる。論理的に考えて。

挫折前よりは長く生きる必要がでる。挫折前に描いていたものを現実化するためには。


長生きを願望するのではなく、覚悟せねばならない。


(もう一つの方法は、欲を捨て、足るを知る。でも、これは難しい。ありっちゃありだが。ここでは論の外に出す)


そう考えるならば、挫折は人生においては当然あるものなので、そのような人生をおくるのであれば「長生き」というものは望む望まないのはなしではなく、案外、覚悟せねばならぬことだと言えるものかもしれません。


この「長生きに対する覚悟」こそが、挫折に対する耐性の1つの表現方法になるのでは?

と思うのです。

これが足りない。


「挫折に対する耐性が足りない」という言葉で済ませるにはあまりにも巨大な問題が明確になって、私も満足です。

せめてこの程度のことを明らかにすることなく、「挫折に対する耐性が足りない」というわずか数文字で流してしまうのは、思考停止でしかないということもよく分かった。

嗚呼、時間と文字数を掛けてよかった。


さて、話を戻すと、挫折から這い上がるには必然的に当初の予定より大幅に長生きする覚悟が必要になる。


なのに、「長生きしたくない」と強く思うのであれば。


どうすればいい?

時間がないぞ?

どうすればいい?

どうすればこの挫折から「逆転」出来る?


追い詰められた時に「魔」が指す。


「そうだ、逆転だ!ひっくり返せばいい。時間がないんだから、それしかないじゃないか!!」


と、こう考えたらある意味で論理的で理性的結末かもしれないのです。

ギャンブル的暴挙は。

一発逆転の手段として、人類史上最もポピュラーなダントツ第一位は。


暴力ですよね。

となるとある意味でお決まりのコースとも言えてしまう。


(話し合いは、時間がかかるのです。そして、成功しないとまた挫折になり、イチからやり直すしかないので。話し合いは時間がかかるのです)


しかし、本当はギャンブルにすらなっていない。悲しいかな、そのことに。。。当人は。。気付けない。


人類の歴史において、気が遠くなるほど同じ過ちが繰り返される。

そう、時間を掛けないのです。

暴挙も暴力も、それをやる人達は決まって時間を掛けないのです。

時間を掛ける勇気を持つことが出来ない。と言いかえることが出来るかもしれない。


よく、現代日本は1度挫折したら、もう戻れない「チャンスのない国」と表現されます。

それは制度の問題だと反射的に考えられがちですが。

私はむしろ、「長生き忌避」の現代人のあり方、そこから導かれる病的な「時間が足りない」マインド、時短万歳マインド、そこからくる挫折したらもう逆転満塁ホームランを狙うしかない!みたいなマインド。にこそ問題の源泉があるのでは?と疑っています。


そこにおいては、一部の「真面目で切実で責任感と行動力のある」人は暴挙に走り。

そうでもない人達は、あきらめる。


挫折した時に暴挙に奔る人と奔らぬ人の差はそこであり、本質的には同じなのではと感じ、そう考えたとき、自分もまた、予備軍であるという自覚はあったほうが良いとも考えゾッとするのです。

まぁ、私は250年生きるのですが。それをネタではなく、ガチのものとしてより強固に扱うことが大切だなと感じます。


なのでお誘いするのです。ゆる〜く。


私と一緒に長生きしませんか?と。

とりあえず控えめに150歳とかでも良いので😁


小さいことを、ゆっくり時間をかけて、少しずつでいいから積み重ねる。

途中で何かが起こって山が崩れても、何度でも時間を掛けて小さく、自分に出来ることをコツコツとやればいいじゃないですか。

そのためには元気でありさえすればいいのです。


「元気があれば何でもできる」


これは本当です。


時を掛けるのです。


砂場で一日中、山を作っていた子供は、何度悪ガキや雨風で崩されようが、ニコニコしながらイチから山を作っていた。何度でもです。


いつしか人は時を掛けることをやめ。


時を駆けるようになった。

それはそれでよいのですが。

それは強迫観念で自分を縛り付けてまでする必要はないと思うのです。


その時は、時を駆けるのを一旦、お休みして、時を掛けませんか。

長生きして、素敵なことをするためにいっぱい時を掛けませんか?

贅沢に生きませんか?

という、ゆる〜くて、馬鹿馬鹿しくて、そして割と真剣なお誘いです。


ブルーハーツの『情熱の薔薇』の歌詞を思い出し、少し涙が出て来たので。その一節を書いて終わるとしましょう。


なるべく小さな幸せと

なるべく小さな不幸せ

なるべくいっぱい集めよう

そんな気持ちわかるでしょう

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